10 斉王か大理寺少卿か
長い廊下を、大理寺の職員と二人の娘が歩いている。
ひとりは素月。
もうひとりは花仙楼で共に働く繍女・阿葉。
同行者は錦児の予定だったのだが、直前になって錦児が足を怪我してしまったのだ。
幸い軽い捻挫で済んだが、無理をすべきではないと今日は同行だけでなく、店自体も休んでいる。
素月ひとりで大理寺へ向かおうと思ったが、仕事とはいえ年頃の娘がひとりで殿方の採寸をすべきではない──しかも相手は斉王、失礼があってはならない──、と楼主が判断し、同行者に自ら志願した阿葉と共に来たのだ。
素月は採寸用の道具を両手で持ち、職員と阿葉の後ろを歩く。
阿葉は共に働く同僚ではあるが、先輩だ。
素月よりも一年早く、花仙楼の繍女として働いている。愛想が良く、工房ではなく店に立つことが多い。
なので、制服は錦児と同じ桃色。
ただ素月は、阿葉とはそれほど親しくない上、あまり彼女のことを好意的に見れない。
愛想が良くはつらつとしているため接客向きの性格だとは思うが、仮にも花仙楼で働く繍女。刺繍の腕を磨くべきなのに、阿葉は積極的に針を持とうとしない。
考え方も働き方も人それぞれではあるが、仮にも花仙楼の繍女。針を持たないなんて……。
「こちらでお待ちください」
案内されたのは、広い部屋だった。執務室と応接室を兼ねているのかもしれない。部屋の奥には壁一面に本棚が置かれ、書簡などが大量に詰め込まれている。
その本棚を背に存在感を放っている重厚感のある机が、斉王の執務机なのだろう。
凝った格子窓のすぐそばには、客人か、あるいは依頼人か──もてなすための席が用意されている。
室内を満たすのは、松香の香り。斉王の好みなのだろうか?
斉王府でもこの香が用いられていた。
「あの──」
職員が去る前に、素月が声をかけ呼び止める。
「どうかされましたか?」
職員の声は抑揚がなく、冷たく聞こえる。
「どうお呼びしているのでしょうか?」
素月の問いの意味がわからなかったのだろう。職員が眉をひそめる。
その反応を見て、素月は自分が言葉足らずだったことに気づく。
「失礼しました。大理寺では、殿下のことをどうお呼びしているのか気になったもので」
「ここの者は大抵、少卿とお呼びしております。おふたりは──殿下、とお呼びしても問題ないかと思います」
「教えていただき感謝致します」
素月は丁寧に礼を返し、部屋を出て行く職員を見送る。
「変なことを聞くのね」
二人きりになると、阿葉が口を開いた。
店ではおしゃべりだが、やはり大理寺ともなると緊張するらしい。
「ここは大理寺、斉王府ではないもの。──呼び方には気を付けるべきだと思っただけよ」
上流階級とは複雑なもので、呼び方ひとつ間違えただけで罰を受けることもある。細心の注意を払い、薄氷を踏む思いで行動しておいた方が良い。
花仙楼の名に傷をつけないためにも。
斉王・徐慧の採寸を行うために大理寺へ赴いたとはいえ、ここは大理寺で、大理寺にいる以上、徐慧は斉王でもあり大理寺少卿でもあるのだ。
「殿下」「少卿」、どちらで呼ぶのが相応しいのか、気になった。
「そんな小さなことまで気をつけないといけないなんて、息が詰まるんですけど」
「大切なことよ。特に高貴な身分の方と関わる際は、言葉だけでなく、所作のひとつにさえ、気をつけねば」
「気にしすぎじゃない? それよりもさ、斉王様の採寸、あたしがしちゃだめ?」
部屋の主人がいないというのに、阿葉は勝手に歩き回る。
素月は咎めようと思ったが、阿葉が素直に言うことを聞くだろうか?
「採寸に間違いがあれば、仕立てる際にずれが生じてしまうわ」
「あたしが間違えると思ってるわけ?」
阿葉に睨まれたが、素月は何も言わず、その場から動かずに立ち続ける。
ただ視線だけは、動かしていた。
まさか執務室に阿葉と二人、放置されるとは思っていなかったので、少しばかり戸惑ってしまう。
花仙楼が名の知れた繍坊とはいえ、いささか不用心すぎないか?
ここは大理寺少卿の執務室なのだ。極秘の資料などが置いてある可能性は非常に高い。
だというのに、案内役の職員はなんの躊躇いもなく部屋を出ていってしまった。
それが少し、気になる。
「楼主の一番弟子だからって、偉そうにしないでよね。あたしの方が先輩なの。先輩の言うことは素直に聞くものよ」
「────間違いがあっては、困るから」
視線を動かしながら、阿葉の不満そうな物言いに素月は先程と同じ答えを返す。
今日の採寸は、秋の園遊会で斉王が身にまとう吉服を仕立てるため。
もし採寸に間違いがあった場合、仕立てた吉服が台無しになってしまう。
そこらの平民や商人がまとう衣ではない、斉王がまとう衣なのだ。
決して、間違いがあってはならない。
もし裾が長ければ、袖が短ければ──恥をかくのは斉王。
そしてその責を負い、罰を受けるのは仕立てた繍女と、繍坊だ。
最悪の場合、繍女は自死を命じられ、繍坊の名は地に落ちてしまうことだろう。
「考えすぎじゃない……?」
「そう思うのであれば、あなたは採寸を行うべきではないと思うわ。──私は何事も、慎重に確実に、進めたいの」
一歩間違えれば、その先は光のない底なし沼。
そんな未来は遠慮したい。
「その意見には、私も同意見だな」
二人しかいないはずの室内に、男の声が響く。
阿葉は驚き、動きが止まる。
素月は声が聞こえた方──衝立が置かれた方向へ目を向けた。
素月の五感は鋭い。
だというのに、物音ひとつなく、気配も感じなかった。
なんの匂いもしない──いや、違う。
──同じ匂いなんだわ……。
衝立の向こうから、一人の美丈夫が姿を見せる。
背が高く、長い黒髪は高い位置でまとめて一つに結われ、一切の乱れがない。前髪の向こうには凛々しくも冷たい氷のような厳しさが宿る、切長の黒い瞳。
その瞳が、こちらを品定めをするかの如く睨むように見ている。
初対面ではあるが、素月は男が見にまとう衣が大理寺の物で、なおかつ腰に佩用された腰牌をみた瞬間、すべてを理解した。
「斉王殿下に拝謁致します」
「は、拝謁致します!」
素月が跪くと、阿葉が遅れてその場に跪いた。
そんな二人を、斉王がどんな目で見下ろしているのか──素月には知る術などあるはずもない。




