緋醒
──八宵は山のふもとの村を守る星師だった。
とても小さな村だった。
人々が日々の糧を得るのでやっとの、貧しく、けれど幸福な。
それがある日、山を三つ越えた町からの使者がやってきて、村を大きくすることになった。
すると当然、山が邪魔になる。
峠を越えるのは難儀だし、あの辺りには狼が出る。
けれど自分達は山と共に生きてきた。
山があるからこそ生きてくることができたのだ。
……村人たちはためらったが、その感情も豊かさには変えられない。
なによりも、子供が病にかかるたび三つの山を越えなければいけない距離は辛かった。
そして人々は山に道を通すことにした。
そこで、山に住む狼たちを一掃退治することにしたのだった。
狼は危険だし、人を食えば妖怪にもなるという。
だが村人たちが一致団結し準備を進めていたところ──立ちはだかった女性がいた。
八宵だ。
(あんたたちは、自分が何をしようとしているのかわかっているのかい)
彼女は言った。まっすぐな、けれど悲しい目で。
(狼たちはずっとあんたたちを見守ってくれてた。一度だって人を襲ったことはないじゃないか。それを、ただ邪魔だからって、そんな理由で殺そうって言うのかい?)
人々は八宵を恐れていた。奇妙な力を持つ、鬼の娘。
彼女に退くようにと何度も言ったが、彼女は頑として譲らなかった。何度も衝突が繰り返された。
そしてついにある日。
彼女の存在を忌んだ商人が、彼女を捕らえた。
そしてその隙に山に火を放とうと算段した。
八宵は毒を盛られていた。けれどこのままでは、緋醒たち狼が殺されてしまう。
彼女は必死に牢を抜け出した。
そして緋醒にこの事態を告げようとしたが、体が動かない。
仕方なく魂魄だけを山に飛ばして息も絶え絶えに緋醒に告げた。
すまない、お別れをつげに来た。逃げてくれ。
(逃げてくれ、緋醒──!)
驚愕する緋醒の耳に、同胞たちの悲鳴が届く。
山に火が放たれた。
飛び交う怒りの声、憤り、憎しみ。
仲間を逃がしたが、八宵の体が見つかっていない。
星持ちの体は魔物に食われるという。
緋醒は仲間の止める声も聞かずに山を駆け下りた。
すると峠で虫の息の八宵を見つけた。
そしてそのすぐ背後まで迫った人間。
緋醒を守ろうとした仲間たちを殺し、高笑いをあげて、その歪んだ心に鬼が寄り集まり始めていた。
──よくも
緋醒の心に怒りが燃える。
──よくも、八宵を
よくも仲間を。よくも山を!
許さない。
(──許さんぞ、人間ども!!)
緋醒は力を爆発させた。
怒りに我を忘れた。何人も殺した。
腕をちぎった、目玉を潰した、内臓を引き裂いた。
飛び交う血糊、肉片、その背後で赤々と火柱を上げる山。
まさに阿鼻叫喚の地獄絵図。
やがてすべての人間を殺しつくした時、緋醒の輝く白銀の体毛は、血を吸ってどす黒く変色していた。
蒼く澄んだ空のようだった瞳も、怒りの緋色に染まって。
彼はふらふらと八宵の元へと近づいた。
彼女の死を待ち、後から後から際限なくわいて来る鬼たちが、じっと離れた場所にうずくまっていた。
(……八宵)
緋醒は彼女の顔に鼻面を寄せた。
八宵は微笑んでその鼻面に手を触れた。
(ありがとうね。……緋醒)
そしてすまない。あんたに人を殺させてしまった。神であるあんたに。
(我が決めたことよ。お前が気に病むことではない)
それよりも傷を治さねば、という緋醒に八宵は首を振る。
(もう助からん。それよりも、頼みがある。最初で最後の、とても残酷な頼みだ。友であるお前にしか、頼めない)
友。八宵はそう言った。
緋醒はうなづいた。
(聞こう)
(私を、喰ってくれ。このままではどうせ鬼に食われる。そうなればまた厄介な鬼が増えるだけよ。だが星師の私が死ねば、その鬼を退治する者すらいなくなる。……この地は荒れるであろう。だから緋醒、私を食べろ。そして私の力を得て、この地を守っていってくれ)
そして緋醒は、八宵の願いを聞き入れたのだ。
友を喰い、その血肉を得て、彼は鎮守神でありながら妖怪となった。
呪われた神。人食いの神よ。
(今度生まれるときは……)
八宵はつぶやいた。
今際の際に。
(また互いに友となろうぞ。緋醒)
人を恨むなよ。
うらむより、愛する方がずっと心は安らかだ。
