賢孝様からのお呼び出し②
「顔を上げなさい」
柔らかながらも決して逆らえない、権威者ならではの声音でそう告げられて四人は一様に頭を上げる。目に飛び込んだのは、相も変わらずの美しい顔立ちに柔和な微笑みを浮かべた賢孝だ。緩く左耳の下で結んでいる亜麻色の髪は、どう手入れをすればそこまで綺麗になるのだろうと問いただしたくなるほどにサラリとしている。
ゆったりと肘掛けに身を持たせて座っている賢孝は、ここに姫たちがいればこぞって頬を染めるのだろうなと容易く想像がつくほどに色気が漂っている。
凱嵐とは対照的な優男ぶりだ。ただし見た目だけであるが。性格に関しては、キツいし腹黒いと紫乃は思っている。
「本日、お前たちを呼んだのは他でもない。近く開催される『春来の祝宴』についてだ」
賢孝は言うと、分厚い文書を握った右手を突き出した。
広間には入ったものの、賢孝と紫乃たちの間にはまだ横たわった人間三人分ほどの距離がある。
控えていた奏者番が恭しく文書を受け取ると、そっと朝餉のじさまへと手渡す。
「失礼いたします」
じさまはそう言うと。文書を開きーー驚愕に目を見開いた。
「し、招待客……五百二十八人、ですと!?」
「!?」
じさまの呟きに驚いたのは、昼餉の旦那と伴代、紫乃だ。
さっきの話では例年四百人ほどと聞いていたが、それより百人も多いではないか。
御膳所の御料理番は五十人いるが、それでも五百人分を作ると言うのはどう考えても骨の折れる大作業だ。
しかし賢孝はこちらの驚きなどまるで意に介せず、言った。
「朝議の結果、招待客が膨れ上がった。まあ、問題ないであろう?」
ここで「問題あります」と言えればどれほど良いだろう。賢孝は皇帝である凱嵐の右腕と称され、皇帝直々に下賜された蒼に連なる露草色の羽織紐を身につけるほどの人物。逆らえば首が飛んでもおかしくない。紫乃ならば言い返しているだろうが、紫乃が口を開く前にじさまは畳に手をつき、頭を下げ、即座に言った。
「はい、問題ございません」
「よろしい」
満足そうな賢孝を見て、紫乃は思った。
宮中ってしきたりとか序列が面倒くさいなと。
そんな紫乃の思いが伝わってしまったのか、賢孝は柔和な微笑みをたたえたまま視線を紫乃に向けた。
「時に、夕餉の御料理番頭」
「はい」
「お前には少々話がある。この場に残るがいい。後の者は行ってよい。祝宴に出す料理、しかと話し合え」
「は」
深く一礼した紫乃以外の人間は、命令通りに去って行った。
紫乃は内心、ゲェッと思いながらもその場に止まる。
しかし紫乃の胸中など知らない御膳所の面々は去り行き、無情にも部屋には賢孝と紫乃の二人だけが取り残されてしまった。
「こっちへ寄れ」
柔和な顔立ちに関わらず、賢孝の態度は威圧的である。
「…………」
紫乃は渋々、賢孝の方へと座ったままずりずりと近づいた。その距離およそ、人一人分。
「もっとだ」
言われて紫乃は、今度は一歩分ほどの距離を詰めた。
そんな態度の紫乃に賢孝は痺れを切らしたのか、柔らかな顔にドス黒い笑顔を浮かべ、穏やかに言う。
「紫乃様、と呼ばれ額ずかれ、私の方から近づいて欲しいのか?」
「滅相もございません」
紫乃は賢孝のただならぬ気配を察し、慌てて腰を上げると賢孝の元へと馳せ参じる。
膝と膝とがくっつくほどの距離まで来ると、賢孝は満足したように口の端を持ち上げ、紫乃の腕をぐいと掴んで己の方へさらに引き寄せた。
「…………っ!」
バランスを崩し賢孝の胸元へ倒れ込む寸前、なんとか畳に手をついて堪える。
紫乃の体は賢孝とほぼ密着しており、露草色の羽織紐が目の前で揺れていた。
距離を取ろうにも賢孝が力の限り紫乃の腕を引っ張っているので、それも叶わない。凱嵐は体躯が引き締まっているのでわかるのだが、この男の場合、見るからに細身のくせにどこにこんなに力があるのだろう。まるで花見のようである。
