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第82話:濁流の防波堤と、泥まみれの鉄騎

このエピソードを投稿する事について、疑問に思う方もおられると思います。私も迷いましたが、少しでも何かの足しになればと思い、祈りを込めて投稿します。  

                                                        第82話:濁流の防波堤と、泥まみれの鉄騎

窓ガラスを震わせる重く冷たい豪雨の音が、羽田空港の空対課オフィスを包み込んでいた。 メインモニターに映し出されているのは、記録的な線状降水帯の直撃を受け、泥水に呑み込まれた江戸川区一帯の惨状だった。変わり果てた街の姿に、室内にいる全員が息を呑み、沈痛な面持ちで画面を見つめている。

「……現在も水位は上昇中です。孤立した家屋の屋根やベランダに、多数の住民が取り残されています」

雲井瑞希が、震える声を微かに抑え込みながら気象データと被害状況を報告する。 羽代課長が静かに立ち上がり、重みを帯びた声で指示を出した。

「東京消防庁ハイパーレスキューからの緊急要請よ。現地では消防の『ADUADS Mk-III バージョンF(Fire)』小隊が懸命な救助活動を続けている。けれど、上流から押し寄せる家屋の残骸や流木が道を塞ぎ、大型のバージョンFでは細い路地に入り込めず、救助が難航しているそうよ」

「水害現場への投入……機体の駆動系への泥の侵入やショートなど、最悪の環境ですね」

手元のタブレットを見つめる財前鏡子の声も、普段の冷徹さの中に張り詰めた緊張感を滲ませていた。

「機体が現場で停止すれば、救えるはずの命が失われます。刑部さん、機体の限界ラインの見極めは厳密に。無茶と無謀は違います」

「わかっている。……一人でも多く、必ず連れ帰る」

刑部風人の力強い返答に、羽代課長が深く頷いた。

「空対課、出動!」

冠水した首都高速の下道を、金剛鉄平の操る大型特装キャリアーが進んでいく。 いつもは軽口を叩く金剛も、今日ばかりは無言でハンドルを握りしめていた。車窓に流れる水没した街の光景に、彼の太い腕にギリッと力が入る。一秒でも早く現場に辿り着きたいという焦りが、無意識にアクセルを踏み込みそうになる。

「金剛さん、落ち着いてください」

助手席の財前が、前方を睨み据えたまま静かに制した。

「ここであなたが焦ってエンジンルームに水を吸い込ませ、立ち往生すれば、すべてが終わります。確実な前進こそが、命を繋ぐ最短ルートです」

「……わかってる。俺の運転で、絶対に刑部を現場へ届ける」

先導するSUVの助手席で、瑞希がタブレットの立体マップを更新する。

「刑部さん、現場に到着するわ。水位はすでに3メートル。1階部分は完全に水没……見えたわ!」

ハンドルを握る刑部の視線の先、濁流が渦巻く交差点の中央に、赤を基調とした消防仕様の『バージョンF』3機小隊が立ち塞がっていた。 彼らはその分厚い耐熱装甲と圧倒的な機体重量を活かし、上流から押し寄せる大量の流木や自動車の残骸を自らの体で受け止め、孤立した住宅街を守る強固な『防波堤』となっていたのだ。少しでも陣形を崩せば、背後のアパートが瓦礫の直撃を受けて倒壊してしまう、極限の状況だった。

「消防の部隊が、命懸けで防波堤を作ってくれている。俺たちは、彼らが守っている間に内部へ入り込む!」

刑部はSUVからキャリアーの後部コンテナへ素早く乗り移った。

「刑部蓮、ADUADS Mk-II、起動。……頼むぞ、相棒」

白とネイビーの機体が激しい雨の中へ躍り出る。 Mk-IIは濁流に深く足を踏み入れることなく、水没を免れたカーポートの屋根や、消防のバージョンFの分厚い装甲を足場にして、極限のバランス感覚で瓦礫の上を跳躍していく。

