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泥沼に住まう者

「あっ!!思い出しました……」


ナディアの声が、そこで落ちた。プーカの指が止まる。橘も壁から背を離した。


「ヤロスラフ・コヴァチ。情報保全局にいた頃、同僚がこいつの調査を担当して、行方がわからなくなったことがあります」


会議室の空気が変わった。


「後日、ルリアール川に浮いていました」


ナディアは画面から目を離さない。唇だけが、わずかに歪んだ。


「なんで忘れていた。くそ。こいつは厄介な男です」


最後の一枚を、指先で軽く押さえる。


「残りのお一方、山岳ガイドのソフィア・ケラーさん。本名アリーナ・ドゥビンスカ。長距離縦深偵察連隊。長距離を独力で移動し敵地に侵出、武器調達、偵察、後方攪乱、ゲリラ戦や狙撃なんかを得意とする連中です」

「つまり」


橘が低く言う。


「ただの人買いどもの番犬じゃない」

「そういうことです。オフ・ザ・ブックス(簿外戦力)のような操り人形とはわけが違いますよ」


プーカは他人事のように言い、笑みを崩さない。


「人身売買だけじゃなく、違法機体も、武器も、記録も、人も、まとめて扱う前進基地ですよ。そのハブに、SWAMPスワンプが貼りついてる。だったら向こうも、単なる倉庫として置いてるんじゃない。事故(・・)が起きる前提で守ってる」


会議室の空気が沈む。


「どうします?」


プーカはわざとらしくアルテミシアへ向き直る。


「まともにやり合うには、なかなかに骨ですよ!我が愛しのアルテミシア様?」


アルテミシアはすぐには答えなかった。正面モニターに映し出された写真を見ている。ハブ施設。違法機体。武器。そして旧ウルガンクス共和国の汚れ仕事専門部隊。


「……国家警察にも情報提供をします」


やがて彼女は言った。


「この線は、知らずに触ると死人が出そうです」

「おや、よろしいのですか?そうするとおそらく主要な線からは外されますよ?」


プーカは薄く笑う。予想していた流れなのだろう。


「かまいません。その代わり、情報は共有してもらいましょう。警察は港湾施設とハブの調査、それと旧ウルガンクス崩れを。その線が警備会社経由で浮かべば拾いますが、基本は神山さんに任せましょう。必要であれば介入班に骨を折ってもらいますが、私たちは労働局です。武力行使が主任務ではありません。警備会社が委託された現場での事件です。なので重要施設警備監督法違反の線から警備会社と真船さんの線を追います」


ナディアが短くうなずく。


「企業群絡みの線を行政監督から追うなら、警察よりこちらの方が法的根拠を立てやすい。それに……言いたくはありませんが警察組織は内部的な問題(腐敗・汚職)もある。企業群に触ると横やりが入る可能性は十分にある」

「ええ……残念ですがそうですね」


アルテミシアもそれを認めた。


「特定施設警備の不備から叩けば埃は立つでしょう。今のところ真船さんにつながる線は細い。直接施設を警備していたものをあたるほうがいいでしょう。形骸化していても死んではいない条文はあります。ハブが前進基地なら、なおさらです。そして……人身売買のネットワークを叩きます」


アルテミシアが決然と言い切る。橘が低く息を吐く。


「法で動きを止めて、必要なら最後に拳で殴る。いつも通りですね」

「はい」


アルテミシアは静かに答えた。


「それが私たちの仕事です」


プーカはその返答を聞いて、ほんの少しだけ笑みを深くした。

プーカはいつも大仰である。ふざけている。だが、その目の奥だけはいつも冷たく、少しも笑っていなかった。

ドール越しでも、その嫌な感じだけは少しも薄まらない。

ナディアはその目が大嫌いだった。


友好的である顔をし、何かを値踏みし、確かめるようなそんな目だった。


---


都心からは離れた繁華街。淫猥なネオンの光、路地裏の汚物とネズミ、不快な虫が時折視界の隅を走る。そして、時折放置された死体が転がる。

そんな混沌の積み重なる中心部から、やや奥まった場所にある雑居ビル街。こんな場所にまともな企業は事務所を構えることはない。

多かれ少なかれ、後ろ暗いか、ろくでもない連中の吹き溜まりである。


その夜、五人の男たちが車を降りた。

二台の黒いセダン。ナンバーは偽造ではないが、名義は三回転がしてある。港を仕切る地場企業の傭兵だった。


「上の連中がうるさいんだよ。最近シマで好き勝手やってる外人がいるからシメてこいってさ」


リーダー格の男が顎でビルを示した。七階建て。築三十年ほどの事務所ビルで、テナントは半分埋まっている。ターゲットは五階。登記上は貿易コンサルタント事務所。実態は知らないし興味もない。


「武器は」

「ないだろ。コンサル屋だって話だ。でも護衛くらいはいるかもしれんな。一応、銃を持っていけ」


四人は手慣れていた。この手の仕事は初めてではない。テナントを追い出す、時には人を黙らせることもある。裏側で回る日常業務の一つだ。

覆面をかぶり喉元まで引き下ろす。

二人は非常階段を上がる。もう二人は正面から乗り込む。途中、数人とすれ違うが、みな慣れたもので関わらないように、目をそらし足早にそこを離れる。

一人は別行動で、向かいの建物の屋上を取る手筈になっている。この男はチームの中ではいちばん金のかかる人間で、元軍の狙撃手くずれだった。保険のようなものだ。こんな仕事に狙撃手が要るとは誰も思っていない。


