第1章 6話 家出してきましたの
「明日の午後は、空けておきなさい」
朝食を終えて席を立とうとしたイザベルは、父を振り返った。
「その日は、お約束がありますわ」
昨夜、クラリッサから便りが来た。工房の都合がつき、訪問は明日の午後に決まった。自分が空いていると伝えた日だった。エレナも誘ったが、休暇中は契約魔法の仕事が忙しく、今回は来られないという。
「先方には、別の日にしてもらえばよい。儂と王宮へ行くぞ」
「何をしに、ですの」
「ご挨拶だ。お前も休暇で戻っているのだから、一緒にとお伝えした」
イザベルは椅子の脇で足を止めた。
「わたくしにお訊きになる前に?」
「お前は、誰と約束したのだ」
「クラリッサさんです。魔具の工房へ参ります」
「魔具?」
父が顔を上げた。イザベルは、クラリッサが髪を乾かす魔具を作り、売ろうとしていることを話した。
「ほう。それは、どこの工房だ」
イザベルが名を告げると、父は頷いた。
「うちの者を見に行かせよう。よい品なら、屋敷へ持ってこさせればよい」
「まだ売っているものではありませんの。試しに組んだものを、工房で使わせていただくのです」
「ならば、なおさら日を変えられよう。先方が売りたいなら、待ってくれる」
「わたくしがお願いしたのですわ。見せてほしいと」
父はカップを置いた。
「イザベル。友人との約束を破れとは言っておらん。日を替えてもらいなさいと言っている」
「場所を空けて、湯も用意してくださるのよ。こちらの都合で、またやり直していただくのですか」
「では、こちらから人をやって詫びよう。それでよいな」
「よくありません!」
返事が思ったより大きく響いた。食器を下げていた侍女が手を止め、イザベルは一度口を閉じた。
父はこちらを見ている。まだ立っているイザベルへ、座るように手を向けた。
「今、王宮へ顔を見せておくことが、どれだけ大切かは分かるだろう。あちらも時間を取ってくださるのだ」
「わたくし、その縁談は進めないでほしいと申し上げました」
「挨拶に行くだけだ。それで何かが決まるわけではない」
行けば、イザベルも望んでいると思われる。隣に立って笑ってから、そうではありませんと言えるのだろうか。
「それなら、お父さまだけでいらしてください」
「いつまでそうしておる。あちらの娘にも、もう話してきたのだろう」
イザベルは父を見た。
「お話ししましたわ。でも、それでわたくしが王宮へ行きたくなったわけではありません」
父は息をつき、椅子へ背を預けた。
「少し落ち着きなさい。工房へはいつでも行ける。今は、順序を考えるときだ」
「ここにいたら、わたくしの予定は、いつでも後へ回されますのね」
「そんな話はしておらんだろう」
「休暇が終わるまで、よそへ参ります」
言い切ると、父の眉が上がった。
「どこへ」
そこまでは考えていなかった。
イザベルは卓の縁へ目を落とし、すぐに戻した。
「……宿を取ります」
「行き先も決めずに出ていく気か」
「黙って出ていくとは申しておりませんわ」
父が立ち上がった。叱られると思って背筋を伸ばしたが、父は卓を回り、扉のそばにいたばあやへ声を掛けた。
「泊まるところを確かめて、一緒に行ってやってくれ。護衛も付ける」
「かしこまりました」
ばあやが頭を下げる。イザベルは父へ向き直った。
「……よろしいのですか」
「少し離れて、頭を冷やしてくるのもよかろう。王宮へは、儂から話しておく」
「冷やせば、お返事が変わるとは限りませんわ」
「今ここで決めなくてよい」
また、それだった。
イザベルは言い返すのをやめた。部屋へ戻ると、ばあやが旅行鞄を出してきた。
「工房の近くに、泊まれるところはあるかしら」
「聞いてまいります。お召し物は、こちらでよろしゅうございますね」
明日着るつもりだった服が、寝台の上へ置かれた。イザベルは頷き、自分で櫛と鏡を鞄へ入れた。
*
翌日、リナと工房の前で馬車を降りたクラリッサは、通りの向こうから歩いてくるイザベルに気づいた。ばあやと護衛が付き添っている。
「お待たせしましたわ」
「私も今、着いたところよ。歩いていらしたの?」
「すぐそこの宿ですから」
イザベルが振り返った先に、宿の看板が見えた。
「泊まっているの?」
「ええ。昨日、家を出てきましたの」
クラリッサは、宿の看板とイザベルの顔を見比べた。
「何かあったの?」
「今日の約束を、変えなさいと言われました。父と王宮へ行くようにと」
