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第72話「誕生日が分からないなら、出会った日を祝えばいいじゃないですか」



 その通知は、朝比奈邸のリビングに、いつも通りの穏やかな午後が流れている時に届いた。


《通知。サッちゃんの朝比奈邸初回入館記録より、まもなく三百六十五日が経過します》


 天井スピーカーから響いたKAINの声に、ユウトは紅茶のカップを持ったまま顔を上げた。


「え、もうそんなになるんだ」


 隣でクッキーを食べていたメグミも目を丸くする。


「じゃあ、サッちゃんがユウトくんと出会って、もうすぐ一年ってこと?」


「そうなります」


 サッちゃんは背筋を伸ばし、いつものように真面目な顔で答えた。


「ご主人様の護衛任務を拝命してから、まもなく一年です」


「いや、そこは“出会って一年”でいいんじゃないかな」


 ユウトが苦笑する。


 リナは眼鏡を押し上げ、静かに頷いた。


「記録上も、朝比奈邸におけるサッちゃんの生活開始日と見ていいわね」


 ミナミはソファにだらしなく座りながら、にやっと笑う。


「一周年かあ。いいねえ、何かお祝いっぽいことしようよ?」


 その言葉に、メグミがぱっと顔を明るくした。


「それいい! ……あ、でもさ」


 メグミはそこで、ふと首を傾げた。


「そういえば、サッちゃんの誕生日っていつなの?」


 あまりにも普通の質問だった。


 だからこそ、リビングの空気が一瞬止まった。


 サッちゃんは紅茶を注ぐ手を止める。


「誕生日、ですか」


「うん。聞いたことなかったなって」


 ユウトも言われて初めて気づいた。


「確かに、俺も知らないかも」


「わたしは、ご主人様の誕生日であれば記録しています」


「いや、俺じゃなくてサッちゃんの」


 サッちゃんは少しだけ視線を落とした。


「正式な誕生日は、不明です」


 メグミが「あ」と小さく声を漏らした。


「ごめん。聞いちゃまずかった?」


「いえ。問題ありません」


 サッちゃんはいつものように背筋を正す。


「わたしには、登録日や任務開始日の記録はあります。しかし、それが生まれた日かどうかは分かりません」


 リナが静かに目を細めた。


「黒百合では珍しくないわ。出生記録より、登録日や配属日が優先されることが多かったから」


 その声は冷静だった。


 けれど、外から分析している声ではなかった。


 ミナミも、いつもの軽さを少しだけ抑えて言う。


「身寄りのない子とか、出自が曖昧な子は、組織的には扱いやすかったんだよね。いつ生まれたかより、いつ使えるようになったか。その方が大事にされる場所だった」


 メグミの表情が曇る。


「使えるようになったか、って……」


 ノアが静かにメモ帳を開いた。


「黒百合所属者の記念日は、登録日、任務開始日、コード付与日で管理されることが多いです」


 悪気のない、淡々とした声だった。


 だからこそ、メグミははっきりと言った。


「それ、誕生日じゃないよ」


 ノアは小さく首を傾げる。


「誕生日では、ない」


「うん。違うと思う」


 サッちゃんは黙っていた。


 自分の話なのに、どこか遠い資料を読んでいるような顔だった。


 ユウトは、その横顔を見た。


 サッちゃんは強い。

 明るい。

 いつも騒がしくて、任務だ作戦だと走り回っていて、朝比奈邸にいるのが当たり前みたいになっている。


 でも、その当たり前の前には、まだ知らない空白がある。


 誕生日が分からない。


 その一言だけで、サッちゃんが少し遠く見えた。


「……じゃあさ」


 ユウトは口を開いた。


「うちに来た日を、サッちゃんの誕生日にしようよ」


 サッちゃんが、ゆっくりとユウトを見る。


「ご主人様と、出会った日を?」


「うん。正確には誕生日じゃないかもしれないけど」


 ユウトは少し照れくさくなって、頬をかいた。


「でも、サッちゃんが朝比奈邸に来て、俺たちと出会って、ここで暮らし始めた日なら……祝ってもいいんじゃないかなって」


 メグミの顔がぱっと明るくなる。


「それ、いい!」


 リナも静かに頷いた。


「合理的ね。出生記録が不明である以上、現在の生活の起点を記念日とするのは妥当だわ」


「リナさん、言い方は事務的だけど賛成なんだね」


「賛成よ」


 ミナミが笑う。


「黒百合では登録日。朝比奈邸では出会った日。うん、こっちの方がずっといい」


 その時、KAINの声が響いた。


《提案。朝比奈邸初回入館日を、サーシャ様の記念日として登録可能です》


 ユウトは少しだけ考えてから、言った。


「記念日じゃなくて、誕生日で登録して」


