魔族領
ここから2章は健視点になります。
馬車が傾いた。ワイバーンの体当たりだ。
健の思考は既に動いていた。車輪の沈み込み、崩れる路肩の角度、荷重のかかる方向。状況を構造として把握し、最適解を導き出す。
(石柱で支える。崩落点は三箇所。優先度は——)
「創世」
地面から石柱が伸びる。崩れかけた道を補強し、傾いた馬車を持ち直させる。計算通りだった。これで馬車は落ちない。全員、無事だ。
そう判断した、次の瞬間だった。
視界の端で、エナが弾かれた。
死角から突っ込んだワイバーンの体当たり。小さな身体が宙を舞い、崖の外へ投げ出される。
その光景を、健の脳は瞬時に分解した。
(距離、約五メートル。エナの落下軌道、崖の外側。到達まで〇.数秒)
(自分の位置からでは間に合わない。届かない。助けられない)
計算は、そう出ていた。
崖の外へ投げ出されていくエナ。その怯えた顔が、ほんの一瞬、別の誰かと重なった。
妹だった。
理由は分からない。ただ、助けを求める小さな顔が、置いてきたあいつと重なった。
次の瞬間、健は地面を蹴っていた。
思考より先だった。設計も、損得も、生存確率も、何一つ計算していない。気付いた時には、もう崖を蹴って宙へ飛び出していた。
(なぜ動いた)
自分の行動を、自分で理解できなかった。
そんなことは初めてだった。健の身体は常に思考の結論に従って動く。理屈のない行動など、これまで一度もしたことがなかった。
それなのに、今、確かに身体が先に動いた。
空中でエナの腕を掴む。細い腕だった。掴んだ瞬間、エナの怯えた目が健を見た。
(戻す)
それだけは考えた。腕を振り、力の限りエナの身体を道の方へ投げ返す。
「うわぁぁぁぁ!?」
エナが道へ転がっていく。助かった。それは、間に合った。
だが。
エナを投げた反動で、健の身体は完全に崖の外へ出ていた。支えるものは何もない。足場も、掴むものも。
落ちる。
理解した瞬間、思考が加速した。
恐怖がなかったわけじゃない。だが恐怖は思考の邪魔をしない。むしろ加速させる。頭の奥が冷たく冴えていくのを感じながら、健は落ちていく自分の状況を分解し始めた。
(高さ不明。だが大渓谷の深さから逆算して数百メートル以上)
(落下時間から終端速度に達する可能性あり)
(このまま水面へ激突すれば、水面は硬い壁と変わらない)
風が顔を叩く。耳元で空気が悲鳴のように唸る。眼下の闇は近付いてくる気配すらない。それがかえって落下の異常な高さを物語っていた。
普通なら、ここで終わりだ。
だが健の頭は止まらない。落ちながら、必要なものを順に並べていく。
(衝撃の吸収)
(着水時の呼吸確保)
(沈まないための浮力)
三つ。最低でも三つ要る。
問題は時間だった。創世は便利だが万能じゃない。物を一つ作るにも、構造を理解し、形を定め、出力する工程がいる。三つ別々に作る余裕は、この落下時間ではない。
(なら、まとめる)
思考が即座に切り替わる。三つの機能を別個に作るのではなく、一つの物体へ統合する。衝撃を吸収し、内部に空気を保ち、水に浮く。その全てを満たす単一構造。
頭の中で設計図が組み上がっていく。外殻は柔らかく、衝撃を逃がす弾力を持たせる。内部は空洞、ただし完全な密閉ではなく、空気を循環させる余地を残す。比重は水より軽く。
イメージが固まる。
参考にしたのは、皮肉にもこの世界で散々見てきた魔物だった。柔らかく、弾力があり、衝撃を吸収する不定形の身体。
スライム。
「創世」
声に出した瞬間、ウインドが開く。白い光が健の周囲へ広がり、形を成していく。
半透明の球体が、健の身体を包み込んだ。
巨大な、スライムのような球体。
完成と同時だった。
轟音。
ゴォォォォォォォォォォッ!!
