9 望まぬ名誉の行末
「郡主様にご挨拶致します」
「楽になさい」
「感謝致します」
松香の甘く爽やかな香りが室内を満たす中、素月は三度目となる青陽郡主・蕭白蓮への挨拶を滞りなく終える。
「以前からお話ししておりました通り、本日お持ちした作品を見て、郡主様に判断していただきたいのです。この者に、殿下の仕立てを任せて良いかどうかを」
花仙楼の楼主・董娟如は、白蓮に男物の常服を差し出す。
素月が丁寧に、妥協を許さず仕立て上げた常服だ。娟如が合格点を出したので、郡主相手に見せても問題はないだろう。
その点に関しての不安などは一切ない。
ただ素月は、斉王の担当になりたいわけではないので、不合格を言い渡されても構わないと思っている。
「──見事な腕前だこと。まことに弟子入りして三年なの?」
「左様でございます。元々、刺繍の基礎はできておりましたが、技を習得する速度が常人よりも優れているようなのです。努力も惜しみませんし」
娟如は優しい女性だが、刺繍に関しては厳しい。
その娟如が、人前でも堂々と素月を褒める。
花仙楼で働く繍女にとって、楼主に褒められることは光栄なことで、素直に喜ぶべきだ。
素月だって、これが花仙楼で褒められたのであれば遠慮なく喜べた。
だがここは斉王府。褒められれば褒められるほど、素月が望む方向とは真逆に進んでいきそうで怖い。
「本人はどうなのです? 斉王の衣を仕立てるとなると、細心の注意を払う必要があるのですよ」
白蓮の視線が、素月に向く。
斉王時に、宮廷へ赴き皇帝に謁見することもある。
その際に纏う衣が、自分が仕立てたものである可能性は十分にあり得ること。軽い気持ちで引き受けるべきではない。
素月は素直な自分の気持ちを白蓮に告げることにした。
「弟子入りして三年。楼主からはお褒めの言葉をいただきますが、わたくしめには荷が重いと感じております」
素月は今の働き方に満足している。
時々、令嬢たちの吉服や常服を仕立て、普段は花仙楼の奥にある作業場で刺繍に没頭する──そんな日々を送れれば良いのだ。
娟如の一番弟子と呼ばれるのは光栄なことだとわかってはいるが、素月は上を目指したいわけじゃない。
この日常が続くこと、それだけが望み。
だというのに、白蓮の言葉はそんな素月の望みを打ち砕くものだった。
「謙虚な姿勢は好ましい。──腕前は文句の付けようがなく、図案も洗練されている。息子はこういったことに無頓着だから、わたくしが良いと言えば反対などしないでしょう」
これは、まずい。
白蓮は素月の気持ちなど知る由もなく、素月が聞きたくない言葉を続ける。
「来月、秋の園遊会が開催される。その際の吉服を任せてみましょう。楼主、それで良いかしら?」
「異論はございません。素月、郡主様にお礼をなさい」
「…………感謝、致します」
不承不承──それを表面に出さないよう気をつけながら、素月は跪き、頭を下げる。
こうなるとわかっていたのなら、手を抜けば良かった?
いや、そんなことをすれば、娟如に簡単に見抜かれるし、何よりも手を抜くなんて素月にはできない。
繍女として働き、娟如に正式に弟子入りすると決めたあの日から、どんな小さな作品であろうとも、手を抜かず、真摯に向き合うと決めたのだ。
その結果が、これ。
素月は自分で自分の性格を恨めしく思う。
「では殿下の採寸をしなくては。いつ頃お戻りになられますか?」
「それは母であるわたくしにもわからぬことだわ。仕事ばかりの息子だから。話を通しておくゆえ、大理寺へ赴きなさい。そこならば確実に会えるでしょうから」
「大理寺へ、ですか? お仕事の邪魔になってしまうのでは?」
「滅多にない母の頼みです。黙って聞くはず──聞いてもらわねば困るわ」
白蓮は苦笑し、熱いお茶に手を伸ばす。
娟如と話している間、ずっと放置されていたお茶はとっくの昔に冷えているはずなのだが、さすがは斉王府の侍女といったところ。冷えたお茶は、知らぬ間に淹れ直されている。
素月は優雅にお茶を飲む白蓮を、複雑な心境で見つめることしかできなかった。
◇◆◇◆◇
花仙楼に戻った素月を出迎えたのは、満面の笑みを浮かべた錦児だった。
「合格したでしょ?」
「……一応、そうみたい」
素月が合格をもらえることを、錦児は確信していたらしい。
「明後日、大理寺へ行って採寸することになったわ」
「大理寺へ行くの? 斉王府ではなくて?」
「忙しい方らしくて、いつお屋敷に戻るのかわからないんですって。だから職場に出向くことになったのよ。郡主様が話を通してくださるらしいから、大丈夫だとは思うけれど……」
大理寺の場所は知っている。
先日、ある男を送り届けたから。
ただ中に入ったことはない。
どんな場所なのだろうか?
それよりも、斉王がどんな人なのかも気になる。気難しい性格じゃないことを願うばかりだ。
「一人で行くの?」
「それは……わからないわ」
斉王府から花仙楼へと帰る馬車の中、娟如からは色々な注意事項を聞かされた。
園遊会のための吉服は、なるべく他の皇族と色などが被らないようにすること。刺繍は華美すぎても、控えめすぎてもいけないこと。扱う生地や糸も、きちんと厳選すること。
そして着る本人──斉王の品位を落とすことなく、本人の好みに添うものであること。
あまりにも気をつけることが多すぎて、まだ何も手をつけていない状態だというのに、既に頭が痛くて気が重い。
「一人で殿方の採寸をするなんて、良くないわ。楼主に言って、私が同行できるようにしてもらう」
「それは助かるけど……良いの?」
「都中の娘が恋焦がれる斉王を間近で見られる機会なんて、早々ないもの。目の保養になるわ」
ふざけたように笑う錦児に、素月は呆れた笑みを返す。
錦児の本心だとは思えない。素月を気にかけて、適当に誤魔化すために言ったのだろう。
錦児は素月と同じく十八歳。結婚を意識してもおかしくない年齢だが、素月同様、本人にその気はない。
恋よりも、仕事の方が楽しいのだ。
だから一緒にいて、気が楽なのだろう。
今まで友と呼べる存在とは無縁の生活を送ってきたけれど、錦児のことは素直に「友」と呼んでも良いような気がする。
こんな日々が、いつまでも続くといいのに──。