《確認。サッちゃんの誕生日として登録しますか》


 サッちゃんが小さく息を呑む。


 ユウトはサッちゃんを見た。


「サッちゃんが嫌じゃなければ」


 サッちゃんはしばらく黙っていた。


 そして、胸に手を当てる。


「嫌では、ありません」


 声は小さかった。


「ただ……わたしが祝われる理由が、よく分かりません」


 メグミが優しく笑った。


「理由なんて、サッちゃんがいてくれるからで十分だよ」


 リナも言う。


「日頃の業務への感謝も含めれば、理由は多すぎるくらいね」


 ミナミが指を立てる。


「朝比奈邸の騒動発生率を上げてる功績もあるし」


「それは功績なのでしょうか」


 ノアが真面目に聞いた。


「そこは記録しなくていいよ」


 ユウトが苦笑する。


 サッちゃんは、みんなを順番に見た。


 少しだけ困ったような顔をしている。

 でも、その青い目の奥は、どこか嬉しそうだった。


「では……わたしは、その日を、誕生日として受け取ってもよろしいでしょうか」


「もちろん」


 ユウトが答える。


 KAINの声が続いた。


《登録しました。サッちゃんの誕生日を、朝比奈邸初回入館日に設定します》


 サッちゃんは深く一礼した。


「ありがとうございます。ご主人様。皆さん」


 その日のリビングは、いつもより少しだけ静かで、少しだけ温かかった。


     ◇


 翌日から、朝比奈邸では秘密の作戦会議が始まった。


 もちろん、サッちゃん本人には内緒である。


 リナはホワイトボードの前に立ち、真剣な顔で言った。


「第一回、サッちゃん誕生日会準備会議を開始します」


 メグミが小さく拍手する。


「いえーい」


 ミナミも手を上げた。


「誕生日会用演出装置、試作案が三つあるよ」


「却下」


 リナが即答した。


「まだ内容言ってない」


「爆発、発光、煙、浮遊、回転のいずれかが含まれるなら却下よ」


「全部ちょっとずつ入ってる」


「なおさら却下」


 ユウトは苦笑しながらメモを取った。


「まず、ケーキとプレゼントだよね」


 メグミが頷く。


「ケーキは私が見てくるよ。サッちゃん、甘いもの好きだし、見た目も華やかな方がいいと思う」


 ノアがメモ帳に書き込む。


「先輩の好きなもの。ご主人様、紅茶、肉料理、掃除道具、訓練、勝利」


「誕生日プレゼントの候補としては、後半が難しいね」


 ユウトが言う。


 リナは腕を組んだ。


「実用的なものなら、手袋やヘアリボン。記念品なら、写真立てや小物入れも良いわ」


「写真立て、いいかも」


 メグミが言った。


「誕生日会の日に、みんなで写真撮って入れようよ」


 ユウトは頷いた。


 高価なものより、朝比奈邸に来てからの時間を感じられるもの。

 その方が、サッちゃんには合っている気がした。


「じゃあ、プレゼントはヘアリボンと写真立てにしよう」


 リナが頷く。


「妥当ね」


 ミナミが再び手を上げる。


「音声再生機能付き写真立ては?」


「普通のでいい」


 ユウトとリナの声が重なった。


 メグミが笑う。


「サッちゃんにとっては、普通に祝われるのが一番特別なんじゃない?」


 その言葉に、全員が少しだけ黙った。


 ノアは静かにメモへ書き込む。


「方針。普通に、特別に祝う」


「ノアちゃん、それすごくいい」


 メグミが言った。


     ◇


 問題は、サッちゃんに隠し事をすることだった。


 サッちゃんは基本的に素直だが、護衛対象であるユウトの周辺変化には敏感である。


 ユウトがスマホでケーキ屋を検索していると、すぐに背後から声がした。


「ご主人様。何を確認されているのですか」


「うわっ」


 ユウトは慌てて画面を伏せた。


「な、何でもないよ」


「何でもない時のご主人様は、そこまで慌てません」


「観察が鋭い」


 サッちゃんはじっとユウトを見る。


「もしかして、危険情報ですか」


「違う違う」


「では、わたしにも共有を」


「これは、まだ共有できないというか」


 サッちゃんの表情が真剣になる。


「機密作戦ですか」


「まあ、ある意味」


 サッちゃんは姿勢を正した。


「承知しました。ご主人様の機密作戦であれば、わたしは詮索しません」


「助かる」


「ただし、危険がある場合は即座に介入します」


「危険はないよ」


「では、安心しました」


 サッちゃんは一礼して去っていく。


 ユウトは大きく息を吐いた。


 柱の陰から、メグミが顔を出す。


「危なかったね」


「すごく危なかった」


「サッちゃん相手にサプライズって、難易度高くない?」


「高いと思う」


