呪い
なぜだか分からないが、今日の晩御飯は自分でも驚くくらい上手に作ることができた。やはり料理とは気持ちだったのだ。時折見せる彼女の些細な仕草が可愛いがために、愛情を欠かさず込めることができたのも大きいかもしれない。
「こんなおいしい料理作れるなんて、店員さんはへっぽこからちょっとへっぽこにランクアップです」
なんて、本当に美味しかったのか疑ってしまうような言葉を言われたが、それもご愛嬌だ。彼女の食事を進める手の動きを見るだけで、僕は十分満足のいく料理を作れたのだと確信していた。
「そういえば、手帳は取れたんでしょ? 中身は見てないよね?」
「あ、それなんですけど、取れはしたんですけど、私は中身を見たら怒られそうだし、店員さんにとっても黒歴史かもしれない。双方に得がないので、私が処分しておきました」
「また随分勝手なことをしたねぇ」
「でもwin-winの関係ですね」
ハイタッチの仕草をするミルミルに、僕ははぐらかされたなと分かりながらそのハイタッチに乗るのだった。実際日記なんて書かない僕からしてみれば、あの手帳が僕のものである可能性はないわけで、別に手帳が処分されようがされまいがどうでも良くなっていたのも事実だ。
食事が終わり一段落する頃には、夜の帳も降りきり、普段なら寝ている時間だった。だが今寝るのはどう考えても愚策という他なかった。ミルミルもその点に関しては同じようで、何故か必死な表情で考え事をしているようだったが、僕の話し相手になってくれていた。
それからしばらくしたとき、ミルミルが慌てたように声を上げた。
「店員さん、何かして遊びましょう!! 何か良い遊び道具はありませんか?」
「遊び道具? そうだなぁ……いつもひとりでいるときはすぐ寝ちゃうからなぁ、特に何も」
「でも……せっかくだから私寝ないで遊んでいたいです」
「その気持ちは僕も山々なんだけど、何しようか……」
「とりあえず、紙とペンがあれば……」
ミルミルは半分無理をしているかのように、頑張れ、頑張れ、と小さく唱えながら慌ただしく立ち上がって近くにある紙と書くものを用意する。その道具を机に置いて座ったミルミルは、何も疲れることはしていないのに息を切らし、目を見開きながら焦っているようだった。そしてやはり、もうちょっと、とか、あとすこし、などとよく分からないことを呟いていた。
「ミルミル、大丈夫?」
「な、何がですか、それより、ほら!! 私の街で流行っている伝言ゲームを――」
そう言って、ミルミルは紙を抑えてペンで絵を描こうとする。しかし、ペンを握る手が弱く、うまく線を引くことができない。おそらく剣を描こうとしたその線は歪みに歪み、もはや何がなんだかわからなくなっていた。
「あ……も、もう一回、あ、また……うっ、絶対、失敗しちゃ、いけない、もうッ、一回……」
その後も何度となく繰り返すが、繰り返すたびに悪化していき、最後にはペンを握ることすら危うくなっていた。一体何が起こっているのかと、ようやく視線を紙からミルミルへと移す。その目に映ったのは、苦痛に顔を歪め、唇を噛み締めるように涙をこらえている彼女の姿だった。
「お、おいミルミルッ? どうしたんだ!!」
「今日だけは……今日だけは失敗できないのに……うぁあ、う、お願い、だか、ら……うまく……いって」
もうペンすら握れていないのに何度もペンを握ろうとして、落とす。ペンが握れないので今度は紙をつかもうとするが、ミルミルの両の手はもう痺れきったかのようにまるで動かず、グーパーと開いたり閉じたりするのもとんでもなく遅い。
「なんでぇ、もっと……がんば、らないと……ど、どうして、言うことをきかないの――」
一体何が起こっているのかわからなかった。ミルミルはどんどんと力を失っていき、やがて紙から手を離し、目一杯手を開いてその手で顔を覆い隠した。
「頑張らないと、がんばぁああ、あうああああうわあぁああぁああぁあああああああああ!!!!!!!!!!!」
「ミルミルッ!!」
僕はとにかくミルミルを落ち着かせようと、肩を掴んで必死に声をかけた。だけどミルミルは自分の動かない手と体とすべてを嘆くように声を上げた。悲痛な叫びが空気を引き裂き涙がとめどなく落ちていく。
