第14話 偽りの好意は反転する
その夜の食卓は、穏やかだった。
暖炉の火が爆ぜ、葡萄酒が琥珀色に揺れる。シャルロッテはよく笑い、よく話した。中央の社交界の噂話、子供の頃に読んだ物語、辺境の星空の美しさ。
彼女の頭上の数字は、終始整っていた。殺意は低く、好感は高く。完璧な、寄り添う妻の数字だ。
俺もそれに付き合った。笑い、頷き、酒を注ぐ。
二人の間の距離が、少しずつ縮まっていく。彼女が、俺の手に自分の手を重ねた。
「アルヴィス」
名を呼ばれた。
「もっと、近くに来て」
来た、と思った。
俺が身を寄せた、その刹那。
彼女の袖から刃が滑り出た。食卓のナイフよりも細く鋭い、暗殺用の針。それがまっすぐに、俺の頸動脈へ。
最高の間合い。最高の好機。彼女の暗殺術の集大成。
――けれど。
俺の手は、すでに彼女の手首を掴んでいた。
刃が、俺の喉の皮一枚手前で止まる。
時間が、止まった。
暖炉の炎の音だけが、やけに大きく響いた。
「最初から」
俺は彼女の手首を掴んだまま、静かに言った。
「全部、知ってたよ。君が誰で、何をしに来たのかも」
シャルロッテの瞳が、見開かれる。
「その整いすぎた数字も。今夜の食事の本当の意味も。さっきの『近くに来て』が合図だってこともな」
「……っ、いつ、から」
「輿入れの馬車から降りてきた、最初の瞬間からだ」
彼女の手から、力が抜けた。
針が、かちゃりと床に落ちる。
頭上の数字が、激しく跳ね上がった。
『殺意 95』
演技の七十九が、一気に九十五へ。
仮面が剥がれたのだ。作り物の好意が崩れ、追い詰められた殺意だけが残る。
彼女の唇が白くなるほど噛みしめられていた。手の内を全部見抜かれた暗殺者の顔だった。
彼女は俺を睨みつけた。憎悪。混乱。そして――その奥で、何かが激しく波立っていた。
その「奥」を、俺はいつものように視ようとして。
また弾かれた。真っ暗な盲点。三度目だ。
「殺せ。チャンスだぞ」
俺は、掴んでいた手首を放した。
無防備に、喉を彼女の前に晒す。
針は床に落ちている。だが、彼女の手にはまだ別の刃がある。やろうと思えば、今、できる。
シャルロッテは、動かなかった。
九十五の殺意を頭上に掲げたまま、ただ震えている。
「……どうして」
絞り出すような声だった。
「どうして、知っていて、わたしを生かしておくの。今までも、これからも。馬鹿なの……?」
「さあな」
俺は肩をすくめた。
「ただ――その九十五は、たぶん君の本心じゃない。俺に怒ってるんじゃない。全部見抜かれて、自分の逃げ場がなくなったことに、怯えてるんだろう」
シャルロッテは、答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
彼女は床の針を拾うことも、新たな刃を抜くこともせず、ただよろめくように立ち上がり、食堂を出ていった。
残された俺は、床に落ちた針を拾い上げた。
冷たい、鋼の感触。
これが、彼女の最後の手札だった。それを使い切らせた。もう彼女には、俺を不意打ちする手段は残っていない。
――盤面は、これでこちらのものだ。
なのに、勝った気が、まるでしなかった。




