ふにゃふにゃの紙ストロー(エピローグ)
あの日から、数ヶ月の時が流れた。
初秋の冷たい雨が、名古屋駅のコンクリートジャングルを灰色に濡らし、行き交う人々の傘の波を路面へ映し出している。
JRゲートタワー15階。
日本で一番高い場所にあるスターバックスのフロアは、平日の夕方ということもあり、小洒落た私服の大学生やスマートフォンを眺める会社員たちでいつも通りの賑わいを見せていた。
全面ガラス窓の向こうには、雨煙に霞む広大な濃尾平野の景色が、どこまでも平坦に広がっている。
そのフロアの、一番奥にある窓際の一番端の席。
かつて、くたびれたトレンチコートの襟を立て、死んだ魚のような目でベンティサイズのコップを持っていた探偵が、街を影から見守るために使っていた『定位置』。 そこに、一人の少女が静かに座っていた。
左神 凛。十八歳。
彼女はもう、あの破れた高校の制服を着てはいなかった。
少し大人びた私服の上から、おじさんが遺していった、ヨレヨレで少しカビ臭い古いトレンチコートを、肩幅を不器用に合わせて羽織っている。
「……う。やっぱり、苦いな」
凛は卓上に置かれたベンティサイズのドリップコーヒーに口をつけ、眉間に深い皺を寄せて顔をしかめた。
おじさんの真似をしてブラックで頼んではみたものの、その舌が焼けるような泥水の苦みは、今の彼女にはまだ早すぎる大人の味だった。
「ハハハ! 見ろよキョウコさん、凛ちゃんまで豊の奴と同じように、そんな不味そうな泥水を啜るようになっちまった。おじさんが草葉の陰で呆れてるぜ」 すぐ横の通路から、荷物カバンを片手に持った、頭の禿げ上がった中年の男が歩み寄ってきた。ハゲのユタカだ。
彼はあの日、四日市港から凛を名古屋へと連れ戻し、それからずっと、親友の遺した一人娘のような彼女を影から支え続けていた。
「いいじゃない、形から入るのが探偵でしょ」
カウンターの向こう側から、誇らしげなブラックエプロンを纏ったキョウコさんが、クスリと品のある笑みを浮かべた。
彼女は凛のトレイの上に、本日一杯目のワンモア・コーヒー(お代わり)のレシートを置く際、周囲の客に気付かれないよう、その裏面に一枚の『別のレシート』を滑り込ませた。
「凛ちゃん。……これ、さっきまでそこに座っていた、ちょっと様子のおかしい女の子が残していった注文票よ。マニュアルにはない、妙なカスタマイズが施されているわ」
凛の瞳が、その瞬間、おじさんにそっくりな鋭い「探偵の目」へと反転した。
トレイからレシートを取り、そこに印字された文字列を凝視する。
『フラペチーノ。チョコチップ追加×3、キャラメルソース増量、ただし、ストローは「プラスチック」で』
環境配慮で紙ストローが当たり前になったこの時代に、あえてプラストローを指定する不自然な文字列。
そして、そのトッピングの数量とコードの不自然な配列。
ネットの海を監視する最新の警察の捜査網が決して引っかけることのできない、スタバのシステムを利用した、新たな事件の「注文」のシグナルだった。「大須の半グレの残党が、また女子高生を巻き込んで怪しい大麻の密売ルートを動かしてるネ。……豊のおじさんから受け継いだ『お節介』の出番アル」
凛の耳のインカムから、ざらついた独特の日本語の音声が飛び込んできた。上海から密航船で日本へと渡り、今や大須のジャンク街を遊び場にして凛の「前線のバディ」として居着いている、あの破天荒な野生児――メイリン(梅鈴)の声だった。彼女は日本の大衆文化にすっかり染まりながらも、その桁外れの怪力を、今度は凛の探偵業のアシストのために使うと決めていたのだ。
「ユタカさん、車のエンジンをかけて。……メイリン、赤門通りの交差点で張り込みを始めて。一宮のフェンスをこじ開けた時のように、一発で片付けるよ」
凛は卓上のフラペチーノに挿さった、水分を吸ってふにゃふにゃになった紙ストローを、不器用にくわえ直した。そして、おじさんのトレンチコートの襟をバッと立てると、雨の名駅の空へ向かって、最高に不敵で、最高に格好いい二代目の笑みを浮かべてみせた。
「左神凛。本日をもって、この名古屋の日常の警護人に就任します。……だからおじさん、そっちの天国のスタバで、玲那さんとゆっくり甘いラテでも飲んでてよ」
彼女は、おじさんから完璧に受け継いだ「人情」という名の最強の武器を胸に抱き、ハゲのユタカを引き連れて、雨のゲートタワーのガラス扉を力強く押し開けて飛び出していった。
かつて探偵が座っていた空っぽの窓際の席には、まだ仄かな温かさを残したベンティサイズの紙コップが、静かに、そして誇らしげに、新しい街の夜明けを待っていた。




