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16 招かれざる客


 素月の目の前には、いくつもの布見本が広がっている。


 お昼の休憩を取り終わった後、素月は楼主の許可を得て、花仙楼の布見本のほとんどをいくつかある客室の一室に集めた。

 それらを広げ、思い浮かべるのは斉王・徐慧の姿。


 どんな色が似合うだろうか?


 たった一度しか会っていないが、その姿は今も容易に思い出すことができる。

 都中の娘が憧れる存在、というのは大袈裟すぎると思ったけれど、実際にその容姿を目の前で見てしまったら、大袈裟ではないな、と思わされた。


 だが素月は、徐慧に対して苦手意識を持ってしまっている。採寸の間、自分に投げかけられた問いと、自分を見る徐慧のあの冷たく厳しい視線──それらを思い出すと、背筋が凍るようだ。


 あれは大理寺少卿だからなのか、それとも斉王だからなのか。

 もしくは本人が生まれ持ったものなのかもしれない。


 斉王の担当になることが決まったと同僚たちにはすぐ知られ、羨ましがられた。

 阿葉からは当たりが強くなったような気がするが、気にしないようにしている。


 そのかわり、錦児からはいつも以上にいろいろな話を聞かされた。


 斉王・徐慧は宮中で、次の皇太子になるのではないか? という噂がずっと囁かれていたそうだ。

 今の皇太子が冊立されるまでの間、その噂は広がり続け、錦児の耳にも入るほどだった。


 皇太子が冊立されると、その噂は徐々に消え失せはしたものの、皇太后と皇帝が今も斉王・徐慧とその母である青陽郡主・蕭白蓮を気にかけているのは変わらないという。


 それゆえ、皇后は斉王と郡主を警戒しているんだとか。


 花仙楼は名の知れた繍坊であるため、後宮の妃嬪からの依頼が舞い込むことがある。

 楼主と共に後宮へ赴いたことがある錦児は、何人か宮中に知り合いを作ったようだ。

 その知り合いから、いろいろな噂話を仕入れているらしい。


 錦児の顔の広さは花仙楼に来た頃から知っているが、まさか宮中にまで知り合いがいるとは思っていなかったので、さすがに驚いた。


 なんて面倒な立場に生まれた方なのかしら……。


 人は生まれを選べない、とはよく言ったものだ。

 素月は布見本を手に取り、ため息を漏らす。


「どうしたものかしら……」


 客室に持ち込んだ布見本はすべて、高価なものや、貴重な布地のものばかり。

 この中のどれを選ぶべきだろうか?


 布も図案も、何もかもが決まっていない。


 素月はずっとこの誰もいない客室で、頭を悩ませていた。


 楼主に相談しようとも思ったが、自分で何ひとつも決めず、教えを仰ごうとするのは向上心に欠ける。

 男性の──兄以外ではあるが──衣を仕立てるのは初めてだが、女性の衣を仕立てるのとやり方は変わらない。


 ただ斉王の立場と、仕立てる衣が吉服なのが問題なのだ。


「──素月、大変よ」


 慌ただしい足音が聞こえたかと思えば、扉が無遠慮に開け放たれた。扉の向こうに立っているのは、険しい顔をした錦児。


「何かあったの?」


「李家の若様が来たの」


「何が大変なの……?」


 花仙楼の客層のほとんどが女性ではあるが、男性客が全く来ないわけではない。

 なのに大変とは、どういうことだろう?