王宮へ。クラリッサはイザベルを見た。
「お父様と、お話ししたのね」
「ええ。でも、わたくしが何を申し上げても、気が変わるのを待っていらっしゃるのよ」
イザベルは眉を寄せた。
「工房へも、家の者を行かせればよいと。見せてほしいとお願いしたのは、わたくしですのに」
「それで、出てきたの?」
「家にいたら、何を決めても後回しにされると思いましたの。休暇が終われば、学寮へ戻れますし」
言い終えてから、イザベルは外套の襟へ顎をうずめた。クラリッサは、後ろに控えるばあやへ目を向ける。
「ご心配には及びません。旦那様にも、泊まるところはお伝えしてございます」
「頭を冷やしてこいと、ご丁寧に護衛まで付けてくださいましたわ」
イザベルが付け足した。
「冷やせば、王宮へ行きたくなるとお思いなのかしら」
「あなたも、なかなか思うようにはいかないのね」
「ええ。工房へ行くだけで、宿を取ることになるとは思いませんでしたわ」
「休暇の間、ずっと宿にいるつもり?」
「そのつもりです。荷物も、あとから届けてもらいますから」
まだ何日もある。クラリッサは今朝の屋敷を思い出した。
母が起きられない朝は、一人で食事を取る。今朝も、今日の工房の話をしたくて、給仕に来たリナをつい引き留めてしまった。
「それなら、うちへ来ない?」
イザベルが顔を上げた。
「お母様に訊いてみるわ。お部屋は空いているから」
「……お母様に、ご迷惑ではなくて?」
さっきまで父への不満を話していた声が、少し小さくなった。
「訊いてから、お返事するわ」
「ええ。それなら、お願いしてもよろしいかしら。お招きいただけるなら、わたくし一人で伺いますわ」
ばあやがイザベルを見た。
「お嬢様、旦那様には——」
「わたくしから書きます。ばあやたちまで泊めていただくわけにはいかないでしょう」
「……では、お送りするところまでは、ご一緒いたしますよ」
「ええ。そこまではお願い」
イザベルは、そばのばあやをマルトと紹介した。挨拶を交わして工房の扉を開けると、小箱を抱えたポグが歩いてきた。
「今日は、いっぱい来たね。そっち、通ってもいい?」
イザベルが半歩退くと、ポグは空いたところを抜けていった。
「……自分から、通してほしいと言いますのね」
「前にも、ご覧になったことが?」
「ええ。でも、その子は人が前に立つと、動かなくなってしまいましたわ」
奥から出てきたアルキトを紹介すると、イザベルは作業台へ小箱を置くポグを振り返った。
「あの子も、あなたがお作りになったの?」
「はい。ポグといいます」
「こんなに話の通じる子は、初めてですわ」
アルキトは少し照れたように笑い、奥の小部屋へ案内してくれた。リナはマルトと洗髪の用意を始め、クラリッサは持参した絵を卓へ広げた。
*
アルキトが筒をイザベルの頭に合わせ、風を出した。布で水気を取ってもらったばかりの髪が揺れる。イザベルはしばらく黙って風を受けていたが、やがて鏡越しにクラリッサを見た。
「こんなに気持ちがいいとは仰らなかったわ」
「温かい風が出るとは、お話ししたでしょう?」
「それだけでは足りませんわ。これなら、髪を洗うのも楽しみになりそうですもの」
少し責めるような言い方なのに、イザベルは嬉しそうだった。
マルトがリナから教わったとおりに踏み板を傾け、反対側へ風を移した。イザベルは鏡の中で筒を追い、頬へかかった髪を払った。
「風を少し弱くするのは、どちらですの?」
「上のつまみです」
アルキトに教えられて、イザベルは少し戻した。頬の横でなびいていた髪が落ち着く。
「このくらいが、好きだわ」
「座ったままでも、届いたわね」
「ええ。でも、同じ形だと、見てからでないと分かりませんわね」
イザベルは二つのつまみを見比べてから、鏡へ顔を戻した。
クラリッサも二つのつまみを見た。どちらにも同じ溝が付いている。自分が座ったときは、アルキトに変えてもらっていた。
「温かさの方を、お花の形にしたらどうかしら。触って分かるし、可愛いでしょう?」
イザベルが言った。
「花びらの形にもよりますが、作れます。尖らせなければ、指も掛けやすいです」
アルキトが答えた。
「丸い花びらなら、どうかしら。クラリッサさん」
「ええ。どんな形を考えているの?」
「あとで描いてみますわ。……ばあや、もうそちらは乾いていない?」
「表だけでございます。内側は、まだ」
マルトが一房持ち上げると、イザベルはおとなしく前を向いた。
*