激流の音だ。いつの間にか川面が眼前に迫っていた。近付く。さらに近付く。もう川の音しか聞こえない。
そして、激突。
衝撃は、なかった。
球体が水面で弾み、潰れ、ぐにゃりと変形しながら衝撃を逃がす。設計通りだった。健の身体には、軽い揺れが伝わっただけ。
(成功した)
助かった。一瞬、そう思った。
思ったのだが。
次の瞬間、球体ごと激流へ飲み込まれた。
ぐるん。
ぐるん。
ぐるん。
「……」
回る。激流が球体を弄ぶように転がしていく。上下も左右も分からない。内臓が揺れる。視界が揺れる。
ここで初めて、健の思考に綻びが生じた。
(計算外)
衝撃も、呼吸も、浮力も、全て想定通りに機能した。だが一つだけ、致命的に見落としていた要素があった。
回転だ。
激流の中で球体は固定されない。水流に揉まれ、無秩序に転がり続ける。そしてその回転を、健の身体は——正確には、健の三半規管は、まったく想定していなかった。
ぐるん。ぐるん。ぐるん。
「あ……」
嫌な予感がした。
「これ」
ぐるん。
「マジでダメなやつだわ」
馬車で酔った時の記憶が蘇る。いや、比べ物にならない。あれは可愛いものだった。これは、回転の質も量も次元が違う。
どれだけ頭が冴えていても、どれだけ並列で思考できても。
酔いには勝てなかった。
ぐるん。ぐるん。ぐるん。
「おぇ……」
そこで、意識が途切れた。
◇◇◇
目を開く。
知らない天井だった。木造。見慣れない部屋。
(知らない天井だ)
ぼんやりとそんなことを思って、すぐに我に返る。ラノベでよく見るやつだ。まさか自分が言う側になるとは思わなかった。
身体を起こそうとして、頭を押さえる。まだ気持ち悪い。状況を整理する。落下した。スライムボールで着水には成功した。そこから先は——回転で意識を失った。つまり、誰かがここまで運んだ。生きている。ひとまずそれは確定した。
『起きた』
声、ではなかった。
健は眉をひそめた。鼓膜が震えた感覚がない。なのに「起きた」という意味だけが、明確に頭の中へ流れ込んでくる。音として聞こえたわけではなく、意味そのものが直接届いた、という方が近い。
(テレパシーのようなものか)
思念伝達。音声を介さず、意味を直接やり取りする手段。にわかには信じがたいが、現に今、自分はそれを受け取っている。否定する材料がない以上、そういう現象として受け入れるしかなかった。
興味深い、と頭の片隅が反応する。発声器官に依存しない伝達なら、言語の壁を越える可能性がある。仕組みは——
そこまで考えて、思考を止めた。今は状況の把握が先だ。
反射的に、声のした方へ振り向く。
そこにいたのは少女だった。
紫色の髪。褐色の肌。頭からは二本の角が伸び、耳は鋭く尖っている。一目で人間ではないと分かる外見だった。
だが、と健は観察する。
角がある。肌の色が違う。耳が尖っている。その程度だ。目が二つ、鼻が一つ、口が一つ。四肢の構造も、関節の位置も、骨格の比率も、人間とほとんど変わらない。表情の作り方も同じだ。今も、見慣れないものを見る子供の顔をしている。
(身体的な特徴はあれど、骨格も構造も人間と大差ない)
(要するに、見た目が違うだけだ)
そう結論づけると、不思議と警戒が少し緩んだ。理解できない化け物ではない。理解の範囲内にいる存在だ。
(魔族、か)
『何族?』
いきなりだった。
「人間だ」
『人間?』聞いたこともないような反応だった。『スライムじゃなくて?』
「違う」
『でもスライムから出てきた』
「出てきてない」
『スライムに食べられてた人?』
「違う」
『じゃあ何族?』
「だから人間だ」
少女は少し残念そうにこちらを見た。
『スライムなら食べたのに』
「食べる気だったのか」
健は思わず真顔になった。
少女は当然のように頷く。どうやらこの辺りでは、スライムは食料らしい。一つ、文化が分かった。状況は何も好転していないが。
『あなたを吐き出したスライムは食べてもいい?』
「食べるのか、あれを……」
想像して、わずかに眉をひそめる。
「いや、やめておいた方がいい。厳密にはあれはスライムじゃない。俺が作った物だ」
『作る?』
少女が首を傾げる。
『変なこと言うのね』
健は何も言い返さなかった。
噛み合っていない。だが、それは相手も同じだろう。少女にとって「物を作る」は、こちらにとっての「人間を見たことがない」と同じくらい、意味の通らない言葉らしい。
そこで気付く。
会話が成立しているようで、根本的な前提が一つも共有できていない。
少女は改めて健を見て、首を傾げる。そして、当たり前のように言った。
『見たことない』
健は固まった。
「……は?」
『人間。見たことない』
待て。
人間を見たことがない? 魔族なのに?
(なんだ、ここ)
違和感が胸に引っ掛かる。ここは本当に魔族領なのか。
『変な人』
少女が言った。
「それはこっちの台詞だ」




