第46話「ただいまの続き」
朝比奈邸の朝は、妙に静かだった。
静かと言っても、重い静けさではない。
少しだけ気の抜けた静けさだ。
廊下の窓から入る春の光はやわらかく、昨夜までの緊張を知らない顔で床を照らしている。
その光の中で、サッちゃんはキッチンに立っていた。
エプロン姿。髪は後ろでまとめられ、いつもより少しだけ真面目な顔でフライパンを見つめている。
戦闘の翌朝だというのに、やっていることは卵焼きの火加減の確認だ。
その落差が、なんだか少しおかしかった。
「……それ、もう十分うまそうだけど」
ダイニングの椅子に座ったまま、ユウトがそう言う。
コーヒーカップを持つ手は、昨日よりずっと安定している。
サッちゃんは振り向かずに答えた。
「油断すると巻く時に破れます。
料理も、最後まで気を抜かない方がいいです」
「言い方が戦闘なんだよな……」
ユウトが苦笑すると、その横でリナが書類から顔も上げずに言った。
「実際、あなたよりは手順を守るわよ。
料理の腕もあがってる」
「ほらね」
そのまま朝食が並び始めて、ユウトは一瞬だけ言葉を失った。
味噌汁。焼き魚。卵焼き。サラダ。納豆。ヨーグルト。果物。
どう見ても、普段の朝より二段くらい豪華だ。
一人旅館が始まっている。
「……多くないか」
ユウトが率直に言うと、サッちゃんはきょとんとしてから、むしろ真剣な顔になった。
「朝食は燃料です。
たんぱく質、発酵食品、ビタミン、食物繊維、全部大事です」
リナが皿の数を見て、静かに言う。
「旅館の朝?」
「戦後なので」
「家庭の規模感を見失ってるわね」
そこでようやく、ミナミがソファの上で吹き出した。
「戦後って。
いやでもサっちゃんらしいな、それ。回復重視を本気でやると、こうなるんだ」
ノアも真顔で皿数を確認している。
やめてほしい。余計に査察っぽい。
「栄養バランスは優秀です。量は多いですが、思想は正しい」
「思想って言うなよ」
ユウトがつい突っ込むと、サッちゃんが少しだけ慌てた。
「多いですか?
すみません、でも、昨日あれだけ動いて、最近バタついてたのでふ、今日はちゃんと食べてほしくて……」
そこまで言われると、文句は言いづらい。
ユウトは困ったように笑った。
「多いけど……まあ、嬉しいから文句言いづらい」
その一言で、サッちゃんが目に見えて照れた。
ほんの少しだけ口元が緩んで、それから急に真面目な顔に戻る。
「では、完食でお願いします」
「圧が強いな」
「回復重視なので」
「そこは絶対に譲らないんだな」
キッチンの空気が、そこで少しだけ緩んだ。
朝比奈邸の朝は、ようやく“普通の騒がしさ”に戻り始めている。
ダイニングの端では、ノアが朝のニュースではなく屋敷の簡易ログを確認していた。
その姿だけ見ると優等生だが、やっていることは外周センサーの誤差チェックだ。
ミナミはソファに半分沈みながら、工具箱の中身を整理している。
昨夜使った《ハリケーン・ブルーム Mk-I》は、すでに分解寸前の姿でテーブルの端に置かれていた。
「ブルーム、ちゃんと生きててよかったわ」
ミナミがしみじみと言う。
「風圧散乱モード、やっぱり優秀だったなあ。
このデータで正式版を――」
「正式採用しない」
リナが即座に切った。
ミナミが不服そうに顔を上げる。
「早くない?」
「屋内使用ギリギリを常設前提にしない」
「でも便利だったじゃん」
「便利と採用は別」
ノアまで真顔で頷く。
「同意します。ミケ被害の再発リスクもあります」
「ミケ前提で禁止される兵器って何なの……」
ユウトは、サッちゃんの横顔を見ながらコーヒーを一口飲んだ。
苦みはいつも通りだ。
でも今朝は、それが妙に落ち着いた味に思えた。
昼前、サッちゃんはユウトと並んで商店街へ出た。
大きな理由はない。
足りなくなった食材を少し買うことと、玄関先に置かれていた回覧板を返すこと。
言ってしまえば、どこにでもある小さな用事だ。
だからこそ、意味があった。
この数日、外へ出るというだけで“警戒”が先に立っていた。
今の二人に必要なのは、戦闘ではなく、何でもない顔で歩くことだった。
春の商店街は、もう新学期の匂いをまとい始めていた。
文房具屋の前には色とりどりのファイル。
パン屋の前にはいつもより少し長い列。
八百屋には新じゃがと春キャベツが積まれている。
サッちゃんは、紙袋を胸の前で抱えながら、周囲を見ていた。
警戒していないわけではない。
でも、“敵がいるかもしれない街”としてではなく、“いつもの商店街”として見ている。
その視線の違いに、ユウトはすぐ気づいた。
「どうだ」
歩きながらそう聞くと、サッちゃんは少し考えてから答えた。
「……前より、音が多いです」
「音?」
「はい。
前は、危ない音ばかり拾っていた気がします。
でも今日は、パン屋さんのベルとか、コロッケを揚げる音とか、子どもの声とか、そういうのもちゃんと聞こえます」
ユウトは少しだけ笑った。
「そっか」
その時、奥から大きな声が飛んできた。
「おっ、朝比奈くんにサッちゃんじゃないか!」
