第5話 二度目のナイフ
四日目の夜、彼女はまた来た。
今度は、寝入りを待つような甘さはなかった。深夜、寝室の扉が音もなく開き、白い影がまっすぐにベッドの脇へ歩いてくる。
頭上の数字――殺意は、九十四。
手にした短剣は、初夜に月明かりへ光らせていたものとは違う。刃に薄く油が塗られている――月光を反射させないための、暗殺者の知恵だ。今度こそ確実に終わらせるつもりらしい。
俺は、寝たフリをやめた。
目を開け、刃を構えるシャルロッテを、まっすぐに見上げる。
「眠れないのか」
「……っ」
彼女の手が、止まった。
暗殺者にとって、対象に気づかれることは失敗だ。本来なら即座に踏み込むべき場面。なのに、シャルロッテは刃を振り下ろせずにいた。
彼女の指が、白くなるほど柄を握りしめている。肩が小刻みに上下していた。
「もう三度目だぞ」
俺は身を起こした。刃の数字が、びくりと跳ねる。
「初夜の毛布、今朝の毒。今夜のそれで、三度目だ。――手際がいいのか、悪いのか、わからないな」
「……知って、いたの」
「最初から」
シャルロッテの顔が目に見えて強張った。
短剣の切っ先が、わずかに下がる。ほんの爪の先ほど。それでも、訓練された暗殺者の手にはありえない乱れだった。
「じゃあ、なぜ生かしているの」
「君が、まだ刺していないからだ」
「刺せば、終わるわ」
「ああ。今なら届く」
俺は首筋を指で示した。刃まで、指三本。初夜よりも近い。
彼女の喉が、小さく上下した。
時間が、止まった。
刃は俺の喉元、目と鼻の先にある。彼女がその気になれば、今この一瞬で全部を終わらせられる距離だ。
なのに、シャルロッテは動かない。
いや、動けなかった、という方が正しいのだろう。
彼女は、刃を握ったまま、ただ俺を見下ろしていた。その瞳が揺れている。怒りでも殺意でもない、もっと混乱した何かで。
窓の隙間から入る夜気が、燭台の火を細く倒した。壁に伸びた彼女の影だけが、短剣を振り上げたまま震えている。
頭上の数字が、動いた。
『殺意 89』
九十四から、五。
初夜の三より大きい。だが、それでもまだ、人を殺すには十分すぎる高さだ。
シャルロッテは、はっと息を呑んだ。まるで、自分の中で何かがほどけたことだけは、彼女にもわかったみたいに。
そして――刃を、引いた。
「なぜ、刺さないの」
俺は、わざと聞いた。意地が悪い、とは思う。
「あなたこそ、なぜ……」
彼女は言葉に詰まった。短剣を鞘に戻し、よろめくように後ずさる。
「なぜ、抵抗しないの。わたしが、あなたを殺しに来たと、知っていて」
「さあ。君が震えていたから、じゃ駄目か」
「駄目に決まってる……!」
彼女は、ほとんど逃げるように、寝室を出ていった。
扉が閉まる。俺は一人、暗い天井を見上げる。
九十四が、八十九。
数字は確かに下がっている。だが、あの鉄の刃はまだ溶けていない。明日も明後日も、彼女はまた暗闇から現れるだろう。
――それでいい。
俺はなぜか、急ぐ気になれなかった。