星持ちはまたその定めを繰り返す。
私と同じ右手に星を持つものがいれば、それが私の魂の後継。
(きっと、また会える。それまで、またな)
──そして彼らは別れたのだ。
残ったのは血で穢れた山、殺された人間と狼の累々たる死屍。
遣りどころのない憎しみと寂しさに猛る緋醒は里の人間までをも殺そうとしたが、八宵の今際の際のことばを思い出し、最後の最後で思いとどまる。
──人を恨むなよ
──うらむより、愛する方がずっと心は安らかだ
だから、彼は敢えて。
あえてその身を捕えようとする人間達のされるがままとなり、三百六十五日飲まず喰わずでさらしものにされたあげく封印を受け入れたのだ。
人を──憎みながらも愛そうとして。
愛しながらも、憎まずにはいられず。
永い長い年月を眠っていた彼は、だがしかし、不測の事態によって再び現世によみがえることとなった。
「……あとは、お前も知る通りじゃろう」
ババアが言った。
俺は何も言えずただ首を振った。
そうだ、知っている。
ハル先輩によって目覚めさせられた鎮守神。
人を憎む心を抱いていた彼は、おそらく先輩に人間を……俺と深紅を殺すようにと命じられ、断る由もなく従った。
人は嫌いだから。
大切な友達を、仲間を、山を、私利私欲で汚し殺したおぞましい存在だから。
きっと彼はそう思って俺たちを見つけ出したのだろう。
けれど。
けれど──……彼は俺たちを殺さなかった。
それどころか、協力して、助けてくれて。
その強靭な心で護ってくれた。
「どうして……」
俺は掠れた声を喉から絞り出す。
本当に、どうして。
人に、いつもいつも人に、翻弄されてきたのに。
大切な人を奪われて。
傷つけられて、悲しまされたのに。
「どうして、俺なんかの、そばに……っ」
「明白じゃろうが。バカ弟子が」
絶え間なく白く湧き出でる淡い光のむこう、ババアがそう呆れた声を出したのが聞こえた。
「──あやつはお前のことが好きなのじゃよ。蒼路」
「好き……?」
思いもがけぬ言葉だった。
起きてから何度も泣いたせいで熱く腫れ始めた目元を感じながら、俺は顔をあげてババアを見つめる。
「鎮守神が……俺を?」
「そんなわけない、という顔をしとるな」
ババアはさらに苦笑を深くする。
顔の皺がもっとシワシワになった。言えないが。
彼女は続けた。
「だがこういう感情には理由などない。……遥がアンナを愚かさにまみれながらも離さなかったように。お前が深紅を命がけで護ろうとするように。あやつは、鎮守神は、ただそうしたいからお前の傍にいてお前を守護することを選んだのだ」
「──」
「よく似ておるぞ、お前とあの犬は。素直で、一途で。呆れるほどに純粋だ」
「似てる……?」
俺は涙に濡れた眼を見開いた。
なにか、言いようもない感情が心を横切っていった。
言葉を発しようとして、けれど何といえばいいのかわからない。
口元に手を当てて考え込んだ。
言葉を切ったババアはそんな俺を横目で見守っている。
(──もしも)
俺は考える。
もしも本当に、鎮守神が俺を好きだと想ってくれているなら。
そしてその感情のためだけにどんな痛みも傷も厭わず、俺の傍にいてくれたとしたなら。
それはどれほど強く純粋な想いだろう。
(……いや、もしもじゃないな)
俺は眼を開けた。
そしてここには無いものを見るように眼を細め、彼の、鎮守神の瞳を思い出した。
緋色の瞳。
夕焼けとも花ともつかぬ、あたたかに燃え上がる紅葉の色をしたあの澄んだ眼を。
そして自分はとっくに彼の想いを知っていたことに気がついた。
ああ、そうだ。
「……ババア」
俺は顔を上げた。知らず微笑んでいた。
師匠はいつもどおりの仏頂面でこちらを見、なんじゃと短く問い返す。
俺は明朗にこう言った。
「この魔法陣、いつ出ていい? 俺、鎮守神と話がしたい」
──そう。話がしたい。
たくさん、たくさん。
あいつの気持ちに答えてやりたい。
哀しい過去を消すことはできなくても、楽しい未来を一緒に作っていくことはできるのだから。
「俺は──俺も。あいつが好きだ」
俺は言った。
だから。
「これからもずっと、あいつと一緒に生きて生きたい」
俺はババアにそう言った。
彼女はただ頷いた。
小さな瞳がきらりと光る。
「……そうか」
