8 兄と妹、あるいは皇子と公主
月明かりの下、妹の素月は刺繍に没頭している。
その姿は兄である素弦にとって、見慣れた光景だった。
万華国に来たのは八年ほど前になるだろうか?
国都である天香に住むようになったのは五年前だったはず。
「年頃、だな」
「何か言った?」
無意識のうちにこぼれてしまった素弦の言葉は、素月の耳に届いてしまったようだ。
「近所のおばさんたちに、最近よく縁談の話をされるんだ」
適当に誤魔化そうかと思ったが、相手はたった一人の妹なのだ。正直に胸の内を曝け出しても問題はない。
「兄上の?」
「両方、だな。──お前の方が多いけど」
素弦はもうすぐ二十三になる。
そして素月は十八を迎えた。
女子の十八は、嫁ぐには良い年頃だ。貴族だろうが平民だろうが、このぐらいの年齢になれば両親が相手を見つけてくるもの。
だが素弦と素月には両親がいない。親戚も。
それを近所に住むお節介なおばさんたちは知っているから、縁談の話を持ってくるのだ。
気にかけてくれるのはありがたいが、正直、縁談の件については余計なお世話でしかない。
誰にも話したことはないが、素弦も素月も、結婚する気などないのだ。
娶らず、嫁がず、この人生を終えるつもりでいる。
「何度も断れば、そのうち諦めるわ」
抑揚のない声で素月は言うが、素弦はその意見に同意できなかった。
素月は美しい。
最低限の手入れしかしていないが、長い黒髪は艶があり、しっとりとしている。
いわゆる濡羽色と言われる青みを帯びた黒髪は、きちんと手入れをすれば今以上に美しく輝くことだろう。
その黒髪は、素月の生まれ持った肌の白さを更に引き立てる。
素弦も素月も、生まれつき肌が白い。屋外で仕事をすることが多いため、素弦はそれなりに日焼けをしているが、それでも同年代の男たちと比べれば白くなめらかな肌質をしている。
だが妹の肌の白さとなめらかさには到底及ばない。針仕事をしているため指先は荒れているが、そんなことなど気にならないほど、素月の肌は白く透明感があり、柔らかく弾力がある。
もちろん顔立ちだって申し分ない。幼い頃から整った容姿をしていたが、成長するほどにその美しさは増していった。
少しばかり鋭く力強い瞳が、初対面の相手に気の強そうな印象を与えてしまうし、抑揚のない話し方や無表情で愛想がないと思われてしまうが、かえってそれが、ただの繍女とは思えぬほどの高貴な雰囲気を放つ。
これだけの美貌を備えた年頃の娘を、誰が放っておくだろうか?
実際、素月に好意を抱いている者を、素弦は何人も知っている。
素弦を通して近づこうとする者もいるが、そんなことを素弦が許すはずもない。
──誰も素月の隣には立てない。立てるはずがないんだ……。
素弦は妹を照らす月に目をやる。
夜空に浮かび、どんな星よりも強く輝く真白い月。
今夜は雲がないから、月がよく見える。
こんな夜は、十年前のことをつい、思い出してしまう。
「よくないことを考えているわね」
声をかけられ、素弦は月から妹へと視線を移す。
妹──素月が真っ直ぐにこちらを見ていた。睨むように。
「……思い出すんだ…………あの日のことを」
「……忘れるのは難しいことだから、仕方がないわ」
「忘れるべきじゃないだろう。僕たちは生き残ったんだから」
なんとも言えない感情が湧き上がる。
素弦は十年前の記憶を、ゆっくりと辿るように思い出す。
◇◆◇◆◇
十年前、「皓」という名の国が滅んだ。歴史ある国だった。
滅んだ理由は、隣国の「蒼」に侵略されてしまったから。
皓国は国土と民を守るために奮闘したが、蒼国は大国だ。
皓国の武人は皆例外なく一騎当千と大陸に名が知れていても、数の暴力に勝てるはずもない。
蒼国の軍勢が宮廷にまで押し寄せてきたのは、雲一つない、月が煌々と輝く真夜中のことだった。
あの夜、後宮では皇后が自身の娘を逃がすため、一人の皇子を護衛に選んだ。
寒王・皓煒暁──当時まだ十二歳だった少年は、皇后の命に従い、異母妹である霽鏡公主・皓佳月の護衛を引き受けた。
あの時、皇后が何故、煒暁を護衛として選んだのか──それはきっと、煒暁の実母が皇后を実の姉のように慕っていたから、だと思っている。
