1 私なんかに頼まないで下さい
「アリシア、少しいいか?」
ローバリウス国王子シヴィラ・ローバリウスの声が背後から聞こえ、メイドのアリシア・ユーフォルは宮殿の長い廊下で足を止めた。肩まで伸びた黒髪が揺れる。
振り返るとシヴィラが自室の扉の隙間から手招きしている。
「はい?」
不思議に思いつつもアリシアはシヴィラへ向かった。
「部屋の中へ」
小さな声で指示され、アリシアは部屋へ入る。部屋の清掃や給仕などのために何度も入った恐ろしく広い王子の部屋。灯りは点いていない。
シヴィラが顔だけ廊下に出し、首を振っている。アリシアはその背中を無言で見ている。誰かに見られていないか確認しているようにアリシアには見えていた。
「ふう……」
誰もいなかったのか、安心したように息を吐くとシヴィラは静かに扉を閉めた。振り返り、目の前のアリシアを見下ろす。
廊下から差し込んでいた光が遮断され、部屋の中は更に薄暗くなる。その薄暗い中でもシヴィラ王子の美しさ――、切れ長の目が印象深い色白の顔も、金色に輝く長髪も、靭やかな全身のプロポーションもアリシアの目には眩しく映る。
「アリシア……、その……、アレだ」
普段、何もかもはっきりと口にするシヴィラとは思えない歯切れが悪い口調と小さな声にアリシアは戸惑う。自己肯定感が低いアリシアに悪い想像が走る。
(何か私、シヴィラ様のご機嫌を損なうことをやってしまった? まさかこの場でお暇を出されてしまうの?)
しかし、アリシアには心当たりがない。可能な限り、過去の行動を思い出してみたが「シヴィラの機嫌を損ねる行動」をした記憶がない。
(そもそも王子の機嫌を損ねたら、その場で馘になるだろうし……)
そんなことを考えてるアリシアの目を見ながら、シヴィラは話を続ける。
「この屋敷に来てそろそろ三年だろう。アリシア、女性に年齢を訊くのは抵抗があるが幾つになった?」
「……はい、21才になりました」
「そうか。いつも私を支えてくれてありがとう。なかなか伝える機会もないが感謝している。勿論アリシア以外のメイドにもだが」
アリシアはますます困惑している。
どうやら馘ではなさそうだという安心感。
日頃の感謝を告げられた喜び。
しかし、まだ「本題」には入っていないと感じる不安。
これらが混ざり合いアリシアを混乱させている。
そして、この混乱のもう一つの理由――
(近い……。本当に近すぎる。シヴィラ様は何とも思わないだろうけど、こんなに近くにいると緊張して胸が苦しい)
過去三年間、こんな距離でアリシアとシヴィラが話をしたことはない。
「アリシアが部屋の掃除をしながら、机で読書をしているシヴィラの横顔を盗み見て頬を染める」程度の距離が二人の日常だった。
アリシアにとって、この23才の美しい男性は「眺めているだけで幸せ」どころではなく「眺めることを許されるのが奇跡」と思える存在。今の状況はアリシアにとって甘い地獄となっている。
アリシアが無意識にメイド服の一部、白いエプロンの裾を握りしめ、皺が入る。自分の鼓動がシヴィラに聞こえるのではないかと不安になる。
「ここからが本題なんだが」
今まで以上に真剣な面持ちになったシヴィラが、アリシアに顔を近付けた。
「本題」という言葉にアリシアは気を引き締める。この混乱した集中力皆無の頭では、シヴィラが今からしようとしている大切な話を理解出来ないから。
「……はい、なんでしょうか?」
アリシアの強い光を宿した眼差しにシヴィラは覚悟を決めたのか、淡々と話し始めた。
「私の婚約披露パーティーが明日の夜、開催されるのは知っているな?」
「はい、勿論です。そのための準備を今もメイド総動員でやっております」
アリシアは胸に小さな痛みを感じながら答えた。「失恋の痛み」と言うには余りにも何もなかった痛み。余りにも距離が離れた痛み。
