19 斉王の吉服
「確かにお返しいただきました」
素月は直接、徐徹から先日の飴代を受け取る。
まさか返ってくるとは思っていなかった飴代が、思いがけずに返ってきた。
しかも返してきたのはこの国の皇太子。
なんとも不思議な縁だ。
素月は複雑な心境のまま、飴代を懐にしまう。
「では殿下、戻りましょう」
徐徹の護衛──本物の桓遠が明るい声で話しかける。
「そう、だな……」
明るい桓遠とは真逆、徐徹の表情は暗い。
初めて会ったとき、滅多に外に出れないと言っていたし、きっとすぐに帰りたくはないのだろう。
とはいえ、皇太子という身分を知ってしまった以上、迂闊なことは言えない。
「──花仙楼の中を見学させてもらうことは可能か?」
声を発したのは、徐慧だった。全員の目がそちらに向く。
徐慧は椅子に座ったままではあるが、実に堂々としている。
「見学、ですか? ……少しだけでしたら、よろしいかと」
今は楼主である娟如がいない。
なので見学の許可を出していいのか錦児は迷ったようだが、相手は斉王と皇太子。見学について承諾しても、楼主からのお叱りは厳しくはないはず、と判断したようだ。
「案内してもらってくると良い。見学が終わる頃には、私の方も済むだろう」
「は、はい!」
「では僭越ながら、わたくしめが案内させていただきます」
素月が離れるわけにはいかないので、案内係は必然的に錦児の役目となる。
錦児は緊張の顔を素月に向けてから、なるべく落ち着いて部屋を出ていった。
部屋に残ったのは、素月と徐慧、そして護衛の江紹の三人だけ。
一気に静かになったように思う。
「素月殿、私はそれなりに忙しい」
「存じております」
徐慧は斉王であり、大理寺少卿。
日夜忙しくしているであろうことくらい、容易に想像ができる。
「正直なところ、園遊会に来ていく服のことなどどうでも良い。だが下手なものを着るわけにもいかない。立場というものがあるからな。そこは母上も案じている」
「……存じております」
斉王の吉服は、やはり荷が重い。令嬢たちの衣装を仕立てる方が、よほど気が楽だ。
「本当にわかっているのか? 私が皇后主催の園遊会に着ていく吉服を、花仙楼の繍女──そなたが仕立てるのだ」
徐慧の言葉の真意を理解できぬほど、素月は無知ではない。
もしも斉王に恥をかかせるような吉服を仕立てたとなれば、花仙楼の名は容赦なく地に落ちる。
それだけではない。
斉王、あるいはその母である青陽郡主の怒りを買えば、減給や解雇などという生易しい罰では済まない。棒打ちで済めば良い方。
最悪の場合は、命を差し出す可能性さえある。
素月はそれを十分に理解しているから、いつもよりもずっと、慎重に動いているのだ。
それゆえに、普段通りに仕立てることができない、とも言えた。
「殿下、あまり追い詰めるのはよろしくないかと。素月殿が萎縮してしまいます」
「だが事実だ。私がわざわざここへ来たのは、花仙楼──ひいては素月殿、そなたのためでもある」
「お気遣いに感謝致します……」
「感謝しているのであれば、早く取り掛かってくれ。普段はどうしている? 女物を扱うことが多いとはいえ、手順はさして変わらないだろう? 先ほど、相手を見て決める、と言っていなかったか?」
「それは確かに申し上げましたが……」
そう、相手を見て図案が浮かぶことが多い。花や鳥、縁取りの文様──そういったものがすぐに浮かぶこともあれば、いくつかの資料を参考にしながら描き出すこともある。
だが今回はどうにも浮かんでこない。相手が男性だから?
でも兄のときはすぐに浮かんだ。
どうして今回は何も浮かばないのだろう?
素月自身にもわからない。
「──では仮に、こいつ──江紹に何か仕立てるとしたら、何を選ぶ?」
徐慧の言葉に、素月の視線が江紹へと向く。
江紹は背筋をしっかりと伸ばし、常に周囲を警戒している。腰には護衛らしく剣があり、まとうのは大理寺の官服。
精悍な顔立ちに相応しく、肩幅が広く厚い。日頃から鍛えているのだろう。
だがこちらを見つめる瞳は穏やかだ。荒々しさは一切感じない。
先ほど、李旦によって荒らされてしまった店内の片付けも、嫌な顔ひとつせずに請け負ってくれた。
主人である徐慧に対しても落ち着いて接しており、二人の間には確かな信頼が見て取れる。
そんな江紹を見て、素月の頭に浮かんだのは──、
「選ぶのならば──緑。青翠──いえ、それよりも少しばかり薄い色合いが好ましい。襟元と袖口、それから裾にだけ縁取りの文様を。図案は凝ったものではなく、糸は……黒がよろしいかと」
口からすらすらと言葉が紡がれる。
「では皇太子に作るとすれば?」
徐慧の問いに、素月は考え込む。
皇太子・徐徹。高貴な身分でありながらも、律儀に飴代を返しにやって来ただけでなく、名を偽っていたことさえ謝ろうとした。
たかが繍女相手に。
帝王の威厳は未だなく、それでも心根の優しい、穏やかな性格なのはわかる。
「重い色よりは、明るめの色がよろしいかと。鈷藍に白を合わせ、四君子より竹──あるいは他の……暖色でもお似合いになるかとは思います」
相手を知れば、別のものを仕立ててみたいと思うのだろうが、今の段階で浮かぶのは、この程度。
だがなぜ、斉王相手だと浮かばないのだろうか?
「私が相手だと、勝手が違うのか?」
素月が抱いた疑問を、徐慧が声に出した。
「それは……」
素月は考える。
何が違うの?
江紹だって、ほとんど初対面も同然。
けれど、なんとなく似合う色や図案が頭に浮かんだ。
徐徹だって、同じ。
素月は黙ったまま考えて、考えて、そして──。
「ああ、そうか……」
答えを見つけた。
素月は目の前で堂々と椅子に腰掛け、鋭い眼差しをこちらへ向ける徐慧を見つめ、確信する。
自分は徐慧をちゃんと見ていないのだ。
いつもは誰が相手であったとしても、きちんと相手を見る。観察する、と表現してもいい。
それを徐慧相手にはしていない。できなかった、と言うべきか。
素月は自分が、徐慧の目にどう映っているのかばかり気にしていたのだ。
徐慧の鋭い視線に宿る、自分へ向けられる疑念が、ずっと気になって仕方がなかった。
もしかしてこの男は、自分の出自を見抜いてしまうのではないか。滅びた国の公主だと知られてしまったら、自分はもう「素月」ではいられない。
そんな不安が、素月をおかしくさせていた。
「──きちんと仕立てますわ」
理由がわかったのなら、もう大丈夫。
素月の瞳に、強い光が宿る。
「殿下のために──殿下のためだけの吉服を、仕立てます」
大丈夫。不安は奥底にしまい込むから。
自分はそんなに弱くはないし、過去なんて誰に知られるはずもない。
だから大丈夫。
ちゃんと見るわ。
大理寺少卿でもなく、斉王でもない、ただ一人の人間──徐慧を、ちゃんと見る。




