15 「素月」という顔
「これは一体、どういう状況なの?」
李夫人は自身の息子を見つめ、説明を求める。
李旦は舌打ちをすると、素月の腕を掴もうとした手を引っ込めた。
「──こ奴らが生意気な口をきくので、注意しただけです。なんでもありませんよ、母上」
面倒そうに言うと、李旦は大股でその場から立ち去る。
李旦が去るのを見送って、ようやく素月と錦児は肩から力を抜くことができた。
「若様のご気分を損ねてしまったようですね。申し訳ありません」
「よくあることよ、困ったことにね」
李夫人がため息を漏らし、去っていった息子の背を見送る。
素月は錦児と一緒に、回廊の端に身を寄せた。
「結婚すれば落ち着くものかと思っていたけれど、そう都合良くはいかないものね」
「あまり気に病まず、ご自愛くださいませ。──長居しすぎました。わたくしどもは失礼致します」
娟如は優雅な礼を夫人に向けてから、素月と錦児を伴い、屋敷の正門へと足を向ける。
本来では裏門を使うべきなのだが、娟如は特別に許されている。
「何があったの?」
帰りの馬車に乗り込むと、娟如は前置きもなく二人に尋ねた。
向かい合わせに座る素月と錦児は、どちらが先に口を開くべきか顔を見合わせる。
「李家の若様が、素月を引き抜こうとしたんです。屋敷で働かないか、と。ですが──」
「それはただの建前でしょうね」
「やはりそう思いますよね?」
錦児はうんうん頷き、あからさまに不機嫌な顔で腕を組む。
「建前?」
「李家の若様は、あまり評判がよろしくないのよ」
「放蕩息子よ」
娟如が遠回しに素月へ伝えたのに、それを錦児が台無しにする。
「放蕩息子? 遊び回っているということ?」
「酒楼や妓楼の常連らしいわ。気に入ったものは、酒でもなんでも手に入れないと気が済まないんですって。──女性もそうよ」
錦児が手招きをするので、揺れる馬車の中、素月は錦児に片耳を寄せる。
「正室を迎えてすぐに、側室を迎えたの。今は三人も側室がいるのよ」
「あらまぁ……」
「最悪なのはここから。実は三ヶ月前まで側室は四人いたんだけど、飽きたから、って理由で追い出したのよ」
「あら、まぁ……」
素月は姿勢を戻し、先刻、李旦から言われた「特別待遇」の意味をなんとなく理解した。
「まだお子がいないのも、絶対に正室たちがお互いの足を引っ張りあってるからよ。──素月を引き抜こうとしたのだって、どうせ下心あってのことでしょ」
「引き抜きに応じていたら、四人目の側室になれたかもしれない、ということね」
「側室になれればまだマシだけど、場合によっては手をつけるだけつけて、あとは知らん顔される可能性の方が高いわ。それに奥方たちの怒りを買って屋敷を追い出されるかもしれないし、最悪の場合は……」
錦児は最後まで言わなかったが、何を言おうとしたのかは素月にもわかる。
「女を馬鹿にしすぎよ。そんな奴の気を引こうと躍起になってる女は、もっと馬鹿だけどね」
「錦児、言葉が過ぎるわ」
娟如の指摘に、錦児はまだまだ何か言いたそうだったが、頬を膨らませて口を閉じた。
素月も口を閉じ、目を伏せる。
李旦にとって女性は、いつでも取り替えがきく花のようなものなのだろう。気に入れば簡単に手を伸ばし手折り、花瓶に飾る。
けれど飽きたらすぐに捨てて、新しい花を探しに行くのだ。
その繰り返し。
嘆かわしいことではあるが、一夫多妻という文化が根強い大陸では、こういったことは珍しくはない。
何せこの国を統べる皇帝も、複数人の側室を侍らせているのだ。後宮という名の籠の中に。
一途な男性もいるだろうが、身分や立場によっては、側室を持たねばならない場合もある。
「どちらにしろ、関わらない方が良いわ。李家には面倒な人が多すぎる」
「──そうできたら良いのだけれど」
娟如は困ったように微笑み、素月に視線を向ける。
「どんな吉服にするか、決まったの?」
斉王のことを聞いているのだろう。
素月は首を横に振る。
斉王の採寸がひとまず無事に終わったことは、娟如に報告している。
娟如からは、素月が担当なのだから、まずは自分で考えてみなさい、と言われた。
まだ園遊会までは猶予があるが、素月はいまだに色さえ決めていない。
これが常服を仕立てるのであれば、まだ気持ちが楽だっただろうが、園遊会のための吉服を仕立てるのだ。
園遊会には皇太子だけでなく、名家の子女が集まる。下手なものを仕立てれば、斉王が恥をかいてしまう。
さらに園遊会が開催される真の目的を考慮すれば、斉王が目立つのはよろしくない。
斉王自身も、それを望んでいないだろう。
いろいろと考えることが多すぎて、布や図案を選ぼうと思っても、決めきれないのだ。
本当にこれで良いのか、と。
──間違いがあっては困るの。何事も慎重に、正確に進めないと……。
十年間、そうやって兄たちと生きてきた。
一歩間違えれば、自分は「素月」という顔を失ってしまう。
それだけは避けなければ。
ここ万華国で生きる「素月」は、高子白が命を懸けて用意してくれた顔なのだ。失うわけにはいかない。
本当の自分が──過去の自分が暴かれてしまったら、もう二度と、「素月」には戻れないから……。
「難しい依頼だというのは、私も承知しているわ。けれど、あなたならできると思ったから任せることにしたの。まずは殿下に、どんな色が似合うか考えてみては? なんなら、殿下に直接、何色が好きか聞くのも手かもしれないわね」
「直接……?」
娟如の提案に、素月は視線を泳がせる。
あの斉王に、自分から会いに行く?
そんなこと、できるはずがない!
「殿下はお忙しいでしょうし、それは、あまり……」
言葉を濁す素月に、娟如は不思議そうな顔をする。
素月はいつも、物事をはっきりと伝えるようにしているため、こんなにも歯切れが悪い姿を、初めて見せてしまったかもしれない。
「郡主様にお話してみるわ」
「いえ、あの…………お願いします」
断ろうかと思ったが、斉王の好みを郡主に聞く程度なら問題ないだろう。
素月はそう思い、姿勢を正したまま小さく息を吐く。
なんだか最近、気が張り詰めていて休まらない。
原因はわかっている。わかっているからこそ、もどかしいのだ。
ああ、なぜ斉王の担当になどなってしまったのだろう……。
花仙楼の楼主である董娟如の一番弟子という呼び名は、実に名誉なことではあるが、同時に厄介なものでもあるのだと、改めて実感するばかりである。




