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第31話 距離保持令

 王都ヴェルニカの議事堂は、床が人の影を映すほど磨き込まれていた。


 こういう場所が、俺は昔から好きになれない。きれいな床ほど、その下に汚いものが埋まっている――廃物伯爵(はいぶつはくしゃく)を何年もやってきた俺の、経験則だ。辺境の議事堂の床にはいつも干し草と泥の足跡が散らばっていたが、あそこには俺を殺したがる人間はいなかった。王都の床は人の影を映し、映し出すのはどれもこれも、笑みの裏に刃を隠した連中ばかりだ。


 堂内には甘ったるい香が焚かれていた。中央貴族の好む乳香と没薬の混じった匂いだ。辺境で香料といえば、傷の腐臭をごまかすために使う。ここでは、人の心の腐臭をごまかすために使う。用途は同じで、口実だけが違う。壁には歴代枢機の肖像が掛かり、どの顔も慈悲深く、どの目も入ってくる者を追っていた。数えてみると、十二人。十二人の死人が、生きた人間の見張りを引き受けている。


 決戦からここまで、十日目だ。俺たちは護送同然に王都ヴェルニカへ「ご招待」され、毎夜、教会の用意した客館に泊められ、毎食、誰かが「相伴」についた。相伴とは名ばかりで、表情ひとつ変えない執事が卓の角に座り、一言も発さず、こちらが一口ずつ飲み込むさまを見つめる。まるで物を噛むその顔つきから、異端の綻びを噛み出そうとでもいうように。審判まで、あと十三日。この十三日のあいだ、中央には腐るほど時間がある。縄を一巻きずつ、俺たちの首に巻きつけていく時間が。急がず、緩めず、こちらにそれが締まっていく様子を、まざまざと見せつけながら。


 モルガン伯は長卓の反対端に座り、指を組み、温和な笑みを浮かべていた。背中に刃を刺す手ほどきでもしてくれそうな笑みだ。この中央貴族の名は、かねがね聞いている――名目上は教会の審判を「補佐」しに来たことになっているが、その実、辺境のあの土地に目をつけて久しい。辺境は貧しいが、北境へ通じる咽喉に位置している。のし上がりたい中央貴族なら、夢にまでこの門の閂を握りたがる。俺はこの目――教会の台帳が天秤眼(てんびんがん)と呼び、世間は数値視(すうちし)としか呼ばないこの目で、男の頭上を撫でた。


『好感 3』

『殺意 0』

『嘘 81』


 好感三、殺意零、嘘は八十一まで積み上がっている。お前を好きでも殺したくもないくせに、口は嘘で満杯――そういう人間が狙うものは、ただ一つ。お前の身につけている何かだ。俺を恨んでなどいない。恨む必要もない。男の目に、俺はおそらく恨む価値すらない、あの土地の前に立ちはだかる、いずれ片付けられる垣根にすぎない。垣根に恨みを抱く者はいない。人はただ、それをどう跡形もなく取り払うかを算段するだけだ。


 この手の頭上は、嫌というほど見てきた。公爵の家臣、伝令の騎士、教会の使者――そろいもそろって、高い嘘、殺意ゼロ、好感は哀れなほど低い。お前を人間と見ていない。手続きの中の一つの名前、踏まねばならない一段の段取りとしか見ていない。段取りは恨む必要がない。この手の連中に目をつけられると、仇敵に狙われるより厄介だ――仇敵は、少なくともお前を一人前に扱ってくれる。


 シャルロッテは、俺の斜め後ろ半歩のところに立っていた。今日の彼女は静かだ。異様なほどに静かだった。この道中、彼女の口数はどんどん減っていった。王都に近づくほど、彼女は兵器として育てられたあの場所へ、戻っていくようだった。あの場所の掟はこうだ――道具は表情を持つな、声を上げるな、主が口を開く前に動くな。彼女はその掟を、また一寸ずつ、身にまとい直しているのだろう。振り返らなくても、その頭上がどうなっているかはわかる。


