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 穏やかな日だ。僅かに湿った涼しい風がざわざわと枝葉を揺らし、木漏れ日の温かさと相まって快い。

 全開にした自室の窓はもう少し開けておこう。読みかけの本を膝に置き顔を上げる。窓から外を眺めれば、そう遠くない場所に大きな湖が見えた。


 ここは我が家の別荘である。

 聞き分けの悪い殿下もさすがにヨシュア様には逆らえなかったらしい。真っ白な顔で私が出ていくことを許し、それから顔を合わせていない。おかげで私は実家に戻り、ゆったりとした日々を過ごしている。もっとも、この生活がずっと続けられるわけではないけれど。


 私が帰る直前、実家に二件も来ていたものがあった。婚姻の話だ。一つはハイドラさんから、もう一つはヨシュア様からである。両親は大層不思議そうにしながらもその話を受け入れ、見事私の嫁ぎ先が決まった。どちらって、そんなもの権力の差を考えれば選択の余地などない。ヨシュア様の妾になるほか道があろうか。

 長いものには大人しく巻かれる家風であるから、妾という立場に多少の不安はあれ表立って不満を口にする者など居なかった。零細貴族から王族の縁者がでるなど、喜んでしかるべきなのかもしれない。そう思わなければこの先楽しくやっていける気がしなかった。


 というわけで、現在私はこの別荘で休暇がてら輿入れ準備中なのである。別段何を用意しろと要求されているわけでもないので、身なりを綺麗に整えておくだとかその程度しかしていない。難しいことは全て本邸にいる両親や、他の誰かが進めてくれているのだろう。仔細を知りたいとも思わなかった。だいたいここへ来たのだって、嫁入り前なのだから何か間違いのないように静かな場所にいた方が良いだろうという理由からだった。


 コンコンと自室のドアが鳴る。入っても良いと返事をすれば家令が困惑した様子で入室した。どうかしたのかと声をかける。彼はしばし口ごもってから、言いづらそうに口を開いた。


「レオン殿下がいらしております」


 は、と淑女らしからぬ息が漏れた。殿下が来ている。ここに? あの人は一体何を考えているのだろう。家令は苦笑し、顔を合わせるかと一応私に判断を仰いだ。どうやら殿下は私を出せと言っているらしい。気は進まないが出ていくべきだろう。下手に拒絶して厄介なことになるのも困る。仕方なしに是と答えて腰を上げた。




 殿下のいる応接間へと足を踏み入れる。部屋の中央あたりに備え付けられたソファに殿下は座っていた。ドアの開く音に反応してこちらへと向いたその顔がぱっと綺麗に明るくなる。青白く血の気の引いた頬や切れた口端、暗く疲れた目元が穏やかな色を湛えていた。ちぐはぐな微笑みだ。

 彼は私を認めると勢いよく立ち上がり、ヨシュア様に似て洗練された振る舞いで私の前に立った。


「ごめんね、突然押しかけて。迷惑なのは分かってたけど、おまえに会えるのは今しかないと思ったから。少しだけ話がしたかったんだ。おまえと」


 最後に見た彼からは想像もつかないくらいに落ち着いていた。見惚れてしまう。手首に増えた傷や手入れの行き届いていない髪すら気にならないほどに。


「せっかくの良い天気だし、近くに湖もあるんでしょ。散歩、付き合ってくれない? 謝りたいことも伝えたいこともたくさんあるんだ。無理にとは言わないけど、できればおまえと二人でゆっくりしたい。ね、これで最後にするから、お願い」


 言い終えると、殿下はじっとこちらを見つめて答えを待った。凪いだ瞳は嘘を言っているようには思えない。側仕えとして初めて会った彼と重なる。小さい頃お気に入りだったドールのようだと、確かその時も目が離せなかった。

 気が付けば頷いていた。殿下は嬉しそうに私の手を柔らかく取って笑う。最後だから。そう言い訳をして連れられるまま外へ出た。




 思った以上に湖は静謐で、キラキラと反射した光に阻まれることなく何故か深さを感じさせる。しゃがみ込んで手を伸ばせば容易にこの光を掬える近さだ。どきりと胸の底が嫌な動きをしたので目をそらした。

 隣の殿下は機嫌よく息を吸い込むと、満足気に吐き出した。普段の陰鬱さからは考えられない仕草に内心首を傾げる。

 彼の望む通り、二人きりだ。従者はどうしたのかと尋ねると、適当に金を渡した御者以外は連れてきていないと言う。まさか周囲に黙ってここへ来たのか。問い詰めてみれば彼は悪びれる様子もなく肩をすくめた。


