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Bell Cat ~聖天使猫姫物語~  作者: 栞那りあ(neneko)


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第1話:ひび割れた鈴と、神の涙

挿絵(By みてみん)

 冷たく、硬い岩肌に、しとどに滴る水音が反響していた。

 底知れぬ深さを持つ洞窟の奥、這うような冷気が足元をすり抜けていく中、わずかな光が揺れている。

 魔女見習いの少女カレンは、その心細い光だけを頼りに、暗闇をひたすらに進んでいた。すりむいた膝が痛み、薄いローブを通して伝わる魔界の冷酷な空気が、彼女の体温を容赦なく奪っていく。


「ここを抜ければ……きっと人間界に戻れるはず」

 震える唇でそう呟き、自分自身に言い聞かせるように信じて。


 けれど、出口にあると思ったその光は、外の世界から差し込む太陽の光ではなく、岩肌に掲げられたたいまつの炎だった。

 パチ、パチと爆ぜる炎。その前に立っていたのは、ひとりの青年だった。

 艶やかな黒髪と、底知れぬ深さを湛えた翡翠のような瞳。人間に似た姿形をしていながらも、その身から放たれる圧倒的な魔力と、どこか死を連想させる異質な気配が、彼が人間ではないことを雄弁に物語っている。


「……人間?」

 青年が小さく呟いた。その声は氷のように冷たく、けれどどこか酷く寂しげな響きを帯びていた。


 カレンは思わず足を止めた。胸の奥で本能的な警鐘がガンガンと鳴り響く。彼がただの人間ではない、もしかしたら一瞬で自分の命を奪いかねない存在だと直感したからだ。

 だが、カレンは逃げ出さなかった。炎に照らし出された青年の翡翠の瞳に映った「深い孤独の色」が、恐怖よりも先に彼女の心を強く揺さぶったのだ。


「僕はエリック。魔王の……いや、養子だ」

 自嘲気味に、吐き捨てるように名を告げる青年。


 その瞬間、カレンの運命は静かに狂い始めていた。

 淀んだ洞窟の闇と、揺らめく炎のあかりの中で、二人の視線は静かに絡み合う。

 ——この出会いが、やがて幾つもの命と時代を越えて語り継がれる、壮絶な悲恋の始まりだとは知らぬまま。


「……養子?」

 カレンは戸惑いながら、思わず聞き返した。

 エリックは微かに笑った。けれどそれは、微笑みというにはあまりにも痛みに満ちた、傷ついた獣のような歪な形をしていた。

「魔族の中で僕の居場所はない。母上……魔王は僕を息子と呼んでくださるけれど、血は繋がっていない。周りの魔族たちからは忌み子として蔑まれている。だから、だだっ広い城にいても、息が詰まるんだ。……こんな暗く冷たい洞窟の方が、よっぽど息がしやすい」


 彼はたいまつを岩壁にかざし、カレンに道を示すようにゆっくりと歩み寄る。

 その影が大きく壁に揺れるたび、恐ろしい魔族であるはずの青年が、ひどく不器用で、傷つくことを恐れるただの「人間」のように見えた。


 カレンの胸が、ざわめく。

 それは恐れではない。むしろ、孤児として育ち、誰にも必要とされずに魔女見習いとして下働きをしていたカレン自身の心の奥に眠っていた「寂しさ」に、そっと触れられたような感覚だった。


「わたしも、帰る場所を探しているの」

 気づけば、思わずそんな言葉がこぼれ落ちていた。


 エリックの目がわずかに見開かれた。

 張り詰めていた彼の翡翠の瞳に、初めてあたたかい光が宿る。


「……君は、人間界に帰りたいのか」

「うん。でも、どこに帰ればいいのか、本当はよくわからないの」

「けれど、この洞窟の先は……」

 そこから先は魔獣が巣食う死の谷だと言いかけて、エリックは黙り込んだ。この華奢な人間の少女を、一人で死地へ向かわせることなどできないと、彼の心の奥底の優しさがブレーキをかけたのだ。


 二人を包むのは、炎の揺らめきと、静かな水滴の音だけ。

 その時、カレンの視線が、たいまつに照らされた水際の一点に止まった。生命を拒絶する死の土壌であるはずの岩の隙間から、ひっそりと、けれど信じられないほど力強く咲いている、青白い一輪の花。