どんな国であれ、後宮で諍いが起きないなんてことはありえないが、煒暁の母は争いごとを好まない性格だったし、何よりも皇后に対して深い敬愛の念を抱いていた。
皇子を産んでも、決して威張ったりせず、常に皇后に立てて行動していた母。
そんな母の元に生まれた自分を、皇后は目をかけてくれていた。
だから自分は選ばれた──そう思っていたのだが、後にその理由をもう一人の──実質こちらが本当の護衛なのだが、その護衛が教えてくれた。
──よく言えば殿下は争いごとを好まない温厚な性格、悪く言えば勇ましくないのです。武人には向きませんが、生き残る道を選ぶことができる方なのですよ、殿下は。公主様を死なせないために、皇后様は最適な方を選ばれました。
そう、煒暁は生来、争いごとを好まない。
嗜みとして剣や弓を学びはしたが、戦場へ赴きたいなどと考えたことは一度もなかった。
しかし皓国の皇族に生まれた以上、男子は皆、武人になることが決まっている。自分もいずれは、成人した異母兄たちと共に国境に配属されるのだろう、と思っていた。
だが人生とは不思議なもので、煒暁は戦場に立つどころか国境に配属されることすらなく──今は万華国の国都・天香の工房で働き、皓煒暁の名を捨て、「素弦」として生きている。
そして異母妹である霽鏡公主・皓佳月は、「素月」として花仙楼の繍女という新たな人生を歩んでいる。
ただ残念なことに、護衛の高子白は天香に辿り着く前に命を落としてしまった。六年前だっただろうか。
素弦たちが名を変え、ただの市井の民として生きることができるよう、奔走してくれた。
素弦からすれば子白は師であり、兄のような存在。亡くなったのは六年前だが、実は遺体を確認していない。
そのこともあり、素月には隠しているが、素弦は子白の存命を信じ、今も探し続けている。
そしてもう一人──世話係として共に皓国を脱した侍女・張淳雪は、「胡蝶」という名で丹花楼にて二胡を演奏している。
丹花楼は妓楼であるため、通常であれば客を取らねばならないが、淳雪は自らの顔に傷をつけた。顔に傷がある女子を娶ろうという物好きはそうおらず、また妓楼においても客を取るのは難しい。
素弦は今でも覚えている。
淳雪が自らの美しい顔に傷をつけたときのことを。
淳雪は侍女ではあったが、皓国の貴族の家に生まれた。
そんな淳雪にとって、妓女として働くことは屈辱的だが、子白が亡くなった後、自分以外に稼げる大人がいないことから、その屈辱的な道を選ぶしかなかったが、せめてもの抵抗として顔に傷をつけた──そう素弦は思っていたのだが、多分、真実は違う。
淳雪は純潔を守りたかったのだと思う。
子白のために。
二人が恋仲だったかどうか、それは当人同士にしかわからないことではあるが、少なくとも淳雪は子白を慕っていたと思う。
きっと素月も、そのことに気づいているはず。
「淳雪は元気だったか? 今日、会ってきたんだろう?」
「──元気だったわ」
少し間があった。何かあったのだろう。
だが素月が話さないということは、大したことではないか、既に解決しているかのどちらかだ。
「たまには僕も顔を見せないと……」
工房が忙しくて、毎日職場と家の往復ばかり。
それで良いと思っているが、大切な人たちのことを疎かにしてはいけない。
いつ会えなくなってしまうか、わからないのだから。
「兄上、もうすぐ誕辰でしょう? 淳雪も呼んでお祝いしましょう」
「誕辰? ……もう一年経つのか……」
不思議なことに、「皓煒暁」として生きていた頃よりも、「素弦」として生きている今の方が、時間の流れを早く感じる。
毎日を必死に生きているからだろうか?
皇子として生きていた頃は、当然ながら衣食住に困ったことはない。
だが今は、自分で自分の食い扶持を稼がねばならず、昔よりもずっと、「生きている」感じがする。
「二つの人生を歩んでいる気分だな……」
きっとそれは、淳雪や素月も同じだろう。
一つの人生が終わり、新しい人生を生きている──十年前には想像すらできなかった「今」。
どうかこの「今」が何事もなく、平穏に過ぎていってほしい。
素弦が願うのは、ただそれだけだ。
それだけでいい。




