そして少女は竜を殺す
目の前に倒れるのは、漆黒の竜。
掠れた声で呼ぶのは、彼が少女につけた名前。
記憶と声を失くした少女に、竜がくれた少女の名前。
ぐらぐらと揺れる視界の中、ぐるぐると回る頭の中、彼の声だけが聞こえる。
コハク。
コクヨウの、声が。
♦ ♢ ♦ ♢ ♦
少女はとある国の姫だった。
父と母に可愛がられ、周囲に愛されていた少女。
幸せだった日々は、一つの咆哮によって崩れ去った。
胸を切り裂かれたような、哀しい咆哮で。
逃げ惑う人の中を、騎士たちに守られながら駆ける。
父と母は私に逃げろと言った。
自分たちは、竜を止める。
そう言って、私を城から逃がした。
国を出て、振り返って見えたのは、変わり果てた国。
露店が立ち並び、賑やかだった街は炎に飲まれ、燻り。
笑いあっていた人々の死体が転がっている。
気性が荒く、好戦的と呼ばれる竜は、破壊の限りを尽くしていた。
轟音が響いた。
城が、崩れている。
ーーお父様、お母様。
血のように赤い夕日に照らされ、城の残骸が降る。
破壊の限りを尽くした漆黒の竜は、何処かへと去っていた。
その時、竜の血が少女に降りかかった。
ぴしゃ、と少女の頬に血がつく。
この日、少女の国は滅んだ。
それから、少女は残った騎士たちと共に竜を追った。
竜の血が付着することによって発症する竜血病を治すために。
竜に復讐するために。
竜血病を治すには、付着した血の持ち主の心ノ臓から流れる血を飲まなければならない。
少女にとって、それはつらい旅だった。
両親を殺された怒りは積もり、竜の血は少女の体を蝕んでいった。
そして、十年後。
少女たちは、あの漆黒の竜を見つける。
霧深い山のどこかに、竜はいる。
探しているうちに、少女は他の者とはぐれてしまった。
ぼんやりと歩く中、少女は思う。
一体、自分は何故生きるのか、と。
苦しく、つらい旅。
復讐だけの旅。
竜が人間を襲ったのは、仲間を殺されたからだった。
人間が竜を襲ったのは、仲間を殺されたからだった。
ーー何故。
ガクリ、と少女がバランスを崩す。
落ちる。落ちる。
ーーこれで死ぬのかな。
全身に衝撃を受け、少女は意識を失った。
そして、目覚めた少女は記憶と声を失い、新しい名前をもらった。
コクヨウはいつもコハクを見守っていた。
優しく、厳しく、愛おしげに。
幸せだった。
本当に、幸せだったのだ。
♦ ♢ ♦ ♢ ♦
コハクが洞窟で伏せっていて、コクヨウが湖に出かけた時のことだった。
見知らぬ男たちが、洞窟に現れた。
矢継ぎ早に話す彼らを見た瞬間、全てを思い出した。
竜を殺さねばならない。
彼らはそう言った。
殺さねば、貴方が死んでしまうのだから。
コハクは、何も言えなかった。
男たちが武器を手に岩棚に隠れる。
コハクに剣を持たせて。
待って。
そう言おうとしても、声が出ない。
コクヨウが帰ってくる。
攻撃を受け、倒れるコクヨウ。
コハクは、彼の漆黒の瞳を見つめた。
じっと、見つめ続けた。
両親の仇。
国を滅ぼした竜。
私を、愛してくれた竜。
「コ、ハク…」
少女を呼ぶ竜は、真実に気づいたらしい。
コクヨウの顔が悲しげに歪む。
ゴホゴホと咳き込むと、どす黒い血を吐いてしまう。
自分を見つめる黒曜石の瞳に、吸い込まれるように近づく。
胸に切っ先を向け、突き刺す。
できるわけがない。
コハクの目から涙が零れる。
嫌だ。
嫌だ。
彼を、殺したくない。
しゃがみ込んで、コクヨウに縋る。
「コハク」
いつものように、優しく少女を呼ぶ声。
「我が死ねば、お前は助かるか」
その問いに、コハクが頷く。
しかし、すぐに首を横に振った。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
涙が次々と溢れ出てきて、声が出ない。
「そうか」
コクヨウは笑った。
優しく笑って、言った。
「我を殺せ、コハク」
黒曜石の瞳がコハクを映す。
その瞳は、いつも優しかった。
いつだって、優しかった。
今だって、優しく琥珀を見つめる。
愛おしげに、笑いかける。
「ああああああああああああああ!!!!!!!」
振り下ろした剣が、コクヨウを貫いた。
血を流し、冷たくなっていくコクヨウ。
温かかった体は、急速に冷えていく。
コクヨウ。
コクヨウ。
コクヨウ。
涙を流しながら、竜の名を呼ぶ。
何度も、何度も。
「コハク…」
愛しい愛しい、黒曜石の瞳の竜の名を、呼び続ける。
「お前に、名を、呼ばれる…のは、心地良い、な…」
コクヨウの瞳が閉じられる。
ーー 。
その言葉を遺して。
そしてコハクは、流れ出るその血を手にすくい、飲み干した。
この日、最後の竜が死んだ。
♦ ♢ ♦ ♢ ♦
竜に滅ぼされた国の女王は、竜を討ち、国を立て直した。
国は栄え、人々は幸せに暮らしていた。
誰もが女王を慕い、尊敬していた。
女王は一度も伴侶を持つことは無かった。
いつも、自分の名と同じ石を身に着けていた。
最愛のひとからの贈り物だと言って。
彼から貰った命を無駄にはしない。
そう言って、女王は立派に国を治めた。
年老いた女王は寝台に横たわり、首飾りについた石を握りしめた。
あの時、漆黒の竜が最期の言葉と共にくれた、琥珀。
女王の瞳と同じその石は、女王の宝物。
名前と同じ、大切な大切な宝物。
コハクが目を開けると、そこには草原が広がっていた。
青い空が広がり、爽やかな風が抜ける。
傍らには、悠然と立つ漆黒。
「コクヨウ…?」
その声に、コクヨウがコハクを見る。
優しく、愛おしげに。
「やはり、お前に名を呼ばれるのは心地良い」
楽しげにそう言って、コハクに自分の背に乗るよう促す。
「さあ、行こうか」
コハクが背に乗ったことを確認し、コクヨウは翼を広げた。
「どこへ行くの?」
「お前の行きたいところへ」
琥珀色の少女を乗せ、漆黒の竜は空を舞う。
「お前と共にいられるなら、どこへでも」
少女の胸元の琥珀が、陽の光を受け輝いた。
その日、偉大なる女王は息を引き取った。
宝物の首飾りを握りしめ、その顔は、幸せそうに笑っていたという。
これで完結です。
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