「エリック……見て、魔界にもこんなに綺麗な花が咲くのね」


 カレンはしゃがみ込み、そっとその花びらに触れ、振り返って無邪気に微笑んだ。

 暗く、冷たく、ただ死を待つだけだったエリックの閉ざされた世界に、初めて「生きた温かい光」が差し込んだ瞬間だった。

 不思議なことに、これ以上言葉を重ねずとも互いの孤独がじんわりと響き合い、心の距離はほんの少しだけ縮まっていった。


 ——このささやかな出会いが、やがて理不尽な死という別離を迎え、それでもなお時代を越えて繋がる永遠の絆になることを、二人はまだ知らない。

 そして、彼らの運命の続きは、遥かなる未来へと託されることになる。



「……あんたさえ生まれなければ、お母さんは死なずに済んだのに」


 ピシャリと、冷たい言葉の刃が突き刺さる。

 夕暮れ時の薄暗い子供部屋。どこかの家から夕飯のカレーの匂いが漂ってくるような、ありふれた現代の夕暮れ。

 14歳の藤城莉鈴ふじしろりりんは、ベッドの上で両膝を抱え、ただじっと床の木目を見つめていた。


 部屋の入り口に立っているのは、3歳上の姉、鈴音すずねだ。手には受験用の分厚い参考書が、指の関節が白くなるほど強く握られている。迫り来る受験のプレッシャーと日々のストレスで余裕をなくした彼女の鋭い視線が、りりんの心を容赦なく射抜く。


「お母さんがいなくなったのは、あんたのせいよ。あんたが生まれたから……!」

「…………」


 りりんは何も言い返さなかった。唇を血が滲むほど強く噛み締め、嵐が過ぎ去るのを待つようにただじっと息を潜める。反論しても無駄だということは、これまでの14年間で骨の髄まで思い知らされている。

 自分がこの世に生まれたことと引き換えに、母親が命を落とした。それは、りりんの心に深く深く根を張り、呼吸をするたびに胸を締め付ける「消えない呪い」だった。


(私は、生まれてこない方がよかったのかな……。誰も私を望んでいなかった。誰の役にも立たない、迷惑なだけの存在……)


 ドンッ!とドアが乱暴に閉められる音を聞きながら、りりんはゆっくりと目を閉じた。

 本来は素直で明るかったはずの心に、何重もの重い鍵をかけて、誰にも触れられない深い底へと沈めていく。そうやって感情を殺さなければ、自分の存在意義を保てず、心が完全に壊れてしまいそうだったからだ。


 そんなりりんの暗闇の世界における唯一の救いは、隣の家に住む同い年の幼馴染、海斗かいとと、その母親である真鈴まりんの存在だった。

 特にまりんは、母親のいない藤城家の事情を深く察し、いつもさりげなくタッパーにおかずを詰めてお裾分けしてくれたり、傷ついたりりんの頭を優しく撫でてくれたりした。海斗も口こそ悪いが、姉に怒られて外で泣いていると、黙って隣に座ってくれるような不器用な優しさを持っていた。


(まりんさんや海斗のところへ行けば、少しは息ができるのかな。……でも、駄目だ。お姉ちゃんの言う通り、私はもう、誰の迷惑にもなりたくない)


 りりんがぎゅっと目を閉じ、シーツを握りしめながら暗闇の中で自分の存在価値を完全に見失いかけた、その瞬間。


『――りりん。聞こえるかい、りりん』


「え……?」


 耳からではなく、頭の中に直接、優しく澄んだ声が響いた。

 間違いなく、隣のまりんの声だ。しかし、いつもエプロン姿で「りりんちゃん、お醤油足りてる?」と笑いかけてくれる日常の彼女の声とは違う。どこか神聖で、途方もなく深い悲しみを帯びた響き。


『辛い現実から、あなたを奪ってしまうようで心苦しいけれど……。どうか私の声に、その心を委ねておくれ。あなたにしかできないことが、あるのです』


 呟きと同時に、りりんの胸元がカッと熱を帯びた。

 服の隙間から、ずっと大切に身につけていた「ひび割れた古い銀色の鈴」が転び出る。いつから持っていたのか、なぜこんなガラクタに執着しているのか自分でも分からない、けれど魂の底からどうしても手放せなかった古い鈴。


 その鈴が、チリン、と清らかな音を立てた。

 次の瞬間、夕暮れの薄暗い部屋の景色が眩い純白の光に飲み込まれ、りりんの身体は重力を失って、羽毛のようにふわりと浮き上がった。



 恐る恐る目を開けると、そこは見たこともない、息を呑むほど美しい世界だった。

 足元には大理石のように滑らかで純白の床が果てしなく広がり、周囲には柔らかな朝焼けのような雲海と、どこまでも青く透き通った天空が広がっている。頬を撫でる風は甘く清らかで、呼吸をするだけで胸の淀みが浄化されていくような、神話に出てくるような静謐な空間――天界。


「ここは……?」

 りりんが戸惑いながら声を漏らすと、周囲にも同じように光に包まれて現れた少女たちの姿があった。


「ちょっと、何ここ!? 中華街じゃないよね!? 私、出前の途中だったんだけど!」

「めいりん、落ち着いて。……周りを見て。私たちだけじゃないみたいよ」

 エプロン姿のまま目を白黒させている東川明鈴ひがしかわめいりん(13歳)と、パニックになる妹の肩を抱いて嗜める、しっかり者の姉・鈴珠りんじゅ(15歳)。


 さらに少し離れた場所には、見目麗しい双子の少女が立っていた。

「なんだよここ、どういう状況? 私、明日の現場の図面引いてたんだけど」

 作業着姿の冬堂鈴華とうどうりんか(18歳)が男勝りな口調で警戒を露わにし、そのたくましい腕を、華やかな私服姿の花鈴かりん(18歳)が不安そうにきつく握りしめている。