「いやぁああぁあああぁあああああぁぁぁあああああッ!!」
「落ち着くんだ、ミルミル!! 無理しなくていいんだ、僕のことを見て、ミルミル!!」
強く肩を振ってもミルミルの目は叫びと共にさまよい、正気にはもどる気配がない。両手は震え、腰から下は硬直し痙攣していた。頭を抱えるようにしてもがき苦しむミルミルの姿は見ているだけで心が砕け散るような思いだった。
そしてさらに、ミルミルは言葉すらもうまく紡げなくなっていった。空気の漏れるような嗚咽を漏らし、喉を必死に動かすのだが音が出ない。ミルミルの宙をふらつく手を握り締め、無理矢理ミルミルの視界に映るように体を動かす。背中をさすって落ち着くように促す。
「大丈夫だ、僕がいるから!! 焦らなくていんだッ、戻ってこい!!」
「ッぁ……ぅグぁ……ぉッガァア」
抱きしめてミルミルの体を腕の中に収めるが、震えが一向に収まらない。涙があふれるように流れるのに、声が聞こえない。どうしてやればいいのか分からない。どうすることもできない、何が起こっているのかわからない、もはや僕さえおかしくなってしまいそうな状況だった。
僕はただ、傍にいて抱きしめていることしかできなかった。
■
どんなに願っていてもその時は来てしまった。指の先が痙攣し始めたのを風切りに、一気に負の感情が湧き出ていくのを感じる。
だけど今日だけはそんな呪いに打ち勝たなきゃいけない。今日の夜を店員さんと楽しく過ごすために、店員さんに笑顔でいてもらうために、心配をかけないために。頑張らないといけなかった。
でも、そんな生易しいものじゃなかった。
どんどん体が蝕まれていき、危ないと感じた私はとにかく負の感情から気をそらすために店員さんと遊ぼうと思った。でももう遅かった。
押し寄せる波に飲み込まれるように体の自由が失われていき、ペンを握ることすらできなくなっていく。店員さんの表情がどんどん険しくなっていき、私に何かをしゃべっている。だけど、もう声が届かない。私の声も届かなければ、彼の声も届かない。
私が意地悪でそっぽを向いたときに見せた悲しそうな顔、そんな姿を見ただけで私の心は傷んでしまう。とても脆い。だからそんな表情をされてしまっては困るのだ。ただでさえ、自由が効かない体がもどかしくて、すべてを引き裂いてしまいたいくらいなのに、そんな顔を見せられてしまっては胸が潰され、心が砕け散ってしまう。耳も手も足も痙攣しているのに、目だけは目の前の男の人を捉えたまま光を失わなかった。それがまた逆に苦しみとなって、奔流する。
言葉すらも紡げなくなり、嗚咽が漏れるだけになってもう私は涙を止めることしか考えていなかった。これ以上自分のせいで心配をかけたくない、店員さんの悲しそうな表情を見たくない、いっそ消えてしまい、もうすべてが嫌になってしまいそうだった。
自分の一番見せたくないところを、自分を一番見て欲しい人に見せなければいけない。これほど辛く悲しいことはない。
今日ここに泊まるなんて思わなければよかった。こうなることは分かっていたのに、頑張れば大丈夫だと口だけで強がっていただけだったんだ。
こんな姿を見られるくらいなら、もう二度と出会わない方がまだ救われるのに。
そんな負の感情がこれでもかと溢れかえってくる。それを私一人ではどうすることもできない。
今私が死なないで、必死に声を出そうと、腕を動かそうと、たったひと欠片の希望で頑張ることができているのは、きっと店員さんに抱きしめてもらっているからなんだと思う。いつもは一人の戦いで、この醜い私も見るものもいなければ、助けてくれるものもいない。それはある意味気楽だ。
助けてくれる存在なんていらない、迷惑をかけたくない、悲しい顔を見たくない。結局これも全部独りよがりだったんだと気付く。
ただ抱きしめてくれているだけの腕の中が、こんなに暖かいんだということ――
――私はこの暖かさだけは死んでも忘れない、と。今宵の呪いが引いていくのを感じながら心に刻みこんでいた。