大崎会長だった。
手には回覧板の束。
いつものように景気よく、何も知らない顔で立っている。
「この前の回覧板、受け取ったかい?」
「受け取りました。今ちょうど返しに行くところです」
ユウトがそう言うと、会長は満足げに頷いた。
「よしよし。
あと、今度の町内会の飾り付け、春らしくちょっと明るめにしたいんだよ。
サッちゃん、手先は器用そうだから今度ちょっと手伝っておくれ」
サッちゃんは少しだけ目を丸くして、それからすぐ頷いた。
「はい。時間が合えば、ぜひ」
会長はただ普通に人を頼り、普通に話しかける。
その“普通”が、今日はありがたかった。
「朝比奈くんはまだ顔色がちょっと薄いねえ。
無理はしないことだよ」
それだけ言うと、会長はまた別の店先へ大声で歩いていった。
本当に、ただの町内会長だ。
それで十分だった。
平和だ。
この程度で騒がしいのが、ちょうどいい。
夕方、朝比奈邸へ戻ると、家の中にはまた別の静けさがあった。
昼の外出で少し疲れたのだろう。
サッちゃんは、靴を脱ぐ動作まで前より丁寧だった。
玄関の鍵を戻す手元も、以前より慎重に見える。
“守る対象”としてではなく、“戻ってくる場所”として家を扱っている。
そんな所作だった。
リビングでは、メグミが提出物の一覧を広げていた。
新学期の書類、進路希望の清書、学年切り替えの予定。
戦いが終わっても、学校はちゃんと続く。そこがなんとも現実的だ。
「ユウト」
「ん?」
「進路希望、固まってる?」
「帰ってきた途端、それか」
「春休み終わるから。
それに、事件があっても提出期限は待ってくれない」
その身も蓋もなさに、ユウトは笑うしかなかった。
サッちゃんも、その横で少しだけ笑う。
「学校は……大変ですね」
「まあね」
メグミは肩をすくめる。
「でも、そういう“続くもの”があるのは悪くないよ。
事件が終わったあと、次の日にちゃんと持ち越されるものがあるってことだから」
その言葉は、妙に静かに効いた。
ノアがカップを置きながら、珍しく柔らかい声で言う。
「同意します。
平時が戻るというのは、面倒なものが戻ることでもあります」
ミナミが吹き出した。
「言い方」
「事実です」
「これから考えるよ、自分のこともこの家のことも」
サッちゃんはその返事に、以前のように大げさに慌てることはしなかった。
代わりに、近くのクッションを一つ持ってきて、何も言わず背中へ差し込む。
その動作が自然すぎて、ユウトは一瞬だけ何も言えなかった。
「……ありがとう」
ようやくそう言うと、サッちゃんはほんの少しだけ照れて笑った。
「はい。
今は、そのくらいならできます」
その言い方が、妙に優しかった。
夜。
家の中が静まり返った頃、サッちゃんは玄関へ降りた。
戸締まりの確認。
窓の鍵、勝手口、玄関の補助錠。
いつもの動作だ。
でも今日は、その一つ一つが以前より少しだけゆっくりしている。
玄関ホールの灯りの下で、ユウトが壁にもたれているのに気づいて、サッちゃんは少し目を丸くした。
「ご主人様。まだ起きてたんですか」
「なんとなく」
「その“なんとなく”で無理をするのは、もうだめです」
言いながらも、その声色はやわらかい。
ユウトは苦笑した。
「厳しいな」
サッちゃんも少しだけ笑った。
その笑いが落ち着くのを待ってから、ユウトが小さく聞く。
「……落ち着いた、サっちゃん?」
サッちゃんはすぐには答えなかった。
玄関の鍵に触れたまま、少しだけ考える。
「前は、“守らなきゃ”が先でした」
やがて、静かにそう言った。
「壊されたらだめだとか、ご主人様を危ない目に遭わせたくないとか、そういうのばかりで……ここにいるのに、いつも少しだけ戦ってる気がしてました」
ユウトは黙って聞いている。
急かさない。
今はそれが一番いい。
「でも今は……前より、ちゃんと“戻ってくる場所”に見えます」
サッちゃんはそこで少しだけ笑った。
「たぶん、あの時“おかえり”って言ってもらえたからだと思います」
それはまっすぐな言葉だった。
サッちゃんにしては珍しいくらい、遠回りしていない。
ユウトの方が、少しだけ言葉に詰まる。
戦いの最中より、こういう時の方が難しい。
「……そりゃ、帰ってきたからな」
ようやくそう返すと、サッちゃんは小さく頷いた。
「はい。
だから今度は、私もちゃんと“ただいま”って言います。
前みたいに、どこかで一人で抱えたりしないで」
その言葉の重さを、ユウトはちゃんと受け取った。
「うん。
その方がいい」
夜の玄関は静かだった。
でも、その静けさは前のような緊張の静けさじゃない。
もうちゃんと、家の静けさだ。
街の明かりが消える音が聞こえる気がした。
春休みは終わる。
でも、全部が終わるわけじゃない。
学校が始まる。
進路希望も出さないといけない。
リナは絶対にルールを増やす。
ノアは平然と学生を続ける。
メグミは次の季節の翻訳をする。
そしてサッちゃんは、家にいる。
それで十分だと、ユウトは思った。
【第46話・完】




