第32話:不可侵の空
第32話:不可侵の空
1. 日本で一番「重い」空
東京のど真ん中にありながら、そこだけは鬱蒼とした緑と静寂に包まれている広大な空間――皇居。
周囲を深いお堀と江戸時代から続く石垣に囲まれたこの場所は、日本の航空法において最も厳格な「飛行禁止空域」である。
「……信じられないわ。よりによって、この空域を突っ切ろうとする馬鹿がいるなんて」
空対課の詰め所で、雲井瑞希がメインモニターの異常な航跡データを見て息を呑んだ。
「目標、桜田門上空を通過! 高度15メートル、時速80キロで内堀へ向かっています。……機影は光学迷彩仕様。先日の『スウォーム事件』の残党による、強行偵察の可能性が高いわ!」
財前鏡子の声にも、かつてない緊張感が走っている。
「課長、不味いです!」
外務係長が、両手に持った二つの受話器を交互に耳に当てながら叫んだ。
「警視庁の機動隊は当然として、皇宮警察本部と宮内庁から同時に怒鳴り込まれています! 『空対課は何をしている、一歩でも中へ入れたら組織ごと吹き飛ばすぞ』と……!」
「言われなくても分かってるわよ」
羽代課長が、手元のコーヒーカップを強くテーブルに置いた。
「皇居上空は国家の威信そのものよ。刑部君、ただちに出動! 絶対に、内側の森へは侵入させないで!」
2. お堀の上のパルクール
「了解! ……金剛さん、内堀通りへ!」
「おう! 皇居の周りでサイレン鳴らして爆走する日が来るとはな。俺の免停記録がまた更新されそうだぜ!」
キャリアーが皇居外苑の広大なアスファルトを滑るように走り、桜田門の近くで急停車した。
「ADUADS Mk-II、出る!」
ハッチを蹴り開け、初夏の陽光の下に飛び出したMk-II。
しかし、目前には水を湛えた広大な「桜田濠」と、切り立った歴史的な石垣が立ち塞がっている。敵のステルスドローンは、レーダーを避けるため水面すれすれを滑空し、石垣を越えようとしていた。
「瑞希、敵の軌道は!」
「水面から高さ2メートル! まっすぐ石垣を登る気よ!」
「課長、ショットガンの使用許可は!」
「論外よ!! 散弾が一粒でも重要文化財の石垣に当たってみなさい、私たちは全員、明日から東京湾の底でヘドロの清掃作業よ!」
「……だろうな! なら、脚で捕まえる!」
刑部はMk-IIのホイールを全開にし、お堀沿いの土手を猛スピードで駆け抜けた。
3. 歴史と最新技術の交差点
「刑部さん、無理よ! ドローンはもうお堀の上よ、Mk-IIは泳げないわ!」
瑞希の悲鳴に、刑部はニヤリと笑った。
「泳がないさ。……跳ぶんだよ!」
刑部は土手の傾斜を利用し、Mk-IIを水面に向けて大きく跳躍させた。
「なっ……!?」
3.8メートルの鋼鉄の機体が、桜田濠の空中に投げ出される。
重力に引かれて落下する寸前、刑部は四本の脚部に内蔵されたホイールを、水面に対して平行に展開した。そして、モーターの回転数を限界まで引き上げる。
――バシャアアアアッ!!
水面を叩くホイールが強烈な水しぶきを上げ、表面張力と回転の推進力で、Mk-IIはわずか数秒間だけ「水の上を走った」。水切りの石のように、水面を跳ねながら進む荒技。
「無茶苦茶すぎる……! モーターが焼き切れるわよ!」
財前が絶叫する。
「あと数秒もてばいい! 行くぞ、相棒!」
水面を蹴って最後の大跳躍。Mk-IIは、石垣を越えようとしていたステルスドローンに追いついた。
石垣に傷をつけないよう、右補助腕のローター・ブレードで上から押さえつけ、左補助腕のゲージ・シールドをクッション代わりに展開し、ドローンを逃げ場のない力で挟み込んだ。
「……確保! 石垣への接触、ゼロだ!」
ドローンが沈黙し、Mk-IIはお堀の縁の芝生に、ズサーッと滑り込みながら着地した。
4. 最も格式高い「お礼」
数十分後。
無事に確保されたドローンは、直ちに警察と公安へ引き渡された。
Mk-IIの周囲には、黒い制服に身を包んだ皇宮警察の護衛官たちが集まり、泥と水草にまみれた機体を驚きの目で見上げている。
「……見事な対処だった。国土交通省の『空対課』殿」
恰幅の良い皇宮警察の幹部が歩み寄り、羽代課長と刑部に向かって深々と一礼した。
「我が国の中心を、傷一つなく守り抜いてくれたこと、宮内庁に代わり厚く御礼申し上げる」
「もったいないお言葉です。我々は、空の安全を守る公務を果たしたまでですので」
羽代課長が、完璧な官僚のスマイルで一礼を返す。
外務係長は、安堵のあまりキャリアーのタイヤに寄りかかって腰を抜かしていた。
「……よかった……これで外交問題(?)にはならない……」
5. 結び:高くつく水遊び
夕暮れの詰め所。
無事に任務を終え、英雄として帰還したはずの刑部を待っていたのは、鬼の形相の財前だった。
「……はい、刑部さん」
ドンッ、とデスクに置かれたのは、タブレットではなく、印刷された分厚い請求書の束。
「お堀の水を被ったせいで、Mk-IIの関節部の防水シーリングが全損。内部機構への浸水によるオーバーホール費用、しめて二百万円。……さらに、環境省からの『お堀の水質保全に関する厳重注意』の書類が三枚よ」
「に、二百万円……」
「皇居を守った名誉はプライスレスかもしれないけど、機体の修理費は国交省の予算からきっちり落ちるのよ。空対課の経費は無限にあるわけではないのよ」
財前が頭を抱えて机に突っ伏す。
「ま、まあ、歴史を壊すよりは安くついたじゃないですか」
瑞希が苦笑いしながらフォローを入れるが、財前の耳には届いていないようだった。
格納庫では、水を被って少しサビの浮いたMk-IIが、整備班によって分解されながら、どこか誇らしげに鎮座していた。
日本で最も「重い」空を守り抜いた彼らだが、その代償は文字通り高くついた。
空対課の明日の業務は、どうやら「財務省への追加予算の土下座申請」から始まることになりそうである。
【第32話:不可侵の空 完】




