番外編 七之衛 〈下〉
それからナノとなった七之衛は遠く離れたこの地で、天妹様の健やかな成長を願っていた。
長くその人が目の前に居ると気付かずに。
ナノの願いは届くことはなかった。
ギイッと重い扉をあける。
あの美しい椿花殿の勝手所よりもなお狭い部屋に入る。
入り口からすぐ目の前の寝台に深く眠るマオ…いや、天妹様。
その側で真っ黒な妖魔はただ黙って身じろぎもせず控えていた。
その姿に胸底に僅かな不快感が生まれる。
ナノはその感情から目をそらし妖魔を観察する。
左右の耳の上から生える雄の羊に似た渦を巻く見事な角のせいで横顔からその表情を読むことは出来ない。
けれど、一刻でも目を離したら居なくなるのではないか。
この妖魔がそう考えているだろうことは容易く想像ができた。
「まだ、お目覚めになられないか?」
妖魔から返事はない。
声をかけたものの元より返事は期待はしていなかった。
往々にして半妖は主人に忠実な狗となるが融通がきかないものなのだ。
「少し話をしよう、姫様の置かれた状況を確認したい」
そういうと漸く妖魔はこちらを向いた。
整いすぎた恐ろしいほどの美形だが、姫様をひたと見つめる時横顔とは異なり、熱など一切感じさせずにこちらを見据えるその面はまるで人形のようだ。
観察しているナノに長く黒い睫毛に覆われた冷酷な妖魔本来の気質が現れた不吉な赤紫の瞳が不快そうにひそめられた。
「こちらと向こうの往き来をすると、時間の流れにズレが生じるようだ。私がこちらに飛ばされたのは姫様が八つの頃、しかし姫様よりもこちらに来るのは遅かった。姫様はおいくつのときに飛ばされたのだ?」
「十の誕生日を目前に控えた頃」
天妹様はまだ九つの幼さでこの地に飛ばされたのか…眉間の皺が深くなる。
わかっていたことだが、あの男の業の深さに腸が煮えくり返る。
「お前がここに召喚されたときあちらはどれほど時が過ぎていた?」
「12年」
12年。
その数字にほっと息をつく。
民の寿命は平均70歳だったが、天神族とその側に使える数星の一族の寿命は120歳を越える。
力の強い天神族となればその命は300歳を越えることもある。
神々のような彼等にとって12年はさほどの長き時ではない。
「天妹様の扱いは?天妹様はあちらに居場所はあるのか?…二位君は…」
尊い血を継ぐ彼等は一族を愛していた。
共に歩く血族を愛し、長い時を共にする伴侶を愛し、支えあってきた。
…二位の君以外は。
かの君だけは一族の中で異端だった。
二位の君は己以外に天妹様が心を傾けることを決して許しはしなかった。
天妹様の側に仕える添星を殺害しつづけるほどに。
「姫様をこちらに飛ばしたのは錯乱された二位の君だ。その罪ゆえ二位の君は断罪され、天帝位には蘭の君がついた。今の天神位一位は姫様の兄君の紫陽花の君。お二人とも姫様の帰りを待っておられる」
坦々と返される返事にナノは頷いた。
狗が飛ばされて来た時点では姫様にとって良い状況ではあったのか。
万が一、二位の君が天帝となっていたならば天妹様にとってあちらに戻るとことは最良ではないが、二位の君がいないというのならば…
いや、ひとつ問題はあったか。
「…お前も気づいているだろう?」
妖魔はナノのいわんとすることがわかるのだろう。冷酷さのにじむその面にわずかに不快さを表しナノを睨んだ。
ナノの知る椿花殿で微笑む天妹様は突き刺さる冬の寒さのように冷たく清烈で、それでいて永き冬の眠りを醒ますような暖かみのある神気を纏う御方だった。
けれど、今目の前で眠るマオと呼ばれる人物の纏う気は澱んだ水のような濁った気。
ナノの知っている椿花殿の姫君の神気とは全くの別人。
そのせいでナノは長らく確信を持てずにいた。天妹様とマオは同一人物なのかどうかと。
「目覚めた後に変わるやもしれぬ」
妖魔の言葉にナノはため息をつく。