「うん」
「気持ちは、決まっておるのだな」
「うん」
確かめるように向けられるまなざしに、俺は迷い無く顎を引いた。
ババアはそのまま何か思案するようにしばし考え込んでいたが、程なく膝を伸ばして立ち上がると、部屋の出入り口を目指して歩いていった。
「おい、ババア……」
さっきの質問の答えをまだもらっていない。
声を上げかけた俺を、ババアは片手でさえぎった。
「正午になれば少し外へ出ても好い。それまでは食事をし、睡眠を取って休んでいろ」
***
正午を迎えるなり俺は飛び出した。
庭で俺を待ち構えていた眷属たちに居場所を聞いて、そのまま彼らと一緒に鎮守神の元へ向かう。
──彼は、屋敷の外に出てしまっていた。
だから俺はなおさら急いだ。
陰陽会が鎮守神の件でハル先輩にいちゃもんをつけている今、当の鎮守神がひょうひょうと空を飛んでいては非常にまずいものがあるからだ。
彼はいつか俺が花緒と尋ねた、あの朽ちた社に居た。
裾野の只中にあるそこまでの距離を、半ば走り、半ば眷属たちの背に乗せてもらいながら、俺はなんとか辿りついた。
「……はー……っ」
半端じゃなく息が上がる。
自分でも心配になるほど心拍数が跳ね上がっているのがわかった。
ぽたぽたと珠のような汗が額からあふれて、絶え間なく頬を、顎を滴り落ちる。
『だ、大丈夫か星の子?』
密な樹木に囲まれて、辺りはうっそうと暗かった。
崩れかけた灯篭に手をついて膝を折った俺を、眷属たちが心配そうに覗き込んでくる。その毛並みが淡く輝いて見えた。
俺は大丈夫、とみじかく答えて、あまり間をおかずに再び歩き出す。
全身の傷は絶え間なく痛み、体は鉛のように重かった。
でも、彼の気配がする。
彼は確かにここにいる。
そのことがわかっていたから、俺は、全然苦しくなんてなかった。
「──……緋醒」
参道の真中で立ち止まり、その名を呼ぶ。
彼のまことの名、かつて八宵さんが愛しさを込めて呼んでいたであろう名を。
「緋醒、いるんだろう? ……出てきては、くれないか」
俺は拍手を打った。
静寂を待とう社に乾いた音が響き渡る。
崩れかけた本殿の屋根に巻きついた赤い布の切れ端が、ふいにひらりと揺れたのが視界の端に見えた。
風が、吹く。
俺は眼を閉じてその瞬間を待った。
鼻腔にあたたかな大地の香りが流れ込むのを感じた瞬間、眼を開ける。
漆黒の狼が、参道に降り立った。
社を埋め尽くすほどの巨大な体躯、どこかさびしさを含んだ緋色の底の無い瞳をして。
何も言わずにただじっと俺を見ている。
俺は彼の元へ歩み寄った。
精一杯のやさしさで以ってあたたかな毛並みに手を当てる。
そして、言った。
「……ありがとうな」
俺の心から、彼の心から、あふれてくるものがある。
それを互いに伝えるには、言葉だけではとても足りない。
でも言葉にしなければその僅かすらも伝わらない、だから俺は彼の眼を見てこう続けた。
「本当に、ありがとう。……そしてすまない。いつもいつも、人の都合で振り回して、哀しい想いをさせてしまって」
俺の言葉を聴いて、緋色の瞳にふっと理解の色が過ぎる。
彼の体温が手のひらに染みた。
八宵さんと同じ星を持つ、俺の右手に。
「けれど」
俺は、八宵さんじゃない。
彼女の代わりには決してなれない。
時間は巻き戻せないのだし、過去をなかったことにすることもできない。
でも。
「共に──生きては、くれないか。緋醒」
でも、俺は、いまを生きている。
そしてこれからを緋醒とともに、生きていくことができる。
決して離れずに。
『……』
手の下の毛並みが、ふるえたのが感じられた。
はじめは大きく、その後小刻みに全身を震わせて、緋醒は泣いた。
そう、驚くべきことに──その緋色の瞳からは透明な涙が滴り落ちたのだった。
「ひざめ……」
思わず強くその毛並みを掴んだ俺だったが、よくよく見ると彼は何故か笑っていた。
『……くれ、と』
「え?」
ようやく発せられた低い声は抑えたように小さかった。
聞き取りづらく問い返す。
今度ははっきりと大きな声が空気を揺らした。
『──殺してくれと。そう、頼もうと思っていた』
衝撃の告白だったが、俺はなぜか驚かなかった。
それは彼の言葉が過去形で発せられたせいかもしれなかったし、あるいは彼が笑っていたからかもしれなかった。
