第75話 憧憬
イオアンは驚いた顔で少年の後ろ姿を見送った。だが彼はドレスを着ていた。少年ではなく少女なのだろうか? 戸惑ったような表情で尋ねる。
「彼はどうしたんだ?」
髑髏の仮面を被った男が答えた。
「いまは気にしなくていい。起き上がれそうか?」
イオアンは苦痛に顔を歪めながら、男たちの手を借りて、上体を起こした。
発作の後はいつもこうなのだ。
酷い頭痛。
手足が鉛のように重たい。
また発作を起こしたのは自分でも分かっていた。いずれ記憶は戻ってくるだろうが、それまでは無防備な子供のような、心もとない気分になる。
「辛いだろうが、ひとつ君に尋ねたい。その首飾りのことだ」
優しい口調で男が質問した。
「イオアン君、君はセウ家の嫡男だね」
イオアンは胸元にかかっている〈綺麗な首飾り〉を見下ろした。その重さと輝きに自分が何者であるかを確信し、気分が落ち着いてくる。
「その通り。私はイオアニス・クラウディウス・セウ。いずれ第十代目のセウ家の当主となる人間である」
そう答えたイオアンは、不思議そうに男たちを見回した。
「お前たちは、私を知らなかったのか?」
「いや、知ってはいたが、念のために確認したんだ」
「お前たちが私を助けてくれたのか?」
「そうだ。我々は君の仲間だ。安心してくれていい。発作後はしばらく、自分のことも分からなくなるそうだからな」
「それは自分でも分かっている……それで、ここはどこだ?」
「〈首なし騎士団〉の隠れ家だ」
「ああ、そうだったな」
だんだんイオアンの頭の中で記憶が形になり始めていた。
「さっきの彼に連れてきてもらったような気がする。確か彼の名前は……」
「エルだ」
「ああ、思い出した。エルだ!」
イオアンの頭の中で、市場で出会ったときの少年のイメージが蘇った。
「さっきの彼はどうして……?」
「君が元気になったから嬉しく泣いていたんだろう。気恥ずかしいのさ」
「そうか。それなら良かった……」
「私が不思議に思っているのは、セウ家の嫡男が、わざわざ危険な〈首なし騎士団〉の隠れ家を探し出そうとしたことだ。何か目的があったのかね?」
「目的……?」
「エルに香水をかけて追跡しようとしただろう?」
「ああ、あれは咄嗟に思いついたんだ、名案だとは思わないか?」
思い出したイオアンが笑顔になった。
「お前たちの宿を訪ねようと思ってたんだ」
「我々の宿に?」
「新市街の宿にでも泊まってるんだろうと思っていた」
「見つけたらどうするつもりだった?」
「そこまで深くは考えていなかったが……もしかしたら、会って話そうとしたのかもしれないな。いまこうして話しているように……」
イオアンが不思議そうに男たちを見回した。
「お前たちは本当に〈首なし騎士団〉なのか、からかってるんじゃないだろうな?」
「違う。我々は正真正銘の本物だ」
「そうか、信じられないよ。本で読んだことしかなかったからな」
「しつこいようで申し訳ないが、我々に会って何をするつもりだった?」
「何をするって……そこまでは考えていなかった。変わった動物を見てみたいのと同じだったと思う」
「変わった動物? じゃあ、我々は珍獣か」
「そうだな。帝国にいながら帝国では滅多に会えない珍獣だ。子供のときに歴史書で読んで以来ずっと気になっていてね。お前たちに憧れていたんだ」
髑髏の仮面を被った少年が不思議そうに尋ねる。
「俺たちに憧れるって?」
「権力者に従わず、帝国の庇護も受けず、辺境を放浪している。絶対に私には真似のできないことだ。格好いいじゃないか!」
「……そんな格好いいもんでもないけどな」
と騎士の一人がぼやく。
「いや、その髑髏の仮面は不気味で洒落ていると思うぞ」
と褒めたイオアンは、四人の男たちを見回した。
「だが、ずっとつけたままなのか? それはそれで不便だろう」
「いや、そうじゃない。君が誰だかも分かったし、我々も脱ぐとしよう」
とリーダー格の男が髑髏の仮面を脱いだ。
「もう芝居は終わったからな。私はカルハースという。驚いたかね」
カルハースは三十過ぎの色白の男で、白っぽい金髪を香油で後ろに撫でつけ、尖った口髭が丁寧に整えられている。大きく見開かれた目は情熱的で、イオアンをじっと見つめている。貴族的な繊細さと野性味に、さらには、どこか狂気を感じさせる雰囲気をまとっている男だった。
「いや、思っていたより普通だな」
じろじろと見ていたイオアンが答えると、カルハースが頷く。
「そうさ、我々だって人間だからな」
急に顔をしかめたイオアンが呻き声をあげると、カルハースが訊いた。
「大丈夫かね?」
「ああ、こうやって少しずつ記憶が戻ってくるんだ。なんとなく、ここに来た経緯を思い出したよ」
「では……椅子の上に立っていたこともか?」
「……あのときの私は、自分の正体を明かすのを拒んだ」
イオアンは床に倒れている椅子を眺めた。
「それで、お前たちは私を殺そうとしたんだ」
「こう言っても、信じてもらえるとは思わないが……」
とカルハースが誠実そうな表情をつくった。
「あれは、あくまで脅すつもりだった」
「……本当か?」
「本当だ。死にかけた君からしたら、信じられないだろうがね」
「いや、信じるよ……殺そうとするならもっと簡単に、手間をかけずに殺せたはずだからな。いまはどうなんだ?」
「いやいや、絶対に殺したりしない」
慌てたようにカルハースが首を振った。
「セウ家の嫡男に手をかけたりしたら、とんでもないことが起きるからな」
「そうか? ここなら誰にもばれないだろう」
「だとしてもだ。むしろ私が危惧しているのは、君がこれから死を選ばないか、ということなんだ」
「私が……?」
「君は椅子の上で、死を望むような言葉を口走っていた」
「確かに、楽になれるんじゃないかと思っていた……」
イオアンは考えていたことを思い返した。
「少なくとも無駄死にじゃない。誰かのために死ぬことができる。それに、どうせ臆病な私は自分の力では死ねないだろう……誰かにやってもらえれば確実に死ねる……そんなことを考えていたんだと思う」
「それは、いまでも変わらないのか?」
「分からないな……だが、絶対にないとも言い切れない」
「そうか……そうだろうな。急にそういう気分に襲われるときがあるのも分かる。もし本当に自分の人生を終わらせたいのなら、私は止めたりしない」
カルハースが短剣を差し出した。
「君にチャンスをあげよう。本気なら、今度こそ自分の手で決着をつけるべきだ」
「それは……」
美しい短剣を見つめたイオアンは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……エルの短剣じゃないのか?」
「そうだ」
頷いたカルハースは、短剣をイオアンの手に握らせた。
「一度は君の血で汚れている。もう一度汚れても気にしないだろう」