シヴィラ・ローバリウスが隣国カナギルのサラサ王女と婚約したことは、周知の事実。その披露パーティーが明日開かれる。当然、近隣諸国からも多くの来賓を迎える。
「で……、だな。結論から言うと私は婚約破棄するつもりだ」
「えええ!?」
「おっ、大きな声を出すんじゃない。廊下に漏れる」
よほど慌てたのかシヴィラが右手でアリシアの口を塞いだ。
「んん……っ」
そのくぐもった声にシヴィラは手を離した。頭をアリシアへ下げる。
「すまない。女性に対して非常識な行動だった」
アリシアは大きく息を吐く。
「……別にいいです。気にしないで下さい。シヴィラ様なら構いません」
「いや、思慮不足で軽率だった。すまない」
シヴィラは咳払いを一つした。話が本題に戻る。
「誰もが知っているが、この結婚は完全な政略結婚だ。自分の立場を考えるとそれも受け入れるべきなのは分かっている。私は半ば諦め、半ば無理矢理納得していた。三日前にサラサと会うまでは」
「今はお気持ちが揺らいで、婚約を破棄しようと思われている……?」
「そうだ。この決心を私にくれたのはサラサだ。彼女自身からこの政略結婚――、親に駒の一つとして使われる結婚には納得していないと告げられた」
「サラサ様が……!?」
シヴィラは小さく頷く。
「だがな、ここまで様々な権力や利権や思惑が絡み合うともう……、我々二人の意思など意味がないんだ」
「ではどうするおつもりですか?」
「披露パーティーの真っ最中に、私がサラサではない女性を隣に立たせ『実はサラサではなくこの女性を愛している。この女性と結婚したい』と多くの来賓の前で宣言してしまえば、さすがに全て破談になる。サラサも怒り、呆れ、泣き崩れる演技をする予定になっている」
シヴィラの説明にアリシアは一応の納得をした。
シヴィラが話を続ける。
「アリシア、この謀り事には大きな穴がある。『私が愛している女性役』の女性がいないんだ」
「はい。確かにそうですね」
「そう、誰かがこの役をやらなければならないんだ」
シヴィラが再び頭を下げる。先ほどより深く。
「まっ……、まさか……」
「頼む」
一拍遅れてアリシアはシヴィラの言葉を正確に理解した。理解した瞬間、元々火照っていた顔が更に赤く染まる。
大きな声が出せない代わりに、アリシアは頭を大きく横に何度も振った。美しい黒髪が揺れる。
「無理です……! いや、無理ですよ。そんなの無理です。そんな大役、私なんかに頼まないで下さい。無理ですから」
「気が進まないのは私も分かっている。分かった上で頼んでいるんだ。頼む。黙って私の隣に立っていてくれればいいんだ。一度破談になってしまえば、後は私が全て責任を取る」
「いえ、ですから……、それに私なんかよりも適任な美しいメイドはこの屋敷にたくさんいるじゃないですか。何故、私なんですか?」
そのアリシアの問いかけにシヴィラは顔を背けた。答えるのを拒否しようとしている様にアリシアには見えた。
数秒後、横を向いたままシヴィラが答えた。
「……直感で君を選んだ。すまない。上手く説明出来ない」
「直感……?」
再びシヴィラが、アリシアへ顔を向けた。アリシアの目を真っ直ぐ見る。
「この計画を考えていたとき、何故か私の隣に立っている女性に君が浮かんだんだ。君じゃないと上手くいかない気がしてならない」
その言葉にアリシアは目を見開いた。切れ長のシヴィラの瞳が、大きな瞳に映り込む。
「そ……、そんなこと言われたら……」
「頼む。仮に失敗したとしても君に迷惑はかけない。恥もかかせない。私が君を守る」
「もっ……、もうやめて下さい。分かりましたから……!」
その言葉にシヴィラが息を呑んだ。
「いいのか!?」
アリシアが赤い顔を下に向け、応える。
「分かりました。私なりに頑張ってみますから。……これ以上、ここでシヴィラ様のお話を聴いていたら、明日になる前に私は死んでしまいそうです」




