蛇足
グラウカ邸焼失から1年。サニーニは現プロリフェラ分領――元グラウカ領――にある屋敷の一室で爪を噛んでいた。彼の輝くような美貌は衰えてはいなかったが、その顔には暗い隈と彫り込まれたような眉間のしわが深く刻まれている。
この1年間はサニーニにとって地獄ともいえる日々だった。
まず、月の女神のような美貌を持つ女を妻に娶る予定だったが、あいにく彼女はかつての面影もなく今は寄生をあげて燭台を手に新居の鏡という鏡を叩き壊す作業に没頭している。
エレナリアの火傷は氷水魔石をもってしても完治には至らなかった。もちろんサニーニは彼女の怪我を治すことに国庫を投げうってでも取り組んだが、現に彼の降婿時に与えられる資産を空にしても彼女の顔は焼けただれ、見るもおぞましい化け物のままだ。
第三王子であるサニーニがプロリフェラ公爵家に降婿する条件として、サニーニはかねてより元グラウカ領を熱望していた。国内で唯一青炎魔石の産出される元グラウカ領は、王国内の領地としては端に位置するが採掘業に従事する領民が多く、税収は黒字と聞く。食料にも困窮している話もなく、何せ若くして領主を勤めていたクロード・グラウカが商会など作って遊んでいるくらいだ、自分も楽に優雅に暮らせるだろう。――そう、サニーニは思っていた。
しかし、蓋を開けてみればサニーニの愚かな野望はいとも簡単に打ち砕かれた。
旧グラウカ領の税収はウルカの涙程度しかなかった。そのおかげでサニーニたちの新居は旧グラウカ領主邸のままで一昔前の中流レベルのかび臭い家具が並んでいるし、エレナリアの壊した鏡たちも新しくあつらえる余裕はない。どうせ何枚新調したところで彼女が叩き割るのだ、この豊かな市民にも劣る生活のなかで金の無駄遣いはサニーニも避けたかった。
そして何よりの誤算は、現プロリフェラ領の鉱山は枯渇していた。
サニーニとエレナリアの何よりの目的だった青炎魔石どころか、赤炎魔石すらも産出されていない。今まで旧グラウカ領の鉱山から産出されていた魔石たちは、すべてクロード・グラウカの矯飾だったのだ。今となっては、彼が身銭を切ってまで何故そのような偽装を重ねていたのかはサニーニには知ることができない。
しかしクロードの残した爪痕の中では、その偽装が最もサニーニに禍害を与えたのは確かだった。
□
旧グラウカ商会――現グラウカ孤児院の面々は祝杯をあげていた。
彼らはクロード・グラウカの死後、闇を身にまとい暗躍した。クロードに育てられた奴隷たちはもちろん、彼に雇われていた教師や従業員たちも密かに加担した。その結果、クロード・グラウカにかけられた罪が冤罪だったと、国に認めさせたのだ。クロード亡き後、解散させられていたグラウカ商会もこれで大手を振って隠れ蓑を脱ぎ捨て営業が再開できる。
「やっと終わったね」
ラウリンゼが疲れ切った――しかし喜びをにじませた――顔でエールの入ったグラスを掲げると、それに返答するようにバロンボールドが大きなジョッキをぶつける。
「これでクロードの名誉は守った。国から莫大な補填金も得られるし、僕たち左うちわさ」
「クロード様が残しておいてくれた書類のおかげだな」
「……うん、彼はずいぶんと最悪の事態まで見越しておいたらしい。しっかしおかしいね、こんな僕が商会のボスだなんて。人殺し以外、何もできないっていうのに」
彼はエールを喉の奥に注ぎ込むように煽りながら自嘲した。
「ま、任されたものはしょうがない。せいぜい、ボスが……ああ、元ボスだね。…………クロード・グラウカが遺したものを守っていくつもりさ。バロンボールドも協力してくれるよね?」
「……ここは待遇がいいからな。それに、放任主義のお前に弟子たちを任せるのも不安だ」
バロンボールドは呆れたように呟きながら腕を組んだ。しかし彼の唇はわずかに弧を描いている。それを目ざとく見つけたラウリンゼは、わざとらしいため息を吐いて諸手をあげた。
「ああ、それにしてもこんなに目出度い日なのに、エイミーとグウェンはいったいどこに逃げちゃったんだろう」
わかりきったことを尋ねるラウリンゼに、バロンボールドはこれまたわざとらしく首を傾げた。
□
蒸し暑さを感じて彼は目覚めた。
エケベリア王国では感じたことのない、じめじめとした暑さだ。汗を頬が伝うが、拭おうとしても体は動かずその不快感を噛みしめることしかできない。ぼんやりとした視界であたりを見回すと、細い木を何本も編み合わせた風通りの良い壁が目に入る。
人を呼ぼうにも、枯れた喉からは情けない吐息が漏れるばかりだ。体を持ち上げようとしても泥を纏ったように重く、すぐに疲れてしまう。しかし何とかして腕を持ち上げようとしていると、がさりと何かを落とすような音が彼の耳に飛び込んでくる。視力の落ちた目では誰かは判別できないが、簡素な部屋の入口に立っていた誰かが、何かを落としたらしい。
「目が、覚めたんですね」
その声はまるで水の中のようにくぐもって聞こえた。唯一、女性だということはわかったが、声の特徴も、言っていることすらも彼の耳には聞き取ることができなかった。そんな彼の様子をいぶかしんだ彼女は、不安そうに彼へと声をかける。
「もしかして、耳、治ってませんか? 五感に関する部位は意識があるうちに治さないとおかしなことになると聞いたので、まだ途中なんです」
そういって彼女は彼の上半身を抱き寄せるようにして抱えると、冷たい何かを彼の頬へと寄せる。彼はそのひんやりとしたものが氷水魔石であると、漏れ出る治療の魔術の余波から感じ取ることができた。治療を受けながら、彼は抱き起された視界に己が両腕を見た。彼の両手は肘から下がなく、右の二の腕は肩口に迫るほどまで炭化している。
「どうですか?」
そういった彼女の声ははっきりと聞こえた。彼は彼女に抱えられたまま、重たい首を起こして頷いた。よかった、と彼女の声から喜びがあふれる。
それから彼女は、彼の目と、喉を氷水魔石で直していった。目は以前よりも視力が落ちたが、生活に困るほどのことではない。薄暗い室内に所せましと並べられている生活必需品すら、何か判別できる程度には見える。声も、かすれてしまっていたが相手に声を伝えられることはできた。
彼が目覚めたのがよほどうれしいのか、彼女はこれまでのことを嬉々として話しだした。ここはエケベリア王国の南にあるアラントイデス国――夏の女神に愛された灼熱の国だ――であること、今はグウェンと共に冒険者をして生計を立てていること。奴隷の証である首輪をつけたエイミーは、生き生きとした様子ではじけるような笑顔を見せる。
――何故。
彼はかすれた声でエイミーに尋ねた。エイミーは笑う。後顧の憂いなど、まったくないような顔で。
「だって、言ったじゃないですか。私の第一就職希望先は、あなただって」
彼女の首元で、銀の輪がわずかな光を受けて輝いた。