 素月がわからない、という表情をすれば、錦児が一呼吸おいてから、口を開いた。


「李家の若様は、あんたを呼べと言ってるのよ」


「…………それは確かに、大変だわ」


 素月は手に持っていた布見本を机に置き、立ち上がる。


「不在だと伝えようとしたら、阿葉が呼んでくる、って言ったのよ」


「そう……」


 どうやら完全に、阿葉に嫌われてしまったらしい。

 それはどうしようもないけれど、余計なことは言わないで欲しかった。


「仕方ないから、行くわ」


 李旦の性格を思えば、待たせれば待たせるほど、機嫌が悪くなって対応が面倒になりそうだ。

 ならばさっさと終わらせよう。


 素月は部屋を出ると、錦児と一緒に一階の店へと足を向ける。


 あまり店先に姿を見せることのない素月ではあるが、それでも店内の雰囲気がおかしいことはわかった。客がほとんどいない。

 その原因は、間違いなく李旦だろう。


 李旦は店の中を興味深そうに歩き回り、その後ろを従者が付かず離れずの距離で続く。

 買い物に来ていた客は李旦が来店したことにより、そそくさと帰ってしまったようだ。

 李旦の噂は良くも悪くも広まっている。年頃の娘であれば、近づきたくない相手だろう。


「お待たせして申し訳ありません」


 素月が丁寧な礼をすれば、李旦が品のない笑みをこちらへ向けてきた。


「ようやく来たか。──初めて来たが、まぁまぁの店だな」


「恐れ入ります」


 素月の真横には、あの日の郢国公の屋敷の時のように錦児が寄り添うように立っている。


「ここは男物も扱っているのか?」


「いくつか取り扱ってはおります」


 客層は女性がほとんどであるため、女性物が多いのは仕方ない。

 男性用は本当に数点だ。


「だが頼めば作ることは可能なのだろう?」


「もちろんでございます」


 受け答えは錦児がしてくれている。

 素月は普段、店の奥、工房にいるのだ。接客には慣れていない。


「どのようなものをお望みでしょうか?」


「新しい行服が欲しいと思っていたところだ。仕立てるのにどれくらいかかる?」


 行服は遠出や狩猟時などに着ることを目的としている。

 常服と区別せずに着ることもあるが、裕福な者や貴人は使い分けることが多い。


「正式なご依頼でしたら、楼主に報告した後、適任と思われる繍女を当店で選びます。そこから採寸などに取り掛かりますので、具体的な日数は現時点ではお答えできかねます」


 花仙楼には毎日のように依頼の申し込みがあるが、錦児のような勤務年数が長く経験もあれば、独断で依頼が受けられるかどうかの判断をすることができるが、さすがに相手は国公の息子。


 しかも放蕩息子と悪名高い李旦。

 錦児がこの場で即決するわけにはいかない。楼主に判断を仰ぐべきだろう。


「面倒だな。──金ならいくらでも払うから問題ないだろう? それに適任の繍女なら、そこにいるだろう」


 李旦の視線はずっと、素月を見ている。

 そのことに、錦児も気づいている。


 李旦は素月に、自分の担当をさせたいのだ。


「申し訳ございません。わたくしめは別の仕事を請け負っているため、若様の依頼を受けることはできかねます」


 素月は遠回しな言い方はせずに、はっきりと李旦へと告げた。


 どんな言い方をしようとも、李旦の機嫌を損ねることになる。

 ならばはっきりと告げてしまった方がマシだ。


 素月の予想通り、依頼を断られた李旦は隠すことのない怒りをその顔に浮かべていた。


「また断るのか? ただの繍女風情が!」


 怒りを孕んだ声が、店内に響く。気の弱い者ならば、それだけで怯えてしまうことだろう。


 だが素月は表情ひとつ変えることなく、真っ直ぐに李旦を見つめ返す。


「花仙楼の繍女は皆、優秀です。誰が担当になったとしても、ご満足いただけるかと思います。──わたくしめは、今請け負っている仕事以外、受けることは致しません。どれほど銀子を積まれようとも、どのような身分にあられる方であろうとも、お断り致します」


 素月の答えはすべて、李旦の望みとは正反対。

 李旦の怒りは増すばかりだ。


「ふざけるな!」


 限界値を超えたのか。

 李旦は大声を上げると、近くにあった陳列台を力任せに蹴り倒した。並べてあった手巾や匂い袋が床に落ちると、李旦はあろうことかそれらを踏みつけ、素月の腕を乱暴に掴んだ。


「俺が誰かわかってるのか? 誰よりも優先すべきだろう!」


「おやめください!」


 錦児が慌てて、素月の腕を掴む李旦の手を引き離そうとする。

 だが相手は男。女の力でどうこうできるはずがない。


 それでも錦児は必死にすがった。


「邪魔をするな!」


「錦児!」


 李旦の足が錦児を蹴り飛ばそうとした瞬間、店内に黒い人影が現れた。


「随分と騒々しいな」


 静寂を失ってしまった店内に響いたのは、低く落ち着いた男の声。

 それと、微かな松香の匂い。


 素月は視線を、店の入り口へと向ける。


 今日は予想外のことが次々と起こる日らしい。

 李家の放蕩息子が来たかと思えば、今度は斉王がご来店だ。


 素月はもう、疲れ切っていた。



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