そんなことを考えていると、身を屈めた賢孝が紫乃の耳元で囁くように言った。亜麻色の髪が頬に触れ、くすぐったいのだが、そんなことを言っている場合ではない。
「お前の出自は陛下と共に聞いている。……御料理番のままで良いとのことだが、くれぐれも妙な気は起こすなよ」
至近距離で紫乃を見つめる賢孝は、先ほどまでの穏やかな微笑みが消し飛んでいる。まるで刃物のような鋭さと吹雪く冬の怜悧さを感じさせた。
「陛下を裏切るような真似をすれば、私が即刻お前を処分する」
「肝に銘じておきます」
「よろしい」
この紫乃の一言をもって良しと考えたのかどうなのか、賢孝は姿勢を起こした。
相変わらず膝がくっつく距離ではあるが、顔を離してもらえただけでありがたい。
「さて、今の話とは別に離しておくべきことがある。お前はこの春来の祝宴の調理に参加しなくてよろしい」
「……はっ?」
話が急に変わったことと、あまりに予想外な言葉に、紫乃は思わずそう口にしてしまった。
混乱する紫乃に賢孝が補足説明を入れてくれた。
「お前には、祝宴の後に催される貴人殿での後宴の調理を担当してもらいたい、と陛下より直々にお言葉を預かっている。後宴は非公式な宴で、陛下の血族たる剛岩の方々が参加する内々の集まり。よって春来の祝宴は、先代御料理番頭に担当してもらう。その為に先代の夕餉の御料理番頭を呼んだのだ」
「ええっと……理由をお聞かせいただいても?」
「気になるか」
「そりゃあ、とても」
紫乃が答えると、賢孝は指を二本立てて言う。
「理由は二つ。まず一つ目に陛下は、祝宴の最中に白元妃の手の者に襲撃されるのを恐れている」
「なるほど」
紫乃の正体が処刑されたはずの先先代御料理番頭、紅玉の娘であるというのは既に白元妃側の知るところ。死んだと思っていた女が実は生きていて、しかも娘が宮中にいると知れば必ず紫乃の抹殺を企むだろう。
例えば祝宴の席で貴人の膳に毒を盛ったとでっち上げ、紫乃を処刑するとか。
あり得そうな話すぎて笑えない。
賢孝は紫乃の考えを読んだのか、一つ頷くと言葉を続ける。
「宮中を上げての一大行事がそなたの死刑宣告の場になっては大変だからな。事件が起こるのを恐れた陛下が、紫乃の祝宴への参加をお決めになったのだ。
そしてもう一つの理由であるが、」
「はい」
「……祝宴は大規模な行事であるが故、格式ばった料理が並ぶ。陛下は、そなただけが作った料理を、ごく身近な方々と共にお召し上がりになりたい……と考えているそうだ」
「…………」
先ほどとは異なる、極めて私的な理由に、賢孝は頭が痛いとでも言いたげに首を左右に振った。
「そう言うわけなので、そなたは後宴に全力を尽くせ。なおこちらの参加人数は、陛下と私を含めて七名だ。通常の夕餉の支度とほぼ変わらない量の膳を作ってもらう」
「かしこまりました」
「毒見はいつも通りそなたが。警備を厳重にする故、貴人殿に立ち入る者は制限をかける」
「はい」
賢孝は首を少し傾け、亜麻色の髪を揺らす。
それから眉根を寄せ、皮肉のような笑みを漏らした。
「随分と大変な星の下に生まれついたようだが、陛下はそなたを非常に気に入っている。妙な気を起こさなければ、こちらできちんと保護をすると約束しよう。ちなみにそなたが御料理番としての地位にこだわる以上、私も態度を改めるつもりがない」
「それで結構にございます」
いきなり床に手をつかれ、額ずかれたら紫乃の方が辟易としてしまう。
賢孝とはこのくらいの距離感がちょうど良い、と紫乃は思った。
敵対視される訳ではなく、かといって近すぎる訳ではなく。
実に彼らしい紫乃の扱いに、自然、紫乃の口の端が持ち上がった。





