2.王子の道 3
低く籠った声が届き、セスは目が覚めた。
目に映るのは見慣れない天井で、一瞬呆けた後、昨日のことを思い出す。そして両手で頬を覆った。
この部屋に入った覚えはない。上着を脱いだ覚えもない。寝台に入った覚えはさらにない。もしかして、アーヴィングに抱きかかえられたまま、寝てしまった・・・?
何てこと。これではまるで幼い子供のようではないか。第一、アーヴィングに寝顔を見られてしまったなんて。泥だらけの姿も泣き顔も、子供の時のこととはいえ見られているが、だからといって今この年齢で見られるなどはしたない。あまりの恥ずかしさに寝台の中で一人うろたえていたら、気配を察したのか中扉の向こうから声がかかった。
「セス? 起きたのか?」
アーヴィングの声に慌てて寝台から降りようとして、足首に走った痛みに膝から崩れ、思いのほか大きな音を立ててしまった。
「おい、どうした、大丈夫か? 入るぞ」
開錠した音に続き、中扉が開く。思わずセスは制止の声を上げたが半ば悲鳴じみたものになった。
「っ、おいっ!?」
「あんた、馬鹿ですかっ」
開きかけた扉が派手な音を立てて閉じられ、その向こうからアーヴィングとアレンと思われる声が何やら言いあうが聞こえた。
足に負担をかけないようそっと寝台に腰掛け、扉の向こうの様子を伺っていると、そのうち、扉が叩かれた。
「・・・セスさん? おけがはないですか?」
やさしくいたわるようなアレンの声だった。
「・・・はい」
「隊長が、失礼なまねをして申し訳ありませんでした。この馬鹿にはよーく言って聞かせておきますので、勘弁してやってください」
「・・・はい?」
「お目覚めでしたら、朝食を運ばせますので、お支度をなさってください。大丈夫です、我々女王国守護隊は礼儀をわきまえておりますし、不心得者は確保して執務室の外に出ますのでご心配には及びません」
「・・・はい」
最後の返事をするときには口が笑みの形を作っていた。上官に対してずいぶんと失礼な物言いではあるが、アレンのそれをアーヴィングが許しているというのならば、互いが互いをずいぶんと気に入っているのだろう。
「セス。すまん」
「あんたはさっさと出てく」
そして扉の閉じられる音がして、中扉の向こうからは気配が消えた。
痛む足をそろそろと下ろして、手近なものにつかまりながらそうっと歩き、セスは顔を洗い、ブラシで髪をといた。ふと、これもアーヴィングのブラシだと気づき、あわててブラシに残った自分の髪を取り除く。たたんであった昨日の上着を着ようとして、それを脱がせてたたんでくれたのもアーヴィングだと気づく。どうにも情けない。
アーヴィングの使っている部屋、ということは、中扉の向こうは執務室だったのだろう。昨夜はアーヴィングと扉一枚を隔てて眠ったことになる。
昨日食堂で散々からかわれたが、アーヴィングが自分に何かした、というような疑いはまったく浮かばなかった。アーヴィングにとってセスは妹のようなもの。セスははっきりそう知っている。今だってセスが起きたばかりとわかっていながら部屋に入ってこようとした。セスが一人の若い未婚女性だという意識があれば、そんな無作法なまねはしないはずだ。
だからこそ、そばにいられる。
アーヴィングを兄のように慕い、頼ってはいても。兄でなくなれば、離れるしかないではないか。
聞けばずいぶんと遅い時間まで眠っていた。朝寝を許される身分ではなく、もともと野育ちゆえ朝は早い。女王宮にあればひと仕事もふた仕事も終わっていようかという時間だった。
アーヴィングは早朝から外出して、帰ってきて一息ついたところだったという。
医師夫婦はすでに施設を出ていた。王都にある治療院は今日いっぱいを休みにしてきたが、明日にはまた治療を必要とする者たちがやって来る。昨夜泊まるはずだった町から朝のうちに出る馬車に乗れば、今日中に王都へ帰ることができるのだった。
置いて行かれてしまった形のセスは溜息をついた。予定通りには王都、王城へは戻れない。言伝を頼もうにも医師夫婦はすでにいない。セスの不在を知ってユージェニー女王がレーヴェがアリシア王女が、どんな表情をするのか容易に想像がついた。
「お前、父上に黙って王都を出ただろう?」
執務机で書き物をしていたアーヴィングにいきなり言われて、セスの体に力が入った。
「父上が護衛もつけずにお前を王城から出されるとは思えん。ましてや、あの医師に聞けば計画も準備もあまりに杜撰で、父上が聞いておられたらお許しになるはずがない。今回の薬草取り、誰が言いだした?」
