17 斉王の来店
その場にいる誰もが、動けずにいた。
先程まで騒がしかった店内が、たった一人の男の登場によって、しんと静まり返っている。
花仙楼に男性が来ることは珍しい。
それ以上に珍しいのは、大理寺少卿として日々、忙しくしている斉王・徐慧が来店することではないだろうか?
「で、殿下……?」
さすがの李旦も、斉王の顔は知っているらしい。
徐慧の登場に、狼狽えている。
「郢国公のご子息と顔を合わせるとは思っていなかったが──これは一体どういう状況なのか、説明してもらっても?」
「これは、その……」
徐慧の問いかけに惑う李旦は、素月の腕を掴んでいた手から力が抜ける。
その隙を逃さず、素月は李旦の手から抜け出し、錦児に駆け寄った。
「大丈夫? 怪我はない?」
「大丈夫よ。尻餅をついただけ……」
本当に蹴られる寸前だった。
錦児は体勢を崩しはしたものの、大きな怪我はないようで一安心だ。
素月の手を借り、錦児は立ち上がる。
「殿下にご挨拶致します」
「礼は不要だ。──まるで店の中で誰かが暴れたようだ。李殿、どう思う?」
挨拶をする素月の横を通り過ぎ、徐慧は李旦の前に移動する。
そのおかげで、素月は徐慧の背に隠れることができた。
李旦と比べると、徐慧の方が背が高い。
だが体格で言うならば、徐慧の方が細身だ。
それでも徐慧が放つ圧に、李旦は顔を青くしている。
「ど、どう思う、とは?」
「この惨状を見て、大理寺を動かすべきかどうか、ということだ」
徐慧の一言に、李旦の顔は青を通り越して白くなろうとしていた。
「大理寺が動くほどのことではありません!」
「なぜそう思う?」
徐慧がゆっくりと店内を見回す。
「私は以前から警告していたはずだ。度が過ぎれば、身分など関係なく我らは動く、と。これは度が過ぎているのではないか?」
外側から見た花仙楼はいつも通りだが、中へ入れば普段とは真逆の状態になってしまっている。
陳列台は倒され、踏みつけられた手巾や匂い袋は薄汚れ、売り物にはもうならない。
それらに加え、店の売子があわや大怪我を負うところだったし、もう一人の繍女の腕は赤く染まり、見るからに乱暴されたのがわかる。
これを見て、何もなかった、などと言えるだろうか?
「国公には報告させてもらう」
「……承知、しました」
渋い顔をして店を去ろうとする李旦の背に向かって、徐慧が声をかける。
「素月殿が請け負っている仕事の依頼人は、私だ」
「…………心得ました」
何か言いたいことがあるような顔ではあったが、相手が斉王ともなれば、いかに国公の息子であろうとも無礼な真似は許されない。
店から出て行く李旦の背中は、随分と小さく見えた。
「楼主は不在なのか?」
「さ、左様でございます……」
錦児がお尻の痛みに耐えながら答える。
「江紹、片付けを手伝ってやれ」
徐慧の背後に控えていた部下・江紹が、お任せください! と言わんばかりに倒れてしまった陳列台を起こす。
「私も手伝います」
「痛むのでしょう? 俺がやるので、どこに戻すのか指示をください」
手伝おうとする錦児を、江紹は手で制する。
「客室はあるのか?」
「──え? ……ああ、二階にございます」
自分が話しかけられているということに、素月は気づくのが随分と遅れてしまった。
「案内してくれ」
徐慧は無表情に、そう言った。
◇◆◇◆◇
徐慧を通した客室は、先刻まで素月が布見本を広げていた客室だった。
先刻まで使っていたので、ついそのまま通してしまった。
「お茶をお持ちします」
布見本を軽く片付けてから、徐慧を窓際の席に案内する。
「くつろぐために来たわけではないから、茶は結構だ」
「承知しました」
「今日、ここへ出向いたのは母上に言われたからだ」
「郡主様に?」
「吉服作りに難航しているようだから、手を貸してやれ、と言われたんだ」
恐らく楼主から郡主に伝わり、そこから斉王に伝わったのだろう。
李家からの帰り、楼主が悩む素月のため、郡主に話をしてみると言っていたから。
だが斉王自ら来店するとは、思いもしなかった。
結果としてみれば、李旦を追い払うことができたので助かりはしたが、まさかこんなにも短期間のうちに顔を合わせることになるとは……。
徐慧がこちらを見る目は、先日ほどではないにしても、やはり鋭い。
素月も度々目つきが悪いと言われるが、徐慧を前にすると自分はそれほどでもないのでは? と思ってしまう。
「どの生地を使うんだ?」
「……恐れながら、まだ決めておりません」
素月の返答に、徐慧が眉間に皺を寄せる。美形が厳しい表情を浮かべると、どうにも威圧感が増す。
「それは見本か?」
「左様でございます」
「見せてみろ」
素月は見本を数冊手に取り、それを机の上に置く。
「お前も座れ」
「しかし──」
「いいから、座れ」
「……失礼致します」
斉王本人が座れと言ったのだ。自分は悪くない。
「候補も絞っていないのか?」
「暖色系は除外しております。──恐れながら、殿下の好みではないように思えましたので」
「それは当たっている。派手な色は好まん」
徐慧は赤や黄色などといった暖色系よりも、青や緑といった寒色系の色の方が似合う。
その中でも黒が最も似合うだろう。
かといって、黒は園遊会の場には相応しくない。
あまりに暗すぎる。
ならば青系統が良いだろうと思い、そのあたりから選ぼうとは思っていた。
となれば、使うのは銀糸が良い。青系統の衣に、銀糸で施した刺繍は良く映える。
「それだけ決まっているのなら、早々に取り掛かれば良いだろう? 何を迷う必要がある?」
「……良い図案が浮かばないのです」
素月は図案を自分で描く。万華国の伝統的な図案を元に描くこともあるが、素月は自分だけの図案をはじめから作ることもある。
それが唯一無二であるため、素月に仕立ててもらいたいという娘が多いのだ。
特に貴族や裕福な家の令嬢は、他の者と被ることを大層嫌う。
「いつもはどうやって決めているんだ?」
「その方を見て、浮かんだものを描きます」
素月が横を向けば、こちらを射抜くように見つめる徐慧と目が合う。
徐慧の瞳は、黒曜石のように深く濃い色をしていて、見つめていると吸い込まれてしまうような感覚に陥る。
「──星?」
その一言を聞いた瞬間、素月は反射的に立ち上がり、徐慧に背を向ける。
今、この男はなんと言った? 星? ありえない!
なぜいきなり、そんな言葉が出てくるのだろうか。
素月は焦る自分を、必死に落ち着かせようとする。
ここ数年、誰にも言われたことはない。
兄すら、口にすることはなかった。
なのになぜ今、この男が口にしたのだろう?
──「星」だなんて……。
「何か気に障ったか?」
徐慧の声は、焦る素月とは裏腹に落ち着いている。
何も気づいていない? 偶然……?
どちらにせよ、あまりおかしな態度を取れば勘ぐられてしまう。
「──失礼致しました。なんの問題もございません」
どうにか落ち着きを取り戻した素月が振り返れば、まるで示し合わせたかのように客室の扉が開いた。
扉の向こうに立っているのは、江紹と錦児、それからたくましい体躯の男性。
そしてもう一人、若い男性がいた。
「──桓遠殿?」
もう会うことはないだろうと思っていた人物が、そこにいた。
今日は一体全体、どうなっているのだろう?
こんなにも男性の来店が多いのは、初めてだ。
素月はなんだかもう、すべてを放り出してしまいたい気分だった。