この妖魔にとって天妹様の気の変化など些細なことなのかもしれない。狗は主さえ無事ならばそれでいい。そう、考える生き物なのだから。
天妹様は本来ならば篤く庇護されるべき幼い頃に長く劣悪な環境におかれていた。
そのうえ、天妹様の力は塔の動力原として一方的に搾取され、かつ、過酷な労働までも強いられていた。
その環境に適応するため、天妹様の体は食事を必要としない体になっていた。ナノが観察していた限りマオは空気中に漂う、こちらでは魔力とよぶモノを集めて自身の動力源としていた。
それは追い詰められた天妹様がマオとして生き残るために手にした能力。天神族としての能力。しかし、その能力こそが姫様の神気を変質させていった。
人は生きるために糧を必要とする。
生きるために、実りを集め、獲物を狩り、それらを喰らう。
そして生きるために必要な動力を手に入れる。
端的に言えばそのような糧を必要としないものは人ではない。
ナノがこの地でマオと出会った時、その体に流れる気も纏う気配も人ではなく妖に属するものに近かった。
人ならぬ者への変容、それはナノにひとつの疑いを持たせた。
天神族は人ではなく神に近い。
称えられ、崇められることによりその力を保つ。
そびえたつ千華城を人民は見上げ、折に触れそこにおわす天神族へ祈りを捧げる。
天神族への祈り、敬愛、畏怖、それらの感情は天神族の力となる。
そして、天神族を天神族たらしめるには千華城のその奥、御樹宮に居る必要があった。
天神族は古の契約により地に、城に縛られている。
過去に一度だけ、他国へ浚われた天神族が憎しみに染まり禍神になったことがある。
天神族は器だ。
人々の清い心が体を満たす時は善き神に、人々の憎しみで体を満たせば禍神になる。
では、マオとして塔に縛られた天妹様はなぜ禍神にならなかったのか。
大量の魔力というものを集める器としてこの地に縛られた天妹様は…
あのとき、
ロラン=レティエンヌの隷属の首輪で切られた姫様の首。
人ならば即死となっていただろうその深すぎる傷。
けれど、天妹様は血を吹き出しながらも生きていた。その姿は人としてはありえぬこと。
いくら天神族といえども人と体の作りは変わらない。「天神族は首を切られても死なないのか?」と問われれば答えは否だ。
天神族は能力こそ神に近いが妖魔のように命の理からは外れてはいないのだ。
だから、あの瞬間、ナノの疑惑は確信となった。すでに天妹様は人の理からは外れたものだと。
いや、もしかしたら…
天妹様はすでに死しているのかもしれない。
ナノは青白い顔でこんこんと眠り続ける天妹様のうつくしい横顔を見つめる。
大人ですら容易く死ぬ、食事すら満足にとれぬ劣悪な環境で天妹様は何度も死の深淵をのぞいたのだろう。
その度に天妹様の能力は死の際で何度も踏みとどまらせた。
けれど、その度に、天妹様の気は変質していったのだろう。
天神の一族は神の名を戴くがその体は人と変わらない。
長命であることを除けば只人と変わらない。
天神の一族は人の身でありながら神の奇跡を起こす荒人神だ。
けれど、人の身でなくなった姫様は千華城でどのように扱われるのか…
「天妹様は椿花殿に戻るべきか…お前はどう考える?」
ナノの投げ掛けた問いを妖魔は鼻で笑った。
「ひぃ様が望む場所へお連れするだけだ」
当たり前の事を言わせるなとばかりに熱の無い瞳がナノを見据える。
ああ、見事な狗だ。
ナノは思わずくすりとわらう。
天妹様はよい狗を手に入れた。
狗は主の足元に居れさえすればいいのだろう。
そうだ、狗とはそうあるべきた。
部屋に入った時から感じていた不快感はもうナノの胸にはない。
愁いなく、恙無く、心安らかに。
そう願い、それを叶えるは添星の役目。
黒い狗は狗らしく主人の足元に這うといい。
夜の闇に浮かぶ月に添うのは星だ。
狗は地に這いつくばり吼えるだけだ。
ナノは七之衛に戻った。