首を振って、今度はその鼻面に手を寄せた。
「……お前が、死ぬ必要なんてない」
『我は呪われた鎮守神。人を、友を喰い、妖怪と成り果てた存在だ。今だけではない。生まれた時からずっとそうだった。誰もが我を疎む。恐ろしがって遠ざける。だから、誰かと共に生きることなどできないのだと思っていた。我は、存在するだけで誰かを不幸にするのだと』
俺は言葉に詰まった。
それは違う、と言えなかった。
だって彼の言葉はある意味では正鵠を射ている。
恐ろしい狼、強大な力を持つ鎮守神。
そんな彼は星師である八宵さんを喰らったことで、さらに尋常ならざる力を持つ、神でも妖怪でもない存在へと変化してしまった。
そんな彼を傍において共に生きてゆくのは俺にとっても決して簡単な道ではない。
でも──俺にはもう迷いはなかった。
「緋醒」
俺は彼を呼ぶと少し離れ、距離を置いた。
そして剣を抜く。
両刃の剣が出てくるかと思ったが、今まで通りの手になじんだ日本刀が顕れた。
輝く焔が緋醒の瞳にちらちらと揺れる。
俺がこの刀で彼を斬ると思ったのかもしれない。
硬い表情で緋醒は言った。
『……なんとする。蒼路』
「──もう一度言う。俺と一緒に生きてくれ」
いいざま俺は刃で手首を浅く斬った。
わずかな痛みの後、焼けるような熱さが皮膚を奔る。
あざやかに盛り上がってきた鮮血の雫をまとう右手を、俺は彼に差し出した。
「この血は契約の証」
『契、約……?』
「お前は、死んではいけない。俺と一緒に生きるんだ。そして楽しいことをたくさんして、幸せにならなきゃいけない」
『幸せ?』
それはどういう意味の言葉か、というように、緋醒の瞳が限界まで見開かれた。
いや、たぶん意味は知っているだろう。
ただ心底驚いているのだ。
それほど彼は今まで疎まれ、忌まれ続けてきたに違いない。
「選べ、緋醒」
俺は強い声で言い、右手を差し出したままさらに前へと一歩足を踏み出した。
緋醒は微動だにもしない。
ただ息を呑んでいるのが感じられた。
「俺に殺されるか──あるいは、この血を飲み、俺と共にこの現代で新しい生を生きるか」
言いざま自分に反吐が出そうになった。
血を飲むということは、彼を俺の召還獣に下すということだ。
本当はそんなこと、もちろんしたくない。
俺は異形たちを召使として扱う人間は屑だと思っているのだから。
でも、仕方がない。
今は──これ以外に道が残されていなかった。
彼を護るためには。
『……そなたは』
長い、長い沈黙があった。
やがて緋醒は口を開いた。
透明なしずくはまだその瞳から伝い落ちている。
『そなたは、無謀な戦いをする。また八宵のように喪ってしまったら、きっと我は耐えられぬ。我はそなたを死に追いやった者を間違いなく殺すぞ。たとえそれが人間であっても。──それでも良いのか?』
「──構うもんか」
俺も、また頬を伝う涙を感じながらそう答えた。
彼の心が嬉しかった。
切ないほどの、その真っ直ぐさ。
裏切られてもまた信じようと、何度でも手を伸ばしてしまう。
その気持ちを受け止めて、ぜったいに絶対に、見捨てるものかと心に決めた。
「いくらでも、殺せばいい。俺が死んだ後にはな。……でも、死ぬ前はだめだ」
そう言って微笑んでみせる。
さらに一歩前に踏み出すと、血の滴る俺の右腕は、ほとんど緋醒の口許の位置にあった。
「大体なあ、俺は死なねぇよ。お前を残して先に逝ったりなんかしない。俺がどーしよーもなくなって死ななきゃなんねぇ時は、お前も一緒に殺してやる。それでいいだろ?」
『我はお前の……傍にいていいのか?』
自信の無い声を彼は出した。
尖った耳が垂れ、ふっさりとした尾がしょんぼりと揃えた前脚の間に挟みこまれる。
──ああ、本当の犬みたいだ。
俺は再度笑って、その瞳をまっすぐ見つめた。
「あたりまえだ!」
緋醒がまぶしそうに眼を細めて、それから閉じる。
漆黒の毛並みを濡らして、また涙が滴り落ちる。
けれどそれが最後で、彼はぶるりと大きく身震いすると、涙を体から弾き飛ばした。
つい、と静かに巨大な顔が前へ乗り出してくる。
俺の手首をざらりと温かな感触が撫ぜていって──
──彼は、俺の血を確かにその体の中に入れた。