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1 素月という名の繍女


 夏が過ぎ去ろうとしている。


 休憩のため外へ出た素月(そ・げつ)は、まだ少しだけ濃い色をした青空を見上げ、眩しい太陽に目を細める。

 日差しはまだ夏を感じさせるが、素月の黒髪を揺らす風は涼しい。


 夏はあまり得意ではないので、夏の終わりは大歓迎なのだが、秋が来たら来たで店が忙しくなる。

 それもまた厄介ではあるが、忙しいこと自体は別段悪くはない。店が忙しいのは繁盛している証拠なわけだし、店が繁盛すれば売り上げが上がり、給金も期待できるというもの。


 兄と二人暮らし、頼れる実家も親戚もいない素月にとって、稼げることは喜ばしいことだ。


 ──そうか、夏が終わるということは、兄上の誕辰か……。


 素月のたった一人の家族である兄・素弦(そ・げん)は冬生まれ。

 ほんの数年前までは誕辰の祝い品どころか、誕辰そのものにすら気を使う余裕のない日々を送っていたが、ここ最近は精神的にも金銭的にも、誕辰を祝う余裕が出てきた。 


 何が良いだろうか?


 あまり高価なものは贈れないけれど、幸い刺繍の腕は良いと自負している。都──いや、国一番と名高い繍坊「花仙楼(かせんろう)」で働いているのだ。

 長衣に靴──それらを仕立てた後、素月が丹精込めて刺繍を施せば、貴族がまとう高級品と比べても見劣りしない出来栄えになるだろう。


 花仙楼で働き始めてから三年が経とうとしている現在、それなりの給金を毎月、安定して得ることができている。

 今年は奮発して、少しばかり上等な常服を仕立ててみるのも良いかもしれない。

 兄は一つのものを長く使い続けてくれる人ではあるが、多少の無理をしていることくらい、素月は見抜いている。


 まだ使える。まだ大丈夫。お前が繕ってくれるから、新しいのはいらないよ。


 もう数え切れないほど同じことを言っては、使い古した衣を着続けている。


 実際、一昨年贈った木綿の長衣も、二度か三度、袖を通しただけ。


 素月自ら仕立て、控えめながらも手の込んだ刺繍を施した長衣。

 兄はものすごく喜んでくれて、贈った素月も満足したのだが、兄はもったいないから、とろくに使ってくれなかったのだ。

 なので去年は小物数品を贈り、無理やり使わせることにしたのだが、今年はどうしたものか。

 何を贈ろうとも、あの兄のことだ。大層喜んでくれるだろうが、使ってもらわなければ意味がない。


 やはり使ってもらいたい! というのが作り手、そして贈る側としての本音。

 兄は今年で二十三歳。それなりの服を持っておいても、損はしない。

 もしまたもったいないから、と言って着るのを躊躇うようなら、一昨年贈った長衣を使わせればいい。服は飾るものではなく、着るもの。しまっておく方がもったいない。


「素月!」


 考え事に集中する素月を、背後から誰かが呼び止めた。

 素月が反射的に振り返ると、そこには桃色の襦裙(じゅくん)を身にまとう若い娘がいた。

 同僚の夏錦児(か・きんじ)だ。

 素月と同じ、十八歳。


 花仙楼では制服を支給されるのだが、役割によって襦裙の色が変わる。

 素月のように店には立たず刺繍の製作に集中する者は水色の襦裙、逆に店先に立つ者は桃色の襦裙を支給される。

 もちろん、桃色の襦裙を着ているからといって、刺繍ができないわけではない。

 花仙楼で働く繍女は皆、どこへ出しても恥ずかしくないほどの腕前を持っている。


「どうかした? 休憩に行こうと思っているんだけど」


 午後から大事なお客様が来ることになっているので、今日は早めに休憩を取ろうと思い外へ出た。

 そのことは他の繍女も承知している。


「間一髪、間に合って良かった……。()夫人とそのご息女がご来店よ」


「────今?」


 驚く素月に、錦児は力強く頷き返す。


「随分と早いのね……」


 予定していた時刻よりも、ずっと早い。


「ああいう方達は、自分中心に世の中が動いてると思っているのよ。自分たちが来たいと思ったときに来て、こっちの都合なんてお構いなし」


 誰も聞いていないことをいいことに、錦児の物言いは無礼且つ辛辣。

 けれど素月は否定しないし、注意もしない。

 錦児と同意見だから。


「見越して準備をしておいたのは正解だった、ってことね」


「さすがは素月。用意周到、ちゃんとわかってるじゃない」


 休憩に行く前、採寸に使う巻尺や帳面などを来客用の部屋に準備しておいたのだ。


「じゃ、戻りましょ」


「そうね」


 予定が狂ってしまったけれど、面倒な仕事を早めに終わらせることができる、と思えばそう悪いことでもない。

 自分がどう受け取るかで、物事の良し悪しは変わるものだ。

 ここは前向きに受け取ろう。


「私、李夫人とは幾度か顔を合わせたことがあるんだけど、ご息女とは初めてなの。どんな方か知ってる?」


 錦児と並んで今来た道を戻りながら、素月はなんのけなしに聞いてみた。

 素月は日頃から、家と職場の往復ばかり。人と積極的に交流するような性格でもないため、世の中のことについて、少しばかり疎いところがある。


 ここ一年くらい、貴族や裕福な商家の夫人や令嬢の服を仕立てるために、楼主と共に客の前に立つ機会が増えつつあるが、それでも知らないことの方が遥かに多い。


 そんな素月に対して、錦児は社交的な性格をしているため、交友関係が広く、店に立ち客の相手をする立場も相まって、噂話や流行についても色々と知っている。


 李夫人は高飛車で人を見下すようなところがあるけれど、そこは上流階級の人間に共通しているので、こちらが立場を(わきま)えて行動すればなんら問題はないのだが、その娘については何も知らない。


 李夫人と同じような性格なのだろうか?


「錦児?」


 自分よりも遥かに口数の多い同僚が、一瞬にして無言になった。

 何やら嫌な予感がする。

 素月がもう一度、同僚の名前を呼ぼうと口を開くのと同時に、錦児が低い声で、吐き捨てるように言った。


「あれは──ただのわがまま娘よ」


 錦児の顔は、とてつもなく渋い顔をしていた。



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