マルトが耳の後ろを確かめ、襟足の髪を分けた。もう一度、根元へ指を入れる。
「まだ湿っている?」
「いいえ。耳の後ろも、襟足も……」
マルトはリナへ顔を向けた。
「いつもは、ここがなかなか乾きませんのに」
「私も、初めは信じられませんでした」
リナが嬉しそうに答えた。マルトはアルキトに風を止めてもらい、櫛を取り直した。
「よろしゅうございます。結いましょうか」
イザベルは肩の前へ髪を寄せ、指を通した。
「これなら、出かける前でも洗っていただけそうね。クラリッサさん、わたくしの部屋にも一台欲しいわ」
クラリッサは思わず笑顔になった。イザベルは乾いた毛先を持ち上げ、鏡に映している。
「いつもなら、まだ暖炉の前ですわ」
「お嬢様は、途中でお立ちになりますから」
「用事を思い出すもの」
「そのたびに、お戻りいただいております」
クラリッサが笑うと、イザベルは鏡越しにそちらを見た。
「クラリッサさんは、ずっとお座りになっているの?」
「座ってはいらっしゃいます。お顔が、あちこちへ向くだけで」
リナが横から答えた。
「リナ」
「同じようなものではありませんの」
イザベルとリナが笑い合った。
髪を結ってもらう間に、アルキトから時間と石の減り方を聞いた。今回も二十分ほどで、石は小さい方で足りるという。クラリッサが記録を取っていると、支度を終えたイザベルが卓の絵を覗き込んだ。
「これをお部屋に置くなら、白木もよさそうね」
「あなたの部屋には、そちらの方が合う?」
「ええ。金具も、もう少し目立たなくしたらどうかしら」
「塗ってしまうの?」
クラリッサも実物の留め具へ目を向けた。アルキトがそばへ来る。
「ここは何度も触ります。塗ると剥げやすいので、残した方が」
「それなら、台の縁に同じ色を少し入れるのはどう? 金具だけ浮かなくなると思うの」
クラリッサは、アルキトの描いた絵へ目を落とした。台の縁に色を入れた姿が、うまく思い浮かばない。
「それも、描いてみてくれる?」
クラリッサは記録に使っていた紙の下から白紙を抜き、ペンと一緒に渡した。
「ええ。まず、全体を描きますわね」
アルキトが卓の測り具を脇へ寄せると、イザベルは魔具を見上げ、支柱から描き始めた。折れた腕の下に筒が下がり、台座の縁には細い飾りが付く。筒の丸い口も、こちらへ向いた側と奥へ隠れた側が分かる。
「あなた、絵が上手なのね」
「まだ、途中ですわよ」
「途中でも分かるわ。この筒、本当にこちらを向いているみたい」
イザベルは満足気に、描きかけの絵をこちらへ向けた。
「では、このくらいの飾りはどうかしら。多すぎない?」
「私は好きよ。さっきの花のつまみも、見たいわ」
アルキトも屈んで絵を見ていた。イザベルは支柱の脇へ、つまみを大きく描き足す。
「このくぼみに、指が掛かるようにしたいの」
「もう少し深い方が、回しやすいと思います。ここを」
アルキトが示すと、イザベルは隣へもう一つ描いた。クラリッサは二つを見比べた。花びらを大きくしても、可愛らしさは残っている。
「私なら、こちらを使ってみたいわ」
「わたくしも」
クラリッサはアルキトへ向き直った。
「アルキトさん。この形だと、お値段も変わりますか」
アルキトは店主にも絵を見せ、戻ってきて頷いた。
「最初の一台だけ、花の型代が二千リル加わります。次からは、前のお値段で作れます」
「それなら、この形でお願いします」
イザベルは花のつまみの絵に丸を付け、ふと顔を上げた。
「ところで、この魔具は何というお名前ですの?」
「名前? ……まだ、決めていなかったわ……」
ドライヤー。頭に浮かんだのは、あちらで使っていた名前だった。けれど、せっかくなら、この魔具に似合う名を付けたかった。
クラリッサは筒を見上げた。灯りの笠に似ているけれど、あそこから出るのは温かい風だ。覚えている言葉の響きを捩りつつ、つないでみた。
「……ブローシェ、というのはどうかしら」
「ブローシェ」
イザベルは声に出してから、頷いた。
「ちょっと変わったお名前ね。でも、柔らかい響きだわ」
「アルキトさんは、どう思われますか」
「いいと思います。呼びやすいですし」
「では、ブローシェにしましょう」
イザベルが絵の上へ、その名を書き入れた。クラリッサは隣から覗き込み、白木の支柱に花のつまみが付いた姿を思い描いた。
「反対側から見たところも、描いてくださる?」
「ええ。そちらへ回ってみましょう」
イザベルは立ち上がると、クラリッサを手招きした。