『殺意 44』


 本心は、三十。俺に寄り添うようになってからの、これが彼女の常態だ。四十四は道中の疲れと警戒で、三十がほんとうの彼女。俺はもう、この二つの数字をはっきり見分けられる――四十四は外に羽織った鎧で、三十は鎧の下にいる、その人。この街に近づくほど、彼女の鎧は厚くなる。けれど鎧がどれだけ厚くなろうと、下のその三十は、一度も変わったことがない。この一点が、俺には何よりの安心だった。


「辺境伯どの」モルガンが口を開いた。声には蜜がまとわりついている。「教会の鑑定結果は、貴公もお聞き及びでしょう。魔眼の主と、白百合の刃――この二つ、単体で在る分にはまだ目をつぶれる。だが一つ所に結びつけば、神授の格序を乱す。すなわち異端だ」


「鑑定結果は聞きました」と俺は言った。「鑑定の根拠は、まだ聞いていない。神授の格序が乱れた――乱れたのはどの条です。どの教典の、何年の教令に、魔眼とそちらの教会が自ら聖痕と呼ぶあの刻印(こくいん)が共存してはならぬと記してある。伯がそれを言えるなら、俺は今ここで跪いて罪を認めましょう」


『嘘 81→88』


 頭上の嘘が上がった。この言葉――「神授の格序」――こいつ自身、信じちゃいない。規則を道具として使う人間は、規則を信じたことなど一度もない。信じているのは、規則で誰を縛れるか、それだけだ。上がった七点の嘘は、男が自分の手で「神授」の二文字に押した、偽証の印だった。


 面白いのは、これを言うとき、こいつは眉ひとつ動かさなかったことだ。並の人間が嘘をつけば、多少は綻びが出る――目が泳ぎ、声が半音上がり、喉仏が転がる。モルガンにはそれがない。呼吸するように嘘をつき、頭上のあの数字がなければ、俺ですら危うく信じかけるほど自然だった。この手の人間がいちばん危ういのは、嘘が多いからではない。嘘を、本当の話より本当らしく語るからだ。


 聞けば、こいつの加護(かご)は「蜜言(みつげん)」と呼ばれるらしい――言葉の中に、他人には察せぬひと匙の暗示を混ぜ、こちらを思いどおりの方へ誘い込む。他の者なら、この蜜をまとった声に、とうに丸め込まれていただろう。あいにく、俺のこの目にかかれば、その暗示こそが、いちばん間抜けな綻びになる。暗示が濃くなるほど、嘘の数字が満ちていく。満ちて、丸見えになって、こちらの目が痛くなるほどに。こいつの長所が、俺の目には、いちばん明るく灯る一盞の灯だった。


「根拠は当然、教会にあります」彼は笑った。「だが本日お招きしたのは、経典論争のためではない。もっと……現実的な、ひとつの取り決めのためでして」袖の中から羊皮を一巻取り出し、長卓越しに押しやってくる。「即日より、審判の終わる日まで、魔眼の主と白百合の刃は、私的に接触してはならぬ。同室に在る際は教会の見証人を立て、互いの距離は三歩より近づいてはならぬ。違反は、異端結合の実証とみなし、その場で罪を定める」


 三歩。こいつは、わざわざ三歩と言った。「三歩」と口にしたとき、その目はごく素早く、俺の斜め後ろへ流れた――シャルロッテへ。一瞥はごく軽く、なかったことのように軽かったが、俺は受け止めた。口から出まかせに決めた数ではない。計算しつくして、この物差しを、いちばん痛むところに突き立てたのだ。


 俺は羊皮に手を触れなかった。それは卓の上に、俺の指から一寸のところに、とぐろを巻いた蛇のように横たわっていた。蛇には触れる必要がない――手を伸ばせば、それに噛みつく口実を与えるだけだ。