「誰に言う必要があるの。俺のことなんて、おまえ以外気にしてくれなかったんだから、おまえさえ知っていれば問題ないでしょ」


 そのまま彼の右手がこちらに伸びて、頬にふわりと触れる。反射的に身を引こうとして、やめた。最後だから。せっかく彼の機嫌も良い。それに増々気を良くしたのか、殿下はきゅっと私の手を握って指を絡ませた。


「もし、俺がおまえの理想になれていれば、おまえは離れていかなかったのかな」


 寂しそうに彼の指先が冷えた。


「ごめんね、たくさん我儘言って。ごめんね、たくさん酷いことして。良いご主人さまじゃ、なかったね。ごめん、ごめんね……ごめん、なさい。も、勝手なことしないから。ちゃんとっ……おまえの、言うこと聞いて、理想になって、それで俺、そしたらおまえは……ごめっ、ごめんなさい。違うの。ごめんね。最後にするから、も、やめるから。一つだけ、俺のお願い、聞いて」


 日差しが強い。水面から跳ね返った光が殿下にあたって眩しい。けれども瞳が濡れて見える理由はそれだけではないのだろう。気付けばいつもの殿下だった。


「嘘でも良い、から。わかってるから。ずっと俺のこと好きでいてくれるって言って」


 喉が焼けるように熱かった。上手に声が出せなくて沈黙する。殿下が濁った瞳でもう一度せがんだ。返事の代わりに絡めた指先に力を込めて、口を開く。


「ありがと。……俺も、大好き。ずっと。おまえは覚えてないかもしれないけど、この湖で、初めて会った時から」


 私の言葉を聞き届けて、殿下は暗く穏やかに笑った。彼の腕が私の背中に回る。抵抗はしなかった。


「おまえは綺麗なものが好きだよね。だから俺のことも嫌いじゃないでしょ。知ってる、全部……わかってた。だからね、綺麗じゃない俺はきっとおまえに好きになってもらえないから、いつかはこうしないといけないって考えてた。俺が老いて、おまえに嫌われるまえに、まだ綺麗なうちに、永遠に綺麗な俺でいなくちゃいけない。そう、でしょ。いいよ、無理して首振らなくても。おまえのことはね、俺、ちゃんとわかってる」


 彼と一緒に縄で胴体を固定され、そこでやっとただ抱きしめられたのではなかったのだと分かった。血の気が引いていく。逃れようにも腕ごと縛られ手段が激減している。


「おまえはあいつの妾になるつもりだったんだよね。だめだよ、やっぱり。そんなこと絶対にだめ。だから今こうするのが一番良い。俺はおまえにとって綺麗なままでいたいし、俺にとっておまえは俺の侍女じゃなくちゃいけない。大丈夫、苦しいのはきっと俺だけ。おまえは俺が寂しくないように、俺のこと抱きしめてて、ね」


 そう言いながら殿下は私の口に何かを含ませる。抵抗する間もなかった。普段の彼からは想像できないほど円滑に、私の口元へと布を巻き付けていく。吐き出さないようにするためか。擦れた場所がほんのり痛くて苦しい。

 ああ、これはまずいな。じたばたと体の動かせる限りを尽くしたが、急激に力が入らなくなった。意識もぼんやりとしていく。


「俺のジュリエッタ、きっと俺と一緒に死んでね」


 いつだったか、読み聞かせてやった童話にそんな名前があったかもしれない。

 ばしゃん、と音がして体を冷たい流体が包む。容赦なく水が押し寄せた。水中でも優しく私の背を撫でていた手は、やがてぱったりと止んだのかもしれない。湖は深かった。みじめに飛沫を立てて沈んだ私たちを、誰か見ていてくれただろうか。







 規則的な雨音でふっと意識を取り戻す。首から上を動かして音の方を向けば分厚い灰色の雲が空を覆い、はらりぱらりと水滴が窓に貼りついていた。馴染みのない部屋だ。

 ドアの向こうからこちらへ向かってくる足音と、聞き覚えのある声がする。薄暗い部屋の中、私は確かに目を覚ました。


お付き合いありがとうございました。

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[良い点] 最終ページが迫るなか一向に好転しない展開には「あ、こりゃ救われない結末だわ」と気づくほかありませんよね。まるで慣れないバッドエンドを受け入れる準備期間を設けてくれているようで、読み終わった…
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