「刑部さん! 上流から、流されてきた大型の鉄製コンテナが向かってくるわ! あの質量が真っ直ぐぶつかれば、消防の防波堤が崩れる!」

瑞希の悲痛な叫びと同時に、巨大な鉄の塊が濁流に乗って突進してきた。 「させない!」

刑部はMk-IIの四脚を近くの壁面に固定し、左補助腕の『ゲージ・シールド』を大きく展開した。 迫り来るコンテナの側面に、強固なシールドをクサビのように打ち込む。激しい金属音と共に、コンテナの軌道が強引に逸らされ、消防のバージョンFが構える分厚い強化アームの方へと誘導された。 ガズンッ! と重い音を立てて、バージョンFの3機がかりの防御陣がコンテナを安全に受け止めた。

「よし、今のうちに!」

刑部はそのままMk-IIをアパートの2階ベランダへ滑り込ませた。そこには、身を寄せ合って震える家族の姿があった。 刑部は外部スピーカーの音量を絞り、嵐の中でも聞き取れる、可能な限り優しく穏やかな声で語りかけた。

「お怪我はありませんか。もう大丈夫です。今から安全な場所へお運びします」

歪んで開かなくなったサッシを器用にこじ開け、泥だらけのMk-IIが、怯える家族をその腕でそっと包み込む。

「……瑞希、要救助者を保護した。これより拠点へ帰還する」

『了解。消防部隊も瓦礫の固定を完了。見事な連携だったわ、刑部さん』

数時間後、雨が小降りになり始めた臨港地区の高台。 臨時避難所となったその場所では、毛布にくるまった被災者たちが、鳥海詩織の配る温かい豚汁を口にして、ようやく安堵の涙をこぼしていた。

「皆様、本当にご無事で何よりです。温かいものを食べて、少しでも休んでくださいね」

鳥海が一人ひとりに優しく声をかけて回っている。

臨時拠点の一角には、全身を泥水とヘドロにまみれさせたMk-IIが、疲れ果てたように佇んでいた。

「泥だらけでボロボロじゃねえか。……でも、よく耐えてくれたな。お前は最高の機体だ」

ツナギを泥で汚した新田整備班長が、文句を一つも言わず、泥の詰まった関節を丁寧にタオルで拭っている。

羽代課長と刑部、瑞希も、泥まみれの隊服のまま温かいお茶を手にし、救助された人々の無事な姿を見つめて静かに息を吐いていた。 張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ頃、財前がいつもと変わらぬ無表情で金剛の前に立った。

「金剛さん」

「……なんだよ。俺は今日、絶対にミスはしなかったぜ」

「ええ。ですが現場への進入時、あなたは焦るあまり不必要にアクセルを踏み込み、キャリアーの波引きで周囲の水没家屋の窓ガラスを割る危険を生じさせました。その戒めとして……本日のあなたの配給から、豚汁の肉を没収します」

「……っ! わ、悪かったよ! でもこの冷え切った体に、肉抜きの根菜汁はキツいっての……!」

いつものように響き渡る金剛の嘆き声が、張り詰めていた現場の空気に、ささやかな日常の温もりを取り戻させる。

「金剛さん、声が大きいですよ。大根も美味しいですから我慢してください。……刑部さんも、本当にお疲れ様」

瑞希が優しく微笑み、刑部も短く頷いた。

「ああ。消防の『盾』がなければ、俺の『矛』は届かなかった」

過酷な自然の猛威の中、泥にまみれながらも命を繋いだワンオフの鉄騎。傷ついた人々の心に寄り添いながら、空対課の長く静かな夜が更けていくのだった。


【第82話:濁流の防波堤と、泥まみれの鉄騎】                                          



被災された方、救助に携われた方、ボランティア活動に参加された方、皆様のご健康とご多幸を願います。シットライヌ

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