静かな口調ではあったが、そこには確かに怒気があり、セスは口ごもった。
「俺は父上にお前を頼んだ。それには十分な理由があることはお前も承知しているはずだ。にもかかわらずお前は怪我をしてここにいる。今朝昨日の現場を見てきたが、お前、怪我だけで済んだのは幸いだったと思え。その怪我が偶然であれ故意であれ」
案じてくれている。それはわかってはいるが、それでもセスはアーヴィングの静かな怒りの気配に怯えた。
アーヴィングのいうとおり、レーヴェには言っていない。今回の薬草取りのもともとの発案者は医師夫婦でもセスでもなかったし、セスも参加する予定はなかったのだが、いろいろあって夫婦に同行することになった。レーヴェに報告する時間がなかったわけではないが、ほんのわずかの、反抗心と呼ぶほどにも至らぬ小さな心のささくれがそれを怠らせた。あるいはアーヴィングが危惧したそれを無意識にでも望んだのかも知れず、そのことにアーヴィングが気付いたのかもしれない、と。
「――隊長」
見かねたのだろう、外扉を守るように立っていたアレンが窘めるようにアーヴィングを呼んだ。アーヴィングは前髪をかきあげ、息を吐いた。
「すまん、セス。お前に怒っているわけではない」
「ですが・・・」
広くはない執務室の、アーヴィングの執務机の前に向き合うように置かれた長椅子にセスが身を小さくして座っている。まとめることなく流したままの髪が俯いたセスを被う幕のようにまっすぐに垂れている。
アーヴィングの前でそのようにしてセスはよく泣いた。俯き、身を震わせて、こらえきれない涙をこぼし、棘のある心無いアーヴィングの言葉を黙って受け止めていた。あの頃のアーヴィングは間違いなくセスを嫌っていた。
泣くな、と、笑っていろ、と怒ったような顔をしてアーヴィングが言ったのはいつだったか。それから正と負の感情は少しづつ逆転していき、今ではあの頃が嘘のようだ。
「お前は俺と一緒に王都に戻ると、女王宮には朝のうちに早馬を出しておいた。それでも陛下は心配なさるだろう」
「・・・はい」
「父上も、アリシアも」
「・・・はい」
「たまたま俺たちが通りかかったからいいようなものの、そうでなかったら、お前は今頃どうなっていたか知れないのだぞ。盗賊だって、野獣だっているかもしれない。お前に何かあったら悲しむ人がいるのだから、自重しろ。そうでなかったら、万全に備えろ」
あなたも悲しんでくださいますか? セスはそう言いたかった。きっと、そうだ、と言ってくれるだろう。だから、申し訳ありませんでした、と心から答えた。
日頃くるくるとよく働くセスに、何もせず一つ所で大人しくしていろ、というのはそもそも無理な話だ。
怪我をしていることもあり医務室に預けられたが、医師とて暇ではない、知識もあることとて手伝おうとしたら顔を出したアーヴィングに見つかり、叱られた。
厨房に連れて行ってもらっても立っているのがやっとでは、忙しく立ち働く料理人たちの邪魔にしかならない。
掃除も洗濯も、当然させてもらえるはずもなく、セスはまさに身の置き所がなくなってしまった。
結局鍛錬場に連れて行かれ、階の石造りの手すりの上に置物よろしく座らされた。
「アーヴィング様!」
「そこで大人しく鍛錬でも見てろ」
手すりの端の石柱だ、それなりの高さはある。足を挫いているセスには飛び降りることもできない。アーヴィングの言うように大人しくここにいるしかないのだろうが、隊士たちの視線が痛い。
アーヴィングたちは王都へ発つまでの一時の滞在だが、ここに常駐している隊もある。昨日救助された女が高いところに座って鍛錬を見学している、というのは彼らの目にはどう映っているのか。何ともいたたまれない。
そのうちにアレンが鍛錬を抜け出して、セスに近寄ってきた。
もう王都へ帰るだけなので鍛錬もほどほどで、と笑い、サボリです、と付け足した。
「隊長と一緒に朝から出かけましたので、少しくらい許されると思いませんか? 昨日のところです」
「・・・先ほどは、ありがとうございました」
「いえいえ。でも隊長の気持ちもわかりますよ」
脅すわけではないけれど、と前置きしてアレンが昨日セスが落ちていった斜面の様子を教えてくれた。
セスとクレアが落ちていった跡がはっきりと残っていた斜面の、昨日はわからなかったその高さにアーヴィングはかなり肝を冷やしたようだった。木々や下草、石などもある中、引きずられるように落ちていったことを思えば、よくぞ足を挫いたくらいで済んだ、と言わざるを得ない。打撲、裂傷、骨折、体のどの部分であってもかなりの痛手となったはずだ。命を落としていたかもしれない。
