2 野心ある母の思惑と、わがまま娘の本音
侍女が絹の薄い夏用の帔帛を主人から受け取るのを視界の端に捉えつつ、素月は採寸の準備を始める。帳面を開き、筆と炭を揃え、巻尺に手を伸ばす。
採寸はもう、何十回と行ってきた。慣れた作業とはいえ、手を抜くことはない。
誰が相手であったとしても。
「失礼致します」
素月は巻尺を手に取り、自分と同じ背丈の少女に一礼する。
素月の目の前に立つ少女の名は、李淑。郢国公の娘で、本日の大事なお客様。
李淑の黒く艶のある髪はしっかりと結い上げられ、金と翡翠の歩揺が、持ち主の動きに合わせて揺れる。肌は若々しくはりがあり、まだ幼さの残る顔は愛らしい。
錦児の話だと、李淑は今年で十六歳。国公の娘でこの年齢ということは、そろそろ縁談の話が出る頃だろう。
「来月の園遊会には間に合わせてちょうだい」
素月が黙々と採寸を続ける中、衝立の向こうから声が聞こえてきた。
衝立の向こうには、李淑の母である李夫人と花仙楼の楼主である董娟如がいるのだ。二人の会話は耳を澄まさずとも、衝立越しにしっかりと聞こえる。
「皇后様主催の園遊会に出席されるのですね」
「ええ、そうよ。──園遊会には、淑と同年代の娘が何十人も参加するわ。なんのためかわかる?」
「恐れながら、わたくしはただの繍女です。宮中のことについて、あまり詳しくは」
「誤魔化さずとも良いわ。表向きは例年通りの園遊会だけれど、実際は皇太子妃を選ぶために開催される──誰もが勘づいていることよ」
二人の会話が聞こえるのは、仕方がないとしか言いようがない。同室で、遮るものは衝立だけ。
これは盗み聞きしているわけではないのだ。自分にそう言い聞かせる。
「皇太子が冊立されて三年──ようやくだわ。淑は十六歳とちょうど良い。董楼主、いくらでも出すわ。だから娘の魅力を最大限に発揮できる服を仕立てなさい」
李夫人の声は明るく弾んでいる。
その声を聞くだけで、夫人の考え、いや望みと言うべきか。
それがわかってしまう。
李夫人は、自分の娘が皇太子妃に選ばれることを望んでいるのだ。
「──ふっ」
採寸も終盤というところで、李淑が笑った。愛らしい顔に浮かんだのは、気の強そうな色。
「お母様には悪いけど、わたし、皇太子妃になるつもりはないのよね」
「お嬢様っ」
強気な表情とは裏腹に、李淑の声は小さかった。
母親に聞かれたくはないらしい。
侍女もそれをわかっているのか、咎めるように声を上げた。
素月は無言のまま、筆を取り帳面に採寸した数字を記していく。
名家であろうが、市井の民であろうが、結婚に関してはあまり差がない。
親が選んだ相手に嫁ぐ──結婚は、家と家の繋がり。
そこに当人同士の気持ちは考慮されない。
その傾向は、名家の方が強いだろう。
どこへ嫁ぐ気もない素月には関係ないことだけれど、果たして李淑の望みは叶うのだろうか?
口ぶりから察するに、嫁ぎたい相手が別にいるようだが。
「ねえ、花仙楼は斉王府に出入りしていると聞いたけど、本当なの?」
まさか話しかけられるとは思っていなかったので、素月は一瞬、手が止まってしまった。
「お客様のことについては、無闇に口にしないよう言われておりますので。ご容赦ください」
なるべく気に障らぬよう丁重に断ったつもりだったのだが、李淑はあからさまに不機嫌そうな顔になった。ころころと表情が変わる様は年頃の少女らしくて可愛らしいと思うが、あまりにも表情に出過ぎている。
「ふん。まあ、いいわ。出入りしているのを、使用人が見てるもの。──殿下にお会いしたことはある?」
殿下、というのは十中八九、斉王のことだろう。斉王府のことを話題に出したのだから。
素月は無言で首を横に振る。
「そりゃそうよね。たかが繍女が、簡単に会える方ではないもの」
上から目線の物言いが、母親によく似ている。
「わたしはね、皇太子妃じゃなくて、斉王妃になりたいの。斉王府に出入りしているのなら、殿下の好みについて何か聞けるかと思ったけど……会ったことがないなら無理ね、役に立たない」
言いたい放題だこと。
素月は内心で呆れつつも、採寸を滞りなく終えることができた。採寸漏れがないか帳面できちんと確認してから、李淑に短く告げる。
「採寸が終わりました」
侍女が内衣姿の李淑の身支度を終わらせると、李淑は衝立の向こう、話を続ける夫人と楼主の前に姿を見せる。
その後に侍女、そして素月が続く。
「終わったのね。淑、こちらへいらっしゃい。どんな色が良いかしら? あなたは色白だし、寒色よりも暖色が良いわね」
李夫人の手元にあるのは、生地の見本をまとめたものだ。
実際に実物を見た方が、完成した姿を想像しやすいだろうということで、花仙楼ではこの生地見本を使っている。
「素月、ありがとう。下がって良いわ」
「はい、失礼致します」
帳面などを忘れず持ち、素月は一礼してから静かに部屋を出る。
「ふぅ……」
部屋を出てから、何度か深呼吸を繰り返す。
李夫人の好みだから、と部屋には蘭香の香りが満ちていた。
素月は生まれつき五感が鋭いので、香りが強いものは好まない。匂い袋だって持ち歩いていないのだ。
そのため、室内を満たす強い蘭の香りで、少しばかり頭が痛い。
李淑からも匂い袋だけでなく、化粧品の匂いがしていて、それらの匂いと蘭香が混じり合い、気分はもう最悪だ。
「終わった?」
囁くように声をかけられ、素月はこめかみを押さえながら、声のする方を見た。
「錦児?」
少し離れた場所に、錦児が隠れるように立っていた。
「そんなところで何してるの?」
手招きをされたので、大人しく錦児の方へ足を向ける。
「ちょっと気になって。何か嫌味とか言われなかった?」
「嫌味?」
どうやら素月を心配して来てくれたらしい。
「何もなかった?」
「ほとんど会話なんてしてないから」
役に立たない、とは言われたけれど、あんなのを気にしていたら、貴族の相手なんてしてられない。
「それなら良かった。癇癪持ちって聞いてから心配してたけど……そもそもあんたは、粗相をするようなおっちょこちょいじゃないものね」
「細心の注意を払ってるわ、いつも」
貴族を敵に回して損をするのはこちらだ。
たかが繍女一人、あの世界の人間からすれば、道端に転がる小石も同然。
素月も錦児も、そのことをちゃんとわかっている。
「仕事終わったなら、一緒に休憩行きましょ」
「もしかして待っててくれたの?」
「美味しい麺屋台ができたのよ。あんたはそういうのに疎いから、連れて行ってあげようと思って」
錦児と一緒に作業場へ戻り、素月は帳面などをきちんと棚にしまう。休憩から戻ったら、楼主に渡さねば。
「早く行きましょ」
「うん」
錦児に引っ張られ、素月は花仙楼の裏口から外へ出る。
万華国の中心地、皇帝の住まう国都・天香は今日も、大勢の人で賑わっていた。
その中を、二人の少女が腕を組んで笑い合いながら歩く。
それはどこにでもある、ありふれた光景そのものでしかなかった。




