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18 桓遠の正体


 皇后である秦青薔は、自身が住まう芝蘭宮しらんきゅうにて、侍女からある報告を受けていた。


「皇太子はまた、抜け出したのか」


「申し訳ございませんっ……」


 深々と頭を垂れる侍女は、微かに震えている。皇太子の見張りを任されたというのに、失敗したのだ。罰を免れることはできない。


 青薔は皇后付きの侍女・桐児(とうじ)の手を借り、立ち上がる。震える侍女の真横を無表情に通り過ぎ宮殿の外へ出れば、涼しい風が豪華な金の歩揺を揺らす。


 実の息子である徐徹は、本来ならば今頃、授業を受けているはずだ。

 徐徹は皇太子で、次代の皇帝。覚えねばならぬことが山のようにある。


 そのため青薔は、鍛錬よりも学問を優先させることに決めたのだ。

 もちろん文武両道であるべきだと思っているため、鍛錬も組み込んで予定を立てているが、ここ最近、徐徹の様子がおかしい。


 ここは後宮で、皇后である青薔は間違いなく後宮の主。

 あらゆる場所に青薔の手の者がおり、それらは後宮を離れた皇太子の居所──東宮にまで及んでいる。


「どこへ行ったのかはわかっているのだろう?」


「花仙楼へ出向いたようです」


「花仙楼──繍坊へ何故(なにゆえ)?」


 桐児が声をひそめ、青薔に耳打ちする。

 その内容は二人にしか聞こえなかったが、青薔の表情が一瞬にして変わったのを見れば、予想外の内容だったことは容易に想像がつくだろう。


「あの徹が──? まことに……?」


「間違いありません」


 青薔の口元には、笑みが浮かんでいる。


「まさかこんな日が来るとは……!」


 安堵の表情を浮かべた青薔は、振り返ってようやく、今も尚、跪き震えている侍女の存在を思い出した。


「どうされますか?」


「今は気分がすこぶる良い。罰は与えぬ」


「皇后様に感謝なさい」


 桐児が侍女にそう告げれば、侍女は何度も頭を下げ、逃げるように芝蘭宮を去っていった。


「その娘について、詳しく調べよ。どんな些細なことでも構わぬ。必ず報告するように」


「承知しました」


 桐児は足音を立てることなく、静かに芝蘭宮を出ていく。


 青薔は青い空を見上げ、大きな心配の種が一つ消えようとしていることに安堵する。

 徐徹は皇太子だが、未だ妻どころか側室の一人もいない。

 それは決して悪いことではない。品行方正、謹厳実直──そういった印象を、臣下や民たちに抱かせることができる。


 だが実際のところは、徐徹自身が女性に対して積極的になれないために、今も皇太子妃の座は空席なのだ。

 青薔の息子は徐徹ただ一人。

 宮中で様々な噂が出回り、眠れぬ夜を幾度も繰り返してきたが、ようやく息子が皇太子に冊立された。

 青薔がずっと望んでいたことが、ようやく叶ったのだ。喜ぶべきことなのだが、次は妃を選ばねばならない。


 皇太子妃は次代の皇后。

 慎重に選ばねばならないが、徐徹が前向きにならないことが一番の悩みどころであった。


 それがなんということか!


 あの女性に対して苦手意識を持ち、どんな美女や才女であろうとも避けてきた徐徹が自ら!

 とある女性を訪ねるために城を抜け出したのだ。

 相手が繍女というのは気になるが、徐徹の心境に変化が表れたのであれば実に喜ばしいことだ!


「どのような娘かはわからぬが、場合によっては宮女として後宮に入れても良いかもしれぬ」


 青薔は期待に胸を膨らませる。

 間近に迫っている園遊会は、皇太子妃を選ぶという目的が隠れており、ほとんどの者はその真の目的を見抜いているはず。

 誰を差し置いても、自分の娘を皇太子妃の座に着かせたいと躍起になるだろう。

 なので出席者に関してはなんの心配もしていない。

 きっと盛大で華やかな園遊会となる。


 一番の気掛かりは徐徹の女性に対する苦手意識だ。園遊会には出席するだろう──いや、させると言うべきか──が、自ら進んで女性たちと関わろうとはしないはず。


 それがもしかしたら、もしかするかもしれない!


