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12 それぞれの幸せの形


 花仙楼へと戻った素月は、楼主である董娟如が不在のため、報告は後にすることにし、工房へと向かう。

 阿葉は戻る道中、そして戻ってきてからもずっと不機嫌で、花仙楼に戻ると一人、どこかへと行ってしまった。


 阿葉は斉王に会いたかったのだろうが、その目的が果たせず、不満なのだろう。

 帰る道すがら、八つ当たりでもされるのではないか、と思っていたが、そんなことはなかった。


 何度でも言うが、阿葉は愛想が良い。知り合いも多いようなので、大通りで素月に対し声を荒げるような真似をしたら、知り合いの誰かに見られてしまう可能性がある。築き上げた「花仙楼の優しく元気な阿葉」、の顔が崩れてしまう。

 素月に対して不満があっても、ぐっと我慢するしかない。


 素月からすれば助かった、の一言だ。


「おかえり、素月」


 工房へ入れば、錦児が刺繍をしていた。


「錦児? どうしてここにいるの? 安静にするよう、お医者様に言われているのに」


「安静にしてるわ」


 錦児は気にした様子もなく、糸を切るため、鋏を手に取る。


「ただの捻挫に、みんな大袈裟なのよ。……まあ、さすがに店には立てないけど、ずっと寝てるなんて退屈でしょうがないもの。だからこうして練習してるの。時間は有効に使わないとね」


「足が辛くないのならいいけれど……」


 素月は荷物を抱えたまま、錦児の隣にある刺繍台の下から椅子を引き出し、腰を下ろす。


「阿葉はどうだった? やかましかったでしょ?」


「殿下の指示で、阿葉は別室に連れて行かれたわ」


「別室に? 本当に?」


 素月が縦に首を振ると、錦児は大きな声で笑った。


「そんなに笑わなくても……」


「笑わずにはいられないわよ。阿葉の目論見は、見事に外れたってわけね」


 阿葉の目的を、錦児も見抜いていたようだ。

 というか、花仙楼の誰もが分かってたことだろう。


 楼主も気づいていただろうが、憧れの斉王を前におかしな真似はしないだろうと判断し、阿葉の同行を許したと素月は考えている。

 阿葉は猫をかぶるのがうまい。会いたい、お近づきになりたい、と思う相手に、失礼な態度など取るはずがない。


 だが実際のところ、阿葉が斉王と同じ空間にいれたのは一瞬とも言えるほどの短さ。


「別に阿葉が玉の輿を狙ってても、花仙楼と楼主に迷惑がかからなければ私にはどうでもいいわ。好きにすれば? って感じ」


 錦児の意見に、素月は心から同意する。

 阿葉が花仙楼で働く理由は、錦児の言う通り、「玉の輿」、なのだ。


 阿葉は農村の生まれらしく、両親の反対を押し切って単身、都へとやって来たと聞いている。

 花仙楼で働き出した際は、玉の輿に乗るという思惑をうまく隠していたようだが、近頃は隠しもしない。


 阿葉は今年で十九歳を迎えた。

 少しばかりの焦りがあるのだろう。


「王妃になれれば、幸せになれると思っているのかしら……?」


「──少なくとも、衣食住に困ることはないでしょ。毎日きれいな衣を着れて、豪華な食事とあたたかい寝床が保証される。それだけでも十分、玉の輿を狙う理由にはなる」


 人の数だけ、幸せの形がある。

 明日の食事に困らぬ生活を送れることを幸せと感じる人もいれば、戦場で武功を上げることに幸せを感じる人もいて、それらは他人が簡単に否定していいようなものではない。


 その人の幸せはその人が決めるもので、誰かに押し付けられ、勝手に決められるものではない。


 だから阿葉の望む幸せが、「玉の輿に乗ること」「王妃になること」、だと言うのであれば、素月は否定したりなんかしない。


 ただ応援する気にはなれないけれど。


 ──上に行けば行くほど、息苦しくなるだけだもの……。


 素月は膝の上に乗せた荷物から、帳面を取り出す。


 そこには自分の文字で、採寸した斉王の寸尺が記されている。


「相変わらず、お手本みたいな字よね。ところで、斉王様はどうだった? 私も遠目で何度か見たことがあるんだけど、かなりの美形だと聞いてるわ。実際に会ってみて、どうだった?」


 錦児はいつの間にか刺繍の手を止め、体ごと素月の方を向いている。


「美形──そうね、美しい顔立ちをしていたと思う」


 頭の中に、斉王の顔を思い浮かべる。

 長身の美丈夫。顔立ちは整っていたが、凛々しくも厳しい眼差しは鋭く、人によっては畏怖の念を抱くことだろう。


 だが素月は、斉王の美しさに魅入ることも、鋭い眼差しに怯えることもなかった。

 むしろずっと観察されているような気がして、居心地が悪かったのを覚えている。採寸が始まってから終わるまでの間に、斉王からいくつか問いを投げかけられた。


 桓遠のこと、生まれのこと──。


 まさか話しかけられるとは思っていなかったので驚いたが、なぜ出自のことまで聞かれたのだろうか?

 素月はただの繍女として、大理寺を訪れた。失礼がないよう、細心の注意を払ったし、なんの問題もなかったはずだ。


 なのに斉王が自分を見る目には、明らかな疑いの念が宿っていた。


 ──私は何か、取り返しのつかないことをしてしまったの……?


 帳面を握る手に、力が入る。


 自分の過去を、知られるわけにはいかない。

 もうこの世に、霽鏡公主・皓佳月はおらず、いるのはただの繍女・素月だけ。


「素月? 大丈夫? 顔色が悪いみたいだけど……」


「え? ああ……大丈夫よ。今になって、気が抜けたのかもしれないわ」


「まあ、相手は斉王様だものね。いくら素月でも、緊張するか」


 素月は頷き、帳面を荷物の中に押し込む。


 この仕事は、引き受けるべきではなかった。

 斉王の担当になってしまった以上、今後も顔を合わせることはあるかもしれない。


 その度に、あの見定めるような、探るような視線に晒されるのか……。


 それを思うだけで、素月は気が重くなる。


 ただの繍女でいたいだけ。

 誰の目に留まることもなく、慎ましく、静かに暮らせればそれで良い。


 十分すぎるほどの苦労を、過去の自分は経験してきたのだ。


 だから「素月」として生きていくこれからは、ただただ平穏でありさえすればいい。


 それが素月の思い描く、幸せの形なのだ。



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