第18話 初めての微笑み
偽報告は、上手くいった。
翌日、黒鴉はシャルロッテの撒いた餌に、まんまと食いついた。「辺境伯、近く中央へ赴く」という偽情報を、自らの見立てとして公爵へ伝えるだろう。これで、シャルロッテの「時機を計っている」という報告に裏付けが取れた。当面、彼女が「失敗作」と断じられる心配はない。
黒鴉が辺境を発つのを見届けてから、俺はシャルロッテに伝えた。
「凌いだぞ。少なくとも、しばらくは」
彼女は中庭の井戸端にいた。
俺の言葉を聞いて、ゆっくりと振り返る。
そして――笑った。
今まで何度も、彼女の笑みは見てきた。
輿入れの日の、完璧な令嬢の微笑み。暗殺の間合いを計る、作り物の好意。どれも頭上の数字が「嘘」を示す、仮面の笑みだった。
だが、今のは違った。
ふっと肩の力が抜けるような、張り詰めていた糸が緩むような。安堵と、それからほんの少しの照れ。
十八の少女の、素の笑顔だった。
「……よかった」
小さな声で、彼女は言った。
「ありがとう、アルヴィス」
俺は思わず、彼女の頭上を見た。
『殺意 90』
高い。
偽報告のために、表向きの殺意はわざと高く保っている。黒鴉がまだ近くにいるかもしれない以上、油断はできない。だから九十。
なのに、彼女は笑っている。任務の九十を頭上に掲げたまま、心から。
その奥を、つい視てしまった。表向きの殺意の底に沈んでいる、本当の数。
六十八。
九十と、六十八。表と、奥。これほど食い違ったのは初めてだ。
――もっとも。
この笑顔が嘘でないことくらい、六十八なんて数字を見るまでもなくわかったが。
生まれて初めてだった。誰かの笑顔を、数字より先に信じたのは。
全部視えてしまう目で、誰も信じられずに生きてきた。その俺が今は、九十という数字を後回しにしている。
「……礼を言われるようなことは、してない」
ぶっきらぼうに、そう返した。柄にもなく、目を逸らしながら。
シャルロッテが、くすりと笑った。
「あなたも、目を逸らすのね」
「うるさい」
その夜、砦の灯りは温かく、空には辺境の星が、降るように瞬いていた。
シャルロッテは井戸端で、まだ空を見上げている。鼻歌の一つでも歌いそうな横顔だ。
俺は声をかけなかった。
偽報告がいつまで通用するか、黒鴉の次の手は、公爵がどう動くか――考えるべきことは山ほどあった。
ただ、今夜だけは。
そんな面倒ごとも、満天の星空を仰ぎながら、思考の隅に追いやることにした。