「モルガン伯」と俺は言った。「あなたは今『結合すなわち異端』と言った。ならば伺いたい――何をもって結合とする。同じ街に在ることは結合か。同じ空気を吸うことは結合か。三歩以内が違反なら、二歩半は。二歩九寸は。境界を細かく刻めば、同じ空の下に立っていることすら異端にできる。この手の規則の妙味は、いつも、どう書かれているかではなく、誰がそれを読み上げるかにある。今日あなたは三歩と言い、明日機嫌が良ければ三里と言い、明後日罪を定めたくなれば一歩でも遠すぎると言う。これのどこが神意か――どう見ても、あなたの手の中の、伸び縮みする物差しだ」


『嘘 88→90』

『好感 3→1』


 好感が落ちた。図星だった証拠だ。


 モルガンの笑みは微塵も動かなかったが、次の言葉を継ぐまで、半拍、間が空いた――この半拍が、どんな表情よりも正直だった。「弁が立つお方だ。だが規則は白紙に黒々と、三歩は三歩。苛烈だとお思いなら、お二人の間に……異端の実など何ひとつ無いと、お証しなさればよろしい」


 飛んで火に入る、というやつだ。こいつは俺に自証させたいのだ。ひとたび「俺たちは清廉潔白だ」「俺たちの仲はこれこれだ」と弁明を始めれば、その一言一句を、証言に仕立てられる。「親密ではない」と言えば「辺境伯、この審判廷にて異端との同居を認む」と書かれ、「やましくない」と言えば「魔眼の主、結合の事実を供述す」と書かれる。どちらに転んでもこいつの勝ちだ。喋るほど、縄は長くなる。論争のいちばん古い罠――相手に、ありもしない罪の弁護をさせる。弁護そのものが、認罪になる。


 斜め後ろのシャルロッテの呼吸が、わずかに止まった。振り返らずとも見当はつく。彼女もきっと、俺の代わりに一言、噛みついてやりたいのだ。あの気性で、俺が火炙りにされるのを見ながら手を出さずにいるだけでも、大したものだ。俺は胸の内で唱える――口を開くな。この言葉を彼女に手渡すことはできない。道中、馬車の中で何度もすり合わせた、あの一言を、まだ覚えていることに賭けるしかない――中央の盤面では、先に焦ったほうが、先に負ける。


 だから俺は、一文字も弁明しない。この手の局面で、沈黙は降参ではない。差し出された刃を、受け取らないことだ。沈黙にはもう一つ利がある――こちらがどこまで見抜いているか、相手に読ませない。モルガンが今いちばん知りたいのは、俺がこの局を、どこまで理解しているかだ。俺が顔色ひとつ変えないほど、こいつは余計に探りを入れねばならず――探りを一言入れるたび、頭上には嘘が数点ずつ浮く。手札を、自分から一枚ずつめくってくれるわけだ。


「証明することは、何もありません」と俺は言った。「異端を証明すべきは教会のほうだ。口先で令を下し、根拠すら言えぬ規則を、俺が受けるのは、伯への顔を立ててのことだ。だが、これだけは覚えておいていただきたい――俺が受けるのは『令』であって、『罪』ではない。この二文字、いずれ審判の庭で、一つずつ、あなたと清算します」


 俺は手を伸ばし、その羊皮を巻き取って、懐へ収めた。動きはひどく緩慢に。モルガンが、その手を三秒見つめるほどに、ゆっくりと。


『嘘 90』

『殺意 0』


 こいつは今に至るまで、殺意を半分も動かしていない。つまり、こいつの目に、俺はまだ殺意を向ける値打ちもない――ただ規則で磨り潰される、一個の駒というわけだ。駒は殺す必要がない。駒はただ、それの占める一マスの土地もろとも、喰われるだけでいい。