「半年行動を共にしてきましたけど、あの人が現場で、慌てる、狼狽える、というのを初めて見ましたよ。よほどあなたが大事らしい」
親しみやすい屈託のなさそうな笑顔を見せてくるが、王城で多くの人間を見てきたセスにはそれが単純に好奇心や好意だけではないとわかっている。
「いつどんな時でも揺らがず、泰然と構え、民草を庇護する。我々下々は王族方のお姿を拝することも滅多にかないませんが、あの人は我々には絵に描いたような王子様に見えるんですよ。半年とはいえ常に行動を共にしていれば愛嬌も可愛げもある、まあ普通の青年だってのも今では知っていますがね。で、普通の青年であるはずのあの人のあからさまな情動っていうのを今回初めて見ました。泣き縋がる者を慰撫し抵抗するならず者どもを叩き伏せるあの王子様が、王子様でない顔をしたのは、この半年、あなたに対してだけなんです」
アーヴィングが仕事でセスと関わることはこれまでほとんどなかった。
セスは女王宮の内向きの仕事の中でも王族の身の回りの世話を専らとしていて、そして王族のそばにいるセスが顔を合わせるのは父や母や姉――家族に会いに来た息子としてのアーヴィングだ。アーヴィングにとってはセスも身内に等しい。
セスは困ったように微笑んだ。
「妹ですから」
家族の中で一番小さな子供は自分より小さな者を求める。愛されて育ったアーヴィングに弟なり妹なり彼より幼い者がいたらきっと自分がそうされたようにその者をかわいがったはずだ。まっすぐに育った慈しみ深いアーヴィングが過去にセスをいじめたことを悔い、その償いを伴って自分より年下のセスに情を注げば、それは異性を恋うものではないだろう。
アレンは納得していないような表情をしているが、他にどう言いようがあるというのか。
「大切にしていただいているとは思っています。ですが、アレン様にどう見えたとしても、アーヴィング様にとっては妹なんです」
「隊長にとっては? ではあなたにとってはどうなんです?」
「兄、です。ちょっと口うるさくて、すぐに構いたがる、心配性な、やさしい」
うわぁ、とアレンは天を仰いだ。
「いやあ、セスさん。隊長によく手紙を下さっていたでしょう? いや、隊長宛に届いていた差出人セスって手紙のセスって、セスさんでしょう? 王城の、薬師の、十七歳の、小柄な、隊長に懐いてるセス、って、セスさんなんでしょう?」
たたみ掛けるようなアレンに目を白黒させながらも肯定しつつ、懐いてるって・・・と、漏らすセスに、アレンはもう一度天を仰いだ。
「馬鹿だ。やっぱり馬鹿だ」
そう言ってアレンはがっくりとセスの座っている横、つまりはセスの腰近くに突っ伏した。
「あの、アレン様?」
戸惑うセスにアレンはようやく顔を上げ、今度こそ含むところのない晴れやかな笑顔を見せた。
「あの人、あなたの手紙をとても楽しみにしていたんですよ。毎回あの整った凛々しい王子様面がだらしなく緩むもんだから、我々はてっきり、セス、は恋人だとばかり思ってました。いや、妹だったんですね」
ちらりと目を向ければアーヴィングがこちらに向かってきている。その表情にアレンはまた笑った。
「隊長、かわいすぎ。――ねえ、セスさん。あの人、完璧な王子様なのにけっこう抜けてて、ほっとけないような気になりませんか?」
くす、とセスは笑った。
「内緒です」
控えめな、だが間違いない肯定だ。
「いいご兄妹でいらっしゃる。――セスさん。あの完璧王子に弱点があるとしたら、その一つは間違いなくあなたです。どうかくれぐれも御身大切になさってください。あの人の道に影を落とすようなことにはならないでください」
―――何を知っているのか。
アレンは何度もアーヴィングを、王子、と呼んだ。この国は王族が次々と斃れるという異常事態を経験している。王族ではないが、王位継承権を持つレーヴェの子であるアーヴィングが王族になる可能性も皆無ではない。この国でただ一人の貴族であるアーヴィングは他の人々からしたら王族にも等しく見えるのかもしれない。
だが。
王子であろうとなかろうと、王子になろうとなるまいと、その前途に影を落とすとしたら、それはお前だ、と。そう言われているようで。
「セスさん?」
表情を強張らせたセスに怪訝そうにアレンが聞いてくるが。
―――お前の存在は障りなのだ―――
かつてレーヴェに言われた言葉が耳の奥でこだました。