 青薔は笑みを浮かべたまま、今回の息子の脱走は不問に付そうと心に決めていた。


 ◇◆◇◆◇


「桓遠──は、私のことですが……どこかでお会いしたことがありましたか?」


 なんとも言えない空気の中、口を開いたのは素月の知らない、たくましい体躯の男性だった。


「お前は何を──!!」


 次に言葉を発したのは、「桓遠」だった。


 だが素月は、彼が「桓遠」ではないことをすぐに見抜いた。本当に「桓遠」であるなれば、焦ったり慌てたりしないものだ。

 教えてもらった名は、偽名だったということ。


 しかしまあ、気にするほどのことでもない。高貴な身分にあるだろうことはわかっていたので、偽名を使うのは自己防衛のためだ。気を悪くしたりなどしない。

 あれは必要な嘘だったのだ。


「今日は随分と騒々しい日だ。──下手な誤魔化しはかえって印象を悪くする。きちんと名乗るしかないな」


 徐慧は立ち上がり、「桓遠」を真っ直ぐに見据える。

 その視線を受け止めた「桓遠」は、素月に申し訳なさそうな顔を向け、口を開いた。


「私の名は、桓遠ではない。それはここにいる、護衛の名だ。私の本当の名は…………」


「躊躇うな。その名は間違いなく、お前自身の名だ。何に怯える必要もない」


 言いにくそうに目を伏せる「桓遠」。

 そんな「桓遠」の背を押すように言葉を発する徐慧。二人は知り合い、というよりももっと親しい間柄のようだ。


 徐慧の言葉を受けてか、「桓遠」は真っ直ぐに素月を見つめた。


「──私の名は、徐徹という」


 本当の名を聞いた瞬間、素月は「桓遠」の正体をすぐに理解した。

 素月の隣に立っていた錦児と、揃って床に跪く。


「皇太子殿下に拝謁致します」


「拝謁致します!」


 よほどの無知でもない限り、自分が住む国の皇太子の名を知らぬなどありえない。

 それは錦児も同じこと。


 高貴な身分だろうと思ってはいたが、まさか皇太子だったとは。想像していたよりもずっと高貴な身分ではあったが、今日は徐慧の言う通り騒々しすぎる。

 皇太子が現れても、驚くほどに落ち着いていられた。

 今日は何が起きてもおかしくないのかもしれない。


「立ってくれ! むしろ私は謝らねばならない! 嘘をついてしまったのだから……」


「尊い身分にあらせられるのです。偽名を使われて当然かと」


 素月は顔を伏せたまま、淀みなく答える。


「怒ったりはしていないのか……?」


「恐れ多いことでございます」


 皇太子を相手に、誰が怒れるだろうか。


「そうか……良かった」


 安心したような徐徹の声音に、素月は疑問しか浮かばない。

 たかが繍女相手に偽名を使ったぐらいで、何をそんなに不安がるのだろうか?


「二人とも、どうか立ってくれ」


「感謝致します」


 素月と錦児は立ち上がり、衣服を正す。


 改めて部屋の中にいる男性陣を見てみると、逃げ出したくなる。

 斉王と皇太子、その二人にそれぞれ仕える護衛。


 花仙楼に斉王と皇太子がいると知れば、ご令嬢たちがきっと、我先にと押しかけてくることだろう。

 考えるだけで恐ろしい。


「まさか従兄上がいらっしゃるとは知らず……。お邪魔をしてしまい、申し訳ありません」


 徐徹の声音は柔らかい。穏やかな性格なのだろうが、威厳には欠けるように思う。


「問題はない。──まあ、話は何も進んではいないが」


 素月と錦児は声を発さず、その場に立ち尽くすことしかできない。


 しかし皇太子が斉王を「兄」と呼んでいるのは意外だった。

 もう少し険悪な仲なのかと、勝手に思っていたから。


「花仙楼を──素月殿を訪ねた理由があるのだろう? 必要ならば席を外すが、どうする?」


「いえ、大したことではないのです! 兄上がわざわざ出て行く必要はありません。その、飴の代金を返しに来たのです……」


「飴?」


「はい。恥ずかしい話ですが、先日は手持ちがなく、素月殿に支払っていただいたので……」


 そんなことぐらい、気にしなくていいだろうに。

 素月は内心そう思ったが、口には出さずにいた。


「なんか今日、すごいわね」


 錦児が小声で囁き、素月はため息まじりに頷く。


 本当に、今日は一体全体どうしたのだろうか。

 こんなこと、絶対に起こり得るはずがないというのに。


 素月は目を伏せたまま、自分の荒れた指先をそっと撫でる。

 今日は一日がとても長く感じるような気がしてならない。



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