 結構。侮られることは、この生涯で味わった、いちばん甘い甘露だ。何年も廃物伯爵をやってきた。面と向かって「魔眼」「災いの星」と呼ばれ、陰では生母を呪い殺し領地を傾けたと罵られ、侮られても気色を変えない芸を、とうに身につけていた。軽んじられるということは、相手が警戒しないということ。警戒されぬからこそ、こちらに手を出す隙が生まれる。モルガンが今、俺を垣根と見、駒と見ているなら、好都合――この垣根が噛みつくと気づいたときには、もう抜くには遅い。


 退場のとき、モルガンは不意に声を張り上げた。議事堂じゅうに聞かせるように。


「触れれば異端。さあ、仲睦まじきご夫婦よ、どうぞ――お距離を、お保ちあれ」


 彼は笑みを浮かべ、「どうぞ」の手ぶりをして、俺とシャルロッテのあいだに、見えない一本の線を、指先で引いてみせた。


 これは、見証人たちに聞かせるための芝居だ。今より先、王都じゅうが、俺たちのあいだのその三歩を、見張ることになる。


 俺は身を翻した。シャルロッテはまだ、あの半歩の外に立っている。その頭上の数字が、ほんの一瞬、ふっと動くのが見えた。


『殺意 44→51』


 俺に向けてではない。モルガンに向けてだ。彼女は怒っている――この馬鹿げた令に。


 俺は彼女に手を伸ばさなかった。視線さえ多く向けなかった。こういう場所では、余分な一瞥さえ、調書に書き込まれる。俺はただ、彼女の脇をすり抜けざま、衣の袖を盾にして、ごく低い声で、四文字を落とした。


「令を、破るな。聞いたか」


 言った自分が、いちばん据わりが悪かった。こんな馬鹿げた令に追い立てられて、俺は、彼女に規則を守れと諭している――俺のために殺意を昂ぶらせた相手に、その怒りを呑み込めと。だが、これが今の俺たちの立場だ。相手をかばいたいと思うほど、相手をどうでもいいふりをしなければならない。モルガンのあの令の、いちばん毒なところは「三歩」ではない。俺たちに、互いへの想いを、自分の手で隠させるところにある。


 彼女は応えなかった。だが議事堂を出るその瞬間、視界の端で、頭上のあの五十一が、ゆっくりと落ちていくのが見えた。


 三十まで。


 ――聞こえていたのだ。


 背後で扉が閉じた。重い樫の扉が閉まるとき、こもった音が響いた。誰かが俺たちのために、棺の蓋を打ちつけるような音だった。王都の風が回廊に流れ込み、吹き抜けていく。冷たい。この風には、辺境の草の青臭さと雪の匂いのまじった硬さはなく、ただ磨き抜かれた、得体の知れない冷たさだけがある。規則正しく、冷たい。


 近づくことを禁じられた二人が、どうやって肩を並べ、中央のすべてに抗うのか。


 この問いを、モルガンはずいぶん毒のある形で出してきた。手を組んだ二人を相手取るのに、いちばん陰湿な手は、各個撃破ではない。まず両者をこじ開けることだ――こじ開けてしまえば、孤立した二人は、一対よりずっと御しやすい。こいつは賭けている。俺たちがこの令に耐えきれず、こらえきれずに近づいて口実を与えるか、本当に二つに引き裂かれて、それぞれ慌てふためくか、と。


 だが、一つ読み違えている。俺とシャルロッテのあいだのあれが、はじめから「近づくこと」で積み上げてきたものでは、ないということを、こいつは知らない。


 俺は懐の羊皮を、軽く押さえた。胸に当たってごつごつと、硬い。閘門が一つ、落ちる音のようだった。


 三歩の外で、シャルロッテは俺に背を向け、議事堂の高い色硝子を見上げていた。色とりどりの光の中の横顔は、一幅の絵のように静かだった。


 ふと思った。この三歩の距離を、あいつらは、引く相手を間違えた。


 俺たちを引き離そうとする人間は、はじめからわかっちゃいない――三歩の外から、相手の数字ひとつを読み取れる者が、頼みにしているのは、距離なんかじゃないということを。


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