別行動をしていた男は、向かいのビルの屋上で扉をこじ開ける。過去にも同業がいたのか、曲がった扉は簡単に鍵が外れた。

ビルの縁に立ち、向かいのビルを眺める。


――時間の無駄だな。金をもらっているのでここにいるが、たかがコンサルを脅すだけにしては大げさだ。何にビビってやがる。


そう内心不満をこぼす。

腹這いになり、スコープを覗いた。風はない。撃ち下ろしを考慮しゼロインを調整する。狙うのは五階の窓だ。

ブラインドは半分下りている。室内の照明は薄暗い。人影がひとつ、デスクの前に座っているのが見える。

念のため、窓の左右を確認する。異常なし。上下の階も確認する。異常なし。男は通信機に触れた。


「こちらオーバーウォッチ。五階に一名視認。他の動きなし。いつでもいい」


返事が来る前に、もう一度スコープを覗いた。五階の窓。デスクの人影

特に変わった様子はなかった。スコープを滑らせると、左隣の窓に目が行った。何もないが何かが気になる。

窓に反射する下界のネオンが、部分的にくりぬかれていることに気が付いた。


――ガラスがない?


正確には、窓ガラスが円形にくり抜かれていた。工具で丁寧に切り取ったように。その暗い穴の奥に何かが光った。

スコープだった。こちらを覗いている。


――まさか……!


男の全身の血液が逆流する感覚が走った。

スコープの向こうに顔があった。女、アリーナ・ドゥビンスカだ。口元が三日月のように弧を描く。


笑っていた。


そして、閃光……音はしなかった。


---


錆びて時々おかしな軋みを響かせる非常階段だ。上がっていた二人は、四階と五階の踊り場で足を止めた。

薄暗い廊下の奥に標的のいる部屋がある。そこから、かすかに音楽が聞こえる。古いラジオのようだ。雑然とした生活感がある。


「いるな」


一人が顎をしゃくった。もう一人がバールを握り直す。廊下に踏み込み、足音を立てないように部屋の前にたどり着く。


――なぜ俺は足音なんか気にしている?


鳥肌が立ちっぱなしだ。仲間たちも妙に緊張していた。部屋に踏み込むべく、後ろの仲間とアイコンタクトをしようと振り向く。

そこには二人いた。


――二人?


首筋からナイフを生やした仲間()っ《・》た《・》ものと、嫌な笑みを浮かべた男がいた。


その男の手元で何かが煌めいた。いるはずのない三人目の手から、磨かれた刃が投げ出され、訝しんだ男の眉間に突き刺さる。

突き刺さったナイフを引き抜き、無感情に死体の服で拭い去る。ヤロスラフ・コヴァチ、ナディアが危険視していた男だ。


---


正面エントランスから入った二人は、エレベーターを待っていた。リーダー格の男が携帯を確認する。狙撃手からの返答はない。


「おい、オーバーウォッチ。聞こえるか」


応答なし。


「回線がおかしいのか?」


その時、エレベーターが到着した。中は空だった。薄暗い蛍光灯が時折ちらつく。二人が乗り込み、五階のボタンを押す。わずかな引っかかりを感じさせながら扉が閉まる。

リーダー格の男は、なぜか喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。理由はわからない。ただ、エレベーターの天井の点検ハッチにわずかな隙間があることに気が付く。

手にしたバールでゆっくりと押し上げると、ニヤニヤした男がサプレッサーの付いた拳銃を向けていた。

リーダーの目が見開かれ、とっさに腰に差した6発装填されているリボルバーを抜こうとした。


天井裏の男、ペトル・マクシミチは、全く慌てるそぶりもなく心臓と眉間にそれぞれ一発ずつ、正確に弾丸を送り込む。


この日、事務所にいる女、イルゼ・グラウを目視できた傭兵はいなかった。


---


四十分後。所轄の警察官二人が、向かいのビルの屋上に上がった。通報はビルの巡回警備員。男が死んでいると。


懐中電灯の光が屋上を舐める。排水口のそば。腹這いの男が一人。ライフルのそばに倒れている。

若い警察官が近づいて、息を呑んだ。


「スコープが……」


ライフルのスコープが、正面から貫通していた。弾はスコープのレンズを通り抜け、そのまま射手の眼窩に達している。

年配の警察官がしゃがみ込み、弾道の方向を目で追った。向かいの雑居ビル。五階の窓。ガラスが丸く切り取られている。


「あそこから撃たれたのか?」


年配の警察官はそれだけ言った。長い沈黙のあと、若い方が口を開く。


「距離は近いとはいえ、こんなの見たことないすよ」

「俺もだ。こいつは何とやりあったんだ」


年配の警察官は立ち上がり、無線を取った。

五階の事務所はもぬけの殻だった。血痕はない。そこにはすえた街の淀みと、わずかに舞う埃以外には机と椅子と、古いラジオがひとつしかない。

ラジオはまだ鳴っていた。

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