11 斉王・徐慧
衝立の奥から現れた男は、斉王・徐慧で間違いない。
男の腰に見えた腰牌には、間違いなく「大理寺」の名が刻まれていた。
それに加え、腰牌に施された装飾が、この男がただの大理寺の職員ではないことを物語っている。
あれだけの装飾が施された腰牌を持っているということはつまり、この男は大理寺少卿──つまりは斉王・徐慧なのだ。
徐慧が無言で、跪く素月の隣を通り過ぎる。
──足音が聞こえない……。
癖なのだろうか?
素月は視線を床に落としてはいるが、意識だけは徐慧へと向けている。
まだ何も、声すら発してはならない。
無論、立ち上がるなんて論外だ。
「立て」
「感謝致します」
「か、感謝致しますっ」
徐慧の一言で、ようやく素月と阿葉は立ち上がることができた。
素月は体の向きを変え、徐慧が腰掛ける窓際の席に目をやる。
徐慧は黒を基調とした大理寺の官服姿。
他の職員も黒を基調とした大理寺の官服を仕事着として着用しているが、徐慧の官服は生地や刺繍などといった装飾が他の職員とは明らかに違う。
襟元、袖口、裾など、繊細で緻密な刺繍が施されている。生地も恐らくは絹だろう。
「名乗れ」
「花仙楼から参りました繍女、素月でございます」
「阿葉でございます!」
素月は落ち着いた声音で名乗り、阿葉はいささか興奮なのか緊張なのか、あるいは両方か、声が少しばかりうわずっている。
店では聞いたことのない声だ。
「──花仙楼に、素月という名の繍女は他にいるのか?」
高貴な方を直視してはいけない。
素月は目を伏せているが、徐慧の声はきちんと聞こえている。
「わたくし一人でございます」
質問の意図はわからないが、答えないわけにはいかない。
素月は嘘偽りなく答える。
「そうか……。これもまた、巡り合わせか。──江紹!」
徐慧が名を呼べば、一人の男が執務室へと姿を見せる。
名を江紹というらしいその男は、先ほど素月たちをこの部屋へ案内した職員だ。
「連れて行け」
「承知しました。──阿葉殿をお連れしろ」
江紹の奥から現れたのは、もう一人の職員。
その職員が、阿葉を部屋から連れ出そうとする。
「あ、あの!」
「採寸をするのはそちらの者だろう? 手早く済ませたいのだ」
厳しく冷たい声は、異論を許さない。
徐慧の気迫に押された阿葉は、大人しく職員に連れられ、部屋を出ていった。
部屋に残ったのは素月と徐慧、そして江紹。二人きりじゃないのは、せめてもの救いだ。
平静を装いつつ、素月はただ黙って徐慧の次の言葉を待つ。
それしか今の自分にできることはない。
もし勝手な真似をして斉王の機嫌を損ねれば、採寸をさせてもらえないかもしれないし、最悪、吉服を仕立てることも拒まれてしまう可能性がある。
いや、むしろその方が良いのでは……?
ふと、そんな考えが脳裏をよぎったが、すぐにそんな考えは振り払った。
花仙楼の繍女として赴いたのだ。
花仙楼、何よりも恩人である楼主に迷惑をかけるような真似はできない。
「──始めよう」
「失礼致します」
徐慧が立ち上がり、素月は一礼してから仕事道具を机の上に置く。
素月は巻尺を手に取り、徐慧の背後に回る。
やはり松香の香りだわ……。
徐慧に近づけば、衣服から斉王府、そしてこの部屋で炊かれている松香と同じ香りがした。匂い袋を身につけていないあたり、この香りが衣服に染み付いているのだろう。
だから徐慧がいることに気づけなかった。
素月は一人で納得し、巻尺を徐慧の肩にあてる。
徐慧は細身に見えたが、しっかりとした肩幅と胸板の厚さに驚いてしまう。
実のところ、素月は男性の採寸をほとんどしたことがなかった。
花仙楼はどうしても女性のお客様が多い。
なので必然的に、担当するのは女性ばかり。
こればっかりは、仕方のないことだ。
「腕を上げていただけますか、水平に」
素月の頼みに、徐慧は無言のまま応える。
徐慧の母である青陽郡主・蕭白蓮に提出した男性の常服は、楼主から教えてもらった寸尺をもとに仕立てたもの。
以前、楼主が徐慧を採寸したことがあったのだろう。
その時の寸尺でそのまま仕立てたが、今日、実際に自分で採寸してみれば、過去の寸尺とは異なることに気づいた。
郡主に提出した常服はきっと、今の徐慧にはきつすぎるだろう。
「桓遠という名の男を知っているな?」
帳面に採寸した数字を記していた素月は、思いもしなかった問いに、筆が止まってしまった。
「……数日前、こちらに案内しました」
なぜ、そんなことを聞くのだろう?
答えられない質問ではないが、素月は少しばかりの疑念を胸に抱きつつ、正直に答えた。
「その者のことを知っているか?」
「お会いしたのは、その時が初めてです。お名前と……どこかの若君なのだろう、ということしかわたくしめにはわかりません」
「なぜ若君だと思った?」
随分と質問ばかりされる。
桓遠を案内したことが、問題だったのだろうか。
「お召し物を見て、裕福な家の方だろうと思いました。あまり城市のことについても詳しくないようでしたので、その……」
「世間知らずの若造に見えたわけだな」
「そこまでは……。ただ、大切に育てられたお方だとは思いました」
本音を言えば、確かに世間知らず、だと思った。
だが悪い人ではなかったと思う。少し自分に自信が無さそうではあったが、心根の優しそうな青年だった。
必ず飴代を払う、と言ってはいたが、もう会うことはないだろう。
「前を失礼致します」
背後から、正面──徐慧の目の前に立つ。
「どうかしたか?」
「……いえ、失礼致します」
正面からだと、距離が急に近くなる。
素月は戸惑いをどうにか誤魔化し、徐慧の腰回りを測るため、腕を腰に回す。
女性であろうと男性であろうと、採寸の方法は変わらない。
だがやはり、相手が異性だとどうにも距離が近すぎて躊躇してしまう。
兄だと全然気にならないのに。
「──生まれはどこだ?」
「辺境の名もない村です。殿下はご存知ないかと」
「今もあるのか?」
「五年前の戦火に巻き込まれ、今はもう、ありません」
「…………そうか。配慮に欠ける問いだった、申し訳ない」
「どうぞお気になさらず」
素月の答えに、徐慧の声が低くなる。
その声に、わずかばかりの動揺があったような気がするが、気のせいだっただろうか?
五年前、万華国は隣国と戦をした。勝利したのは万華国であったが、その戦火に巻き込まれ、いくつもの村が焼け、住む場所を失い各地に難民が溢れた。
その当時は万華国も難民救済に奔走していたため、素月や素弦、淳雪は万華国での戸籍を誤魔化すことができたのだが、心境としては複雑だ。
自分たちを守るために、戦争を言い訳に使っているのだから。
しかし、斉王とあろう者が一介の繍女に謝るとは……。
「終わりました」
いつもより手際が悪かったが、それでも問題なく採寸を終えることができた。
素月は仕事道具を手早く片付け、徐慧と距離を取る。
だが距離を取っても、室内全体に松香の匂いが満ちているせいか、すぐそばに徐慧がいるような気がして、どうにも落ち着かない。
違う香り同士がぶつかり合うよりも、同じ香りの方がマシだと思っていたが、こういう不都合な場合もありえるのか。
とはいえ、仕事は終わった。
あとは阿葉と合流して、花仙楼に帰るだけだ。




