20 意地悪な親友
錦児は足の痛みのせいで少しばかり歩みが遅いが、皇太子・徐徹も、その護衛である桓遠も文句を口にしたりはしなかった。
「こちらが工房でございます」
花仙楼の案内をするのは、慣れている。
新人が入るたび、何度も案内をしてきたのだ。
ただ皇太子を案内する日が来るとは思いもしなかったけれど。
「若い娘だけかと思っていましたが、そうではないのですね」
声を発したのは、護衛の桓遠だった。
「そうですね。──いろんな事情を抱えた者が、ここにはおりますので」
花仙楼で働くのは全員女性だが、年齢は様々だ。錦児や素月のように若い娘もいれば、子持ちの女性もいるし、なんなら寡婦もいる。
「衣の色が違うのは、何か理由があるのか?」
工房の中を軽く案内していると、徐徹から問いかけられた。
「水色の衣を着た者は、店に立ちません。工房で刺繍の作業に集中します。逆に私のような桃色の衣を着た者は、店先に立ち接客を行います」
「では、そなたは刺繍ができないのか?」
「いえ、接客には向き不向きがありますので、役割を明確にするために衣の色を変えているだけでございます。花仙楼の者は皆、きちんと刺繍の腕を日夜磨いております」
接客とは案外難しいもので、笑顔でいれば良いというものではない。客の顔と名前はきちんと覚えつつ、聞き上手であるべき。場の空気を読む力も必要。
何より、接客をするのであれば精神が強くなければ。
花仙楼は名のある繍坊であるため、毎日いろんな客が訪れる。
先ほどの李旦ほどではないにしても、面倒な客は来るものだ。
それを毎日のように相手にしていると、心に負担がかかる。
なので桃色の襦裙を着ている繍女は、意外にも花仙楼の選ばれし繍女、という見方もできるだろう。
実際、桃色の襦裙を着ている繍女はそう多くはない。
「董楼主は刺繍の達人と聞いております。その楼主が育て上げた花仙楼の繍女は、尚服局の宮女にも劣らぬとか」
桓遠はそれなりに花仙楼とその楼主・董娟如について知っているようだ。
この時代、女性が独り身のまま生きていくのはとても難しい。
娟如の年齢ならば、結婚して子どもがいてもおかしくはないが、娟如はその道を選ばず、繍坊の楼主として生きていく道を選んだ。
その道がどれほど険しかったか、錦児はよく知っている。
錦児の母は、娟如の友だったから。
錦児は幼い頃から、まだ花仙楼が有名でない頃から店に出入りしていた。
母は刺繍の腕が良く、娟如とも親しかったこともあり、花仙楼で働いていたが、錦児が六歳の頃に病で亡くなってしまった。
父は錦児が生まれてすぐの頃に亡くなっていたので、母を亡くした錦児には頼る相手がおらず途方に暮れていたのだが、娟如が引き取って、母と一緒に暮らしていた花仙楼の寮にそのまま住まわせてくれた。
錦児にとって娟如は恩人で、花仙楼は家なのだ。
だから花仙楼を馬鹿にされると、腹が立って仕方がない。
「聞いたところによると、素月殿は楼主の一番弟子だとか。まことですか?」
「さようでございます」
桓遠に問いかけられ、錦児は即答する。
「素月殿は、ここで長く働いているのか?」
「三年ほどになります」
「三年で一番弟子になるとは……優秀なのだな」
感心したように頷く徐徹を見て、錦児はすぐに勘付く。
今まで何人もの客を相手にしてきたのだ。
その経験と直感が告げている。
皇太子が繍女に関心を抱いている──。
錦児はなんとも言えない気持ちを隠そうとするあまり、険しい表情を浮かべてしまった。
錦児は好んで読まないが、若い娘の間では身分差を超えた恋物語が昔から流行っている。
なんなら既に夫と子どもを持った女性でさえも、そういった物語を読むのだとか。
阿葉あたりも読んでおり、よく「いつかあたしも玉の輿に乗ってやる!」と、同僚たちの前で堂々と宣言している。
──ばかばかしい。
そんなもの、ただの夢物語でしかない。
それに女は、男の庇護下でしか生きていけないのだろうか?
娟如は女性でありながらも、こうして国一番と評される繍坊を作り上げた。
玉の輿──結婚だけが女の幸せではない。
錦児は結婚や出産よりも、娟如のような道を選びたい。
「ええ、素月はとても優秀ですわ。本人も努力を惜しみません」
きっと素月も、錦児と似たような考えを持っている。きちんと話したことはないが、そんな気がするのだ。
「いずれは楼主の技術をすべて受け継ぎ、ここ花仙楼の顔となることでしょう」
「……それはつまり、嫁がない、ということか?」
聞きにくそうに、けれども聞かずにはいられなかったのだろう。
徐徹が少しばかり不安そうに問いかけてきた。
「すべては本人次第ですわ。──殿下が気になさるようなことではないかと」
「そ、そうだな……」
自分は意地悪だ。
錦児は心の中でそう思った。
皇太子と平民の恋──物語としては上出来。
むしろありきたりとも言える、何度も使い回されてきた設定だろう。
徐徹が素月に対してどんな感情を抱いているのか。
錦児にはわからないけれど、多分それはまだ、おぼろげだ。
ならばどうかそのまま、気づかないでいてほしい。
皇太子が望めば、どんな事情を抱えた娘であろうと、簡単に後宮へ迎え入れることができる。拒むことなど許されない。
錦児は後宮のことなど詳しくはないけれど、良い話は滅多に聞かない。
そんな場所に、親友を行かせるわけにはいかない。
どうせ後宮へ入っても、苦労するだけだもの……。
ただの繍女。お手つきとなれば身分が与えられるだろうが、たかがしれている。
今は夢中でも、男の心は簡単にあちらこちらへと飛んでいく。
「素月殿が大事なのですね」
「え……」
まるで錦児の心を見透かすような目で、桓遠がこちらを見ている。
「そうですわね。とても大事ですわ。──親友ですもの」
一瞬、反応が遅れてしまったが、錦児は使い慣れた接客用の笑顔を浮かべ、はっきりとした声で桓遠に言葉を返す。
そう、あの子は親友なの。
だから不幸にならないでほしい。苦労なら一緒に背負えるけど、遠く離れてしまったら分かち合うことなどできやしない。
錦児は痛む足のことなど忘れて、二人を次の見学先に案内するため歩き出す。
なるべくゆっくり案内しよう。
斉王と素月の話が終わった頃に戻れば、徐徹は斉王と一緒に花仙楼を去る。
そうしたらもう二度と徐徹が花仙楼を訪れることなどなく、素月のことだってすぐに忘れてしまう。
やっぱり自分は意地悪だ。
けどこれは素月のためで、同時に徐徹のためでもある。身分差のある恋など、苦しむだけだ。
その恋心は、自覚する前に消し去ってしまうのが良い。




