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3 一番弟子が抱く懸念


 休憩から戻った素月は、帳面を持って楼主である董娟如の部屋を訪れる。

 錦児も仕入れのことで話があるらしく一緒に来たのだが、娟如は見るからに疲れた様子で椅子に深く座り込んでいた。


「楼主? 何かあったんですか?」


「何か……まあ、色々あったわ」


 錦児が労うように、机に置かれた茶杯に水を注ぐ。

 それを娟如は受け取り、少しずつ口に含み、喉を潤していく。


「李夫人とご息女が、ようやく帰ってくださったのよ」


「ようやくということは……ついさっきまで、店にいたということですか?」


「そうよ」


 なるほど、と素月と錦児は顔を見合わせ納得する。

 娟如が疲れている原因は、あの二人を今の今まで相手していたからなのだ。


「他の客を後回しにして、自分たちを優先しろだなんて……」


 娟如はこめかみを押さえ、茶杯に口をつける。茶杯が空になると、錦児がもう一度、水を注ぐ。


「生地や図案の注文も無茶苦茶で……。こんなにも疲れたのは久しぶりだわ」


 面倒な客の相手は、今回が初めてではない。

 娟如が花仙楼を国一番と呼ばれるほどの繍坊に成長させるまで数え切れないほどの苦難があったが、それら全てを乗り越えてきた。

 多少のことではへこたれない。


 そんな娟如ではあるが、李夫人と李淑の相手は相当、大変だったようだ。


「癇癪持ちのわがまま娘って話は本当だったのね」


「お客様のことを悪く言いたくはないけれど、わがまま、というのは本当ね。──素月、帳面を」


 姿勢を正した娟如は、素月から帳面を受け取ると、机に用意されていた筆を手に取り、帳面に何やら記していく。


「素月が担当するのですか?」


「私が担当するわ。素月には別の注文をいくつか頼んでいるから」


 娟如の言葉に、素月は内心、安堵した。

 娟如をここまで疲れさせた相手の注文は、正直言って、担当したくない。

 どんな力作を用意しても、文句を言われそう。


「錦児、これを用意できるか仕入れ先に確認してちょうだい。多少、値が張っても良いわ」


「わかりました。──うわぁ……」


 帳面は錦児に渡り、錦児は記された内容を確認すると、渋い顔をした。手に入りにくいものでも記されているのだろうか?


「素月、明後日の準備は滞りなく進んでいる?」


「はい、問題なく。明日、最後の確認をお願い致します」


「わかったわ。あなたには先に伝えておくけれど、明後日──郡主様がお認めくださったら、斉王殿下を担当してもらおうと思っているの」


「斉王殿下、ですか?」


 まさか同じ名を、一日に二度も聞くことになるとは。

 しかも違う相手から。


「今、あなたに任せている郡主様の襦裙──それを郡主様がお認めになれば、殿下の常服を仕立ててもらうわ」


「素月なら問題ないわよ。楼主の一番弟子だもの」


 錦児がにっこり微笑むが、素月は素直に喜べない。

 花仙楼で働くようになって三年。

 娟如は素月に才能があると見込み、三年間、直々に指導をしてくれた。

 そのおかげで、今では娟如と共に貴族や裕福な商家などに出入りし、様々な服を仕立てる機会を得た。


 それは嬉しいことだ。認めてもらっている証だし、何よりも楽しい。


 とはいえ素月は、娟如の期待にどこまで応えるべきなのか、と最近は悩みつつある。

 素月が求めているのは、平穏だ。

 兄と二人、穏やかに暮らしていければそれでいい。多くは望んでいない。


 だがこのまま娟如の期待に応え続けていたら、その平穏からどんどん離れていってしまうような気がするのだ。


「不安なの?」


「そういうわけじゃないんだけど……」


 無言の素月に、錦児が心配そうに声をかける。


「気負うことはないわ。あなたも知っての通り郡主様は優しい方だし、殿下も難しい注文をするような方ではないから」


「はい……」


 斉王府には何度か足を運んでいる。

 郡主──青陽(せいよう)郡主・蕭白蓮(しょう・はくれん)は穏やかで上品な女性だ。

 楼主とは旧知の仲らしい。


 だが斉王府の主人(あるじ)である斉王に会ったことは一度もない。大理寺少卿であるため、日々、忙しくしているのだろう。

 いつ伺っても、不在だった。


「もう少し休むわ。二人とも、仕事に戻りなさい」


「はい、失礼します」


「失礼致します」


 二人は一礼し、揃って部屋を出る。


「あんなにも疲れてる楼主、久しぶりに見たわ」


「……そうね」


 少しばかり心配になるが、娟如はたくましい女性だ。

 すぐに復活するだろう。


「ああ、そうだ。私、これから注文の品を丹花楼(たんかろう)に届けてくるわ」


「胡蝶さんの注文?」


「ええ、そう」


 丹花楼は都の西、冬花(とうか)区にある妓楼の名だ。

 そこで働く胡蝶という名の二胡の名手から、素月は定期的に注文を受けている。


「胡蝶さんって太っ腹よねぇ。私も何度か会ったことあるけど、品が良くて穏やかで……。こう言っちゃ悪いけど、妓楼には似つかわしくないのよね」


「そう、ね」


 最初の頃、妓楼に一人で行くもんじゃない、と錦児が付き添ってくれたりもしたけれど、今はもう、一人で品物を届けに行くと言っても、心配されなくなった。


「私はこれから、頼まれたものの確認をしてくるわ。在庫があれば良いけど、無かった気がするのよね」


 先ほど娟如から受け取った帳面を開き、錦児は苦い顔をする。


 錦児は生地や糸の仕入れなどを娟如から任されており、在庫の管理も行なっている。

 繍女であることは間違いないのだが、経理の方が向いていると本人も自覚しているらしく、最近は針よりも筆や算盤を持つ日のほうが遥かに多い。


 いずれ、花仙楼の経営を任されるのでは、と他の繍女が話していたが、素月もそうなんだろうな、と思っている。


「気をつけて行ってきなさいよ」


「大丈夫よ、心配しないで」


 いつものように注文の品を届けるだけだ。

 何も起こるはずなどない。


 そう思っているのだけれど、実のところ素月が心から望む平穏は、本人も気づかぬうちに静かに緩やかに、けれども確実に遠ざりつつあった。


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