第77話 告白1
外の明るさに、イオアンは目を細めた。
〈首なし騎士団〉の隠れ家は高原のような場所にあり、さらには屋敷が丘の上にあるので極めて見晴らしが良かった。
うねるように広がる草原の向こうには、背骨山脈の山並みが霞んで見え、その上には青空を背景にして白い入道雲が立ち上がっている。イグマスでの七月は耐えがたい暑さを感じるが、ここの空気は乾燥していて、爽やかといっても良いぐらいだった。
太陽は空高くにある。
このまま帰れば、イグマスには夜になる前に到着できるだろうか。
正直なところ戻るのは億劫だった。
二度の発作による疲労でイオアンの体は悲鳴をあげており、気持ちも整理がついていない。このまま玄関の前で座り込み、扉にもたれて、ずっとこの風景を眺めていられれば、どれほど心休まるだろうか。
エルにも会わずに済む――。
エルに対する気持ちは複雑だった。
会いたいという気持ちと、自分が傷つけた結果を見たくないという気持ち。
このまま会うのを避けることができれば、いずれ記憶の底に沈んでいき、エルのことも思い出さなくなるだろう。
これまで、イオアンが煩わしい人間関係でそう対処してきたように――。
だが、そういうわけにもいかない。
カルハースが指摘した通り、帰るにはククルビタが必要なのだ。
そして、この手の中にある美しい短剣も、エルに返さなければならない。
ぼんやりと微風に吹かれていると、猫と喧嘩していたポカテルがイオアンに気づき、全速力で駆け戻ってきた。
尻尾を振っているポカテルの頭をイオアンは撫でた。
「では、お姫様に会いに行くとするか……」
そう呟くと、イオアンは厩舎へ歩きだした。
※ ※ ※
厩舎の中は薄暗く、目が慣れるのに時間がかかった。
外とは違い、こもったような湿った空気や甘い乾草の匂いが充満している。奥からは馬が喉を鳴らす低い音が聞こえた。
そうだ、ブッケルムとも別れるのだ――。
イオアンは腹部のあたりにズシリと重たいものを感じた。
ククルビタとブッケルムが並んでいる馬房に近づくと、乾草の山でエルがうつ伏せになっているのが見えた。相変わらず純白のドレスを着ている。足を大きく広げ、白い牛革のブーツの上ではペティコートが乱れていた。
そばではブッケルムが、イオアンを歓迎するように前脚で地面を掻いた。エルが気づかないはずはない。
おそらく寝ているふりをしているのだろう。
イオアンは悲しい気持ちになったが、それはそれでホッとした。
何も話さずに済む。
これ以上、気持ちもかき乱されることもない。
そっとエルのそばに短剣を置いた。
すると、もぞもぞとエルが体を動かし、イオアンは動きを止め、息も止めた。
エルが体を起こし、ふたりは見つめ合う。
その表情は薄暗くて分からないが、エルの黒髪には藁屑がたくさんついていた。
「……ぜんぶ嘘だったんだな」
イオアンをなじるエルの声は掠れ、震えているように聞こえる。
「ブッケルムを逃がしたのも、石切り場で俺を助けたのも、ぜんぶ隠れ家を見つけるためだったんだ……」
エルの塩辛い声が、イオアンの心には痛かった。
そうじゃない――と答えたかったが、イオアンの記憶は曖昧なままだった。断言するのは誠実ではないように思われた。
言葉は喉の奥で詰まり、イオアンは自然とエルへ手を伸ばした。
「触んなよ!」
エルがその手を払い除けた。
「いつも自分のことしか考えてないんだろ!」
「エル……」
その名前を呼ぶのにもためらいを感じる。
「……誤解なんだよ」
「どうでもいい。覚えてないんだろ。どっか行け、早くいなくなれよ!」
とエルが強い言葉を投げつけてきた。
「あんたなんか、この世から消えちまえば良かったんだ!」
イオアンは剣で刺されたように胸を押さえた。
苦痛に体を折り曲げる。
自分の心から大量の血が流れ落ちる。
それが、地面の藁屑を赤く染めていくのが目に見えるようだった。
「……酷いことを言ったのなら謝る。だが、何があったかを教えてくれ」
喘ぐようにしてイオアンは頼み込んだ。
「お前の言う通り、記憶が不安定なんだ。石切り場で父上を説得しようとしたところまでは覚えている。だがその後は……」
「……川のほとりで俺が手当てしたことは?」
「ぼんやりとしか覚えていない。〈綺麗な首飾り〉を見せたことぐらいだ」
「椅子の上では?」
「白い砂浜と美しい海が見えた。お前が南大陸へ誘ってくれたような気がする……あのとき、お前が何を話してくれたのかを知りたい……」
そうイオアンは訴えたが、エルは顔を背けた。
「……嫌だ。教えないよ」
「そうか。そうだな……一方的だった。では私のほうから教えよう」
イオアンは出血を止めようとするかのように胸に手を当てて、深呼吸した。
「確かに〈首なし騎士団〉には興味があった。だが私にとって一番大事だったのはそこじゃない。お前とブッケルムには、心から自由になって欲しかった」
「どうせ口だけだろ!」
「お前たちを……私の身代わりだと思っていたんだ」
「……なんだよ、身代わりって」
「たぶん私は、一生この状況から逃れられないだろう……」
この自覚を言葉にするのは苦しかった。
「セウ家の嫡男であり、すぐに発作を起こすほど心も体も弱く、〈塔〉にこもって本を読むだけの人生だ。だからあのとき、お前とブッケルムだけには逃げて欲しかった。せめて私の代わりに……」
エルはイオアンをちらりと見たが、まだ黙っている。
「ただ私は、こんなことは話したくなかった。恥ずかしいからな」
「……べつに恥ずかしいことじゃないだろ」
「そうかな? なぜかブッケルムがそばにいると、私は口が軽くなってしまう」
「それは分かるよ……俺もブッケルムだけには打ち明けた」
「私には親しい友人がほとんどいない」
イオアンはぐったりと馬房の柵にもたれかかった。
「アルケタとバルバドス、あとは数人の知り合いだけだ。他の者たちが悪いわけじゃない。本心を知られるのが恐ろしいんだ。石を投げられるんじゃないかと思う。もしくは火炙りにされるとか……」
「変だよ。何でそんなふうに思うのさ」
「分からない……なぜか子供の頃から、そうなるんじゃないかと恐れていた」
「お前ぐらいの年頃が、いちばん苦しかった」
思い出したイオアンは顔を歪めた。
「体は動かないが、頭の中では様々な考えが私を責め立てるんだ。だが、それでもアルケタかバルバドスに話すことができた。しかし、それも数年後に状況が変わった。アルケタは南大陸での初陣を飾ると、夜警隊の指揮官になった。私が公務に就くと、バルバドスは護衛をやめた。そんなときにブッケルムが屋敷にやってきた。あとはお前も知っているな?」
エルが黙って頷いた。
「私は父上に逆らえない。騎士たちには引け目を感じている。だが屋敷の中で、ブッケルムだけが父上に抗い、騎士たちを馬鹿にしつづけた。私は心の中では喝采していた。私の分身となって戦ってくれるような気がしていた。だから、ブッケルムが死にかけたとき、自分の魂まで消えてしまうような感じだった……」
イオアンはブッケルムに目をやった。
二日前の深夜、部屋を抜け出して、屋敷の馬小屋に忍び込んだことを思い出していた。あのときから、すべてが始まったのだ。
「……だから私は、必ず救い出そうと決心したんだ」