 さらに天井近くからノアの声がした。


「現在、サッちゃん先輩の警戒度が二段階上昇しています」


「ノアちゃん、どこにいるの」


「記録上、秘密です」


 メグミは小声で言った。


「この屋敷、サプライズに向いてないね」


     ◇


 準備の買い出しには、ABELが使われた。


 ユウトがこっそり玄関を出ると、青い車体のAI車が静かにライトを点ける。


《目的地をケーキ店に設定します》


「ABEL、サッちゃんには内緒で」


《了解しました。目的地名を“通常外出その一”に偽装します》


「逆に怪しい」


《では、“特に問題のない通常外出その一”に変更します》


「もっと怪しい」


 結局、ABELの表示は「買い物」に落ち着いた。


 ケーキの予約確認。

 青いヘアリボン。

 小さな写真立て。


 用事自体は、驚くほど普通だった。


 けれど、ユウトは紙袋を抱えながら、少しだけ照れくさくなった。


「喜んでくれるかな」


《肯定。サーシャ様の感情反応は高確率で好意的と推測されます》


「そういうの分かるの?」


《朝比奈邸におけるサッちゃんのご主人様関連反応データより算出》


「そのデータ、本人には言わないでよ」


《秘匿設定に登録しました》


 ユウトは窓の外を見た。


 もうすぐ一年。


 出会った頃のサッちゃんは、何もかもを任務として受け止めていた。

 今もそれは変わらない部分がある。


 でも、今のサッちゃんは、笑う。照れる。怒られる。失敗する。

 そして、朝比奈邸のみんなの中にいる。


 誕生日を祝う理由なんて、それだけで十分だった。


     ◇


 誕生日会の前日。


 朝比奈邸のリビングには、まだ飾りつけ前のリボンや紙飾りが並んでいた。


 ユウト、リナ、メグミ、ミナミ、ノアは、最後の確認に追われている。


「ケーキは明日午前中に到着」


「プレゼントはユウトくん担当」


「飾りつけはノアちゃん、気配を消してやりすぎない」


「了解しました。発見可能な範囲で装飾します」


「装飾に発見可能とかあるんだ」


 ミナミは小型装置を机に置いた。


「じゃあ、この祝砲装置を」


「使わない」


 リナが即答した。


「爆発しないよ?」


「名前がもう危険よ」


 その時、ドアの前で足音が止まった。


「……皆さん」


 サッちゃんの声だった。


 室内の全員が固まる。


 机の上には、飾りつけ用の道具。

 紙袋。

 そして、ミナミの祝砲装置。


 隠しきれる要素は、一つもなかった。


 ユウトは冷や汗をかく。


「えっと、これは」


 サッちゃんは部屋の中を見回した。


 それから、静かに頷く。


「ご主人様の機密作戦ですね」


「……そうです」


 メグミが小声で言う。


「敬語になった」


 サッちゃんは、少しだけ微笑んだ。


「わたしは、何も見ていません」


「サッちゃん」


「明日、正式な作戦開始時刻まで待機します」


 リナが小さく息を吐く。


「気づいていたのね」


「はい。皆さんがここ数日、少しだけ楽しそうに隠し事をしていましたので」


 ユウトは言葉に詰まった。


 サッちゃんは胸に手を当てる。


「ですが、それがわたしにとって悪いことではないと分かりました。ですので、見なかったことにします」


 メグミが柔らかく笑った。


「サッちゃん、明日楽しみにしてて」


 サッちゃんは少しだけ目を伏せた。


「はい」


 その声は、とても小さかった。


「楽しみに、しています」


 そう言って、サッちゃんは静かに部屋を出ていった。


 ドアが閉まる。


 リビングに、ほっとした空気が流れた。


《確認。サプライズ作戦の秘匿性は低下しています》


「KAIN、今それ言わなくていい」


 ユウトが言うと、KAINはいつも通り淡々と答えた。


《補足。対象者は作戦内容を一部把握しつつ、未確認として扱う意思を示しました》


 リナが小さく笑う。


「つまり、サッちゃんも協力してくれているのね」


 メグミが頷いた。


「祝われる準備をしてくれてるんだ」


 ユウトは、閉まったドアの方を見た。


 誕生日が分からないサッちゃん。


 でも、明日からはきっと違う。


 黒百合では、登録日や任務開始日が記録された。

 朝比奈邸では、出会った日を祝う。


 彼女がここに来た日。

 ユウトと出会った日。

 みんなで、それを祝う日。


 その日が、サッちゃんの新しい誕生日になる。


 机の上で、青いリボンの入った紙袋が、夕方の光を少しだけ受けていた。


【第72話・完】


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