「みんな、突然こんな場所に呼び出してしまって、本当にごめんなさい」


 静かな声と共に、空間に金色の光の粒子が集まり、一人の女性が姿を現した。


「まりんさん……!」

 りりんが弾かれたように声を上げる。そこにいたのは、いつもエプロン姿で世話を焼いてくれる隣のおばさん――ではなく、神聖な純白の衣を纏い、背中に淡い光の羽を宿した、神の付き人としての真鈴の姿だった。


「私の本当の役割は、地球の神であらせられる方の付き人。……さあ、皆の者、前へ」


 まりんが厳かに一歩引くと、天界の奥から、まばゆい後光と共に、慈悲深い神が姿を現した。

 その神々しくも優しい姿を見た瞬間、なぜか少女たち5人の胸の奥で、甘く懐かしい記憶がふわりと蘇った。


『ねえ、神様じゃ堅苦しいから、今日からキャミィ様って呼んでもいい?』

『キャミィ様、今日は私が一番にお話しする番よ!』

『ふふっ、みんな順番に、私の隣にいらっしゃい』


 それは、遥か昔の記憶。

 彼女たちはかつて、ただ神に寄り添い、花を編み、交代で楽しくお喋りをするだけの、お気楽で平和な5姉妹のプリンセスだったのだ。


 しかし今、彼女たちの目の前にいる神――キャミィ様の瞳からは、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちていた。


「ああ……愛しき、私のかわいい姉妹たち。再びこうして、お前たちに会える日をずっと夢見ていた……」

震える声で、キャミィ様は冷たい大理石の床に膝をつき、深く頭を下げた。万物を統べる神が、人間の少女たちに向けて。


「お前たちはかつて、人間の愚かな争いに巻き込まれ、理不尽に命を落としてしまった。私はただ祈ることしかできず、お前たちを救えなかった。……けれど私は、『もう一度、あの子たちの笑顔が見たい』と、神にあるまじき強い我欲を抱いてしまったのだ」


 その強い願いが理を曲げた。彼女たちはどういうわけか一度「猫」としてこの世に生を受け、数奇な運命を辿りながら、今、再び人間として現代に集結したのだ。


「だが、許しておくれ。私のわがままでお前たちの魂を呼び戻しておきながら……じきに、魔界からこの地球への侵略が始まる。祈ることしかできぬ無力な私は、平和を愛したお前たちを、再び過酷な戦場に立たせねばならぬのだ……! 本当に、すまない……!」


 地に額を擦りつけるようにして泣き崩れるキャミィ様。

 その痛切な懺悔と、彼女たちへ向けられた圧倒的な「愛情」を目の当たりにして、りりんの心は激しく震えた。


(キャミィ様は、私たちのために泣いてくれている。私たちに会いたいと、強く願ってくれたんだ……!)


 家では「お前はいるだけで迷惑だ」と罵倒され続け、ただ息を潜めて生きてきた。

 けれど今、目の前にいる神様は、自分を心から愛し、必要としてくれている。自分たちのために、泣いてくれている。自分という存在が、誰かの心の中にこんなにも大きく存在していることに、りりんは涙が溢れそうになった。


「……泣かないで、キャミィ様」


 気づけば、りりんは一歩前に踏み出していた。

 ひび割れた古い鈴を両手で包み込むように握りしめ、キャミィ様を真っ直ぐに見つめる。


「私、戦います。誰の迷惑にしかならない、何もない私でも……キャミィ様や、みんなの役に立てるなら!」


 りりんの力強い言葉に弾かれるように、りんじゅ、めいりん、りんか、かりんも、互いの顔を見合わせて力強く頷いた。


「私もやるわ。キャミィ様を泣かせる奴は、私が全員ぶっ飛ばしてやる!」りんかが拳を鳴らす。

「そうね。私たちの大切な世界、勝手にはさせないわ」かりんが優しく微笑んだ。


 その瞬間、彼女たちの胸元にあった古い鈴が眩い光を放ち、ひび割れが修復されていく。そして、それぞれの名を刻んだ真新しい「美しい銀色の鈴」へと姿を変えた。


「ありがとう……ありがとう。魔族が現れた時、その鈴に強く願うのじゃ。お前たちの魂の奥底に眠る、本当の力が目覚めるであろう」


 キャミィ様の涙越しの微笑みと、まりんの切実な祈りを背に受けながら、5人の少女――「ベルキャット」は、再び光に包まれ、現代の地球へと送り出されていく。

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