第二話 地を縛る札
第2話 地を縛る札
底を抜かれた地面は、ぽっかりと四角い闇の口を開けていた。
土が崩れ落ちたのではない。岩盤が砕けたのでもない。地面の一部だけが、見えない刃で切り取られたように消えている。角は崩れず、切り口には土の層がむき出しになっていた。
穴の底から、湿った冷気と腐敗の臭いが吹き上がる。
源十郎は刀を低く構え、穴の向こうに立つ白装束の男を睨んだ。左肩には、先ほど受けた矢が刺さったままだ。脈打つたびに傷が疼き、柄を握る右手にも余計な力が入る。
男の手には、掌ほどの黒漆の木札があった。
表面に刻まれているのは、根が枝分かれしたような朱い筋。文字とも紋様ともつかないそれが、木札の縁に沿って細く伸びている。
「その札で、地面を動かしているのか」
「動かしている、というのは少々違いますね」
男は穏やかに答えた。
「地の理に触れ、その働きをこちらへ引き寄せているにすぎません」
「分かるように話せ」
「理解する必要はありません。夜刀殿を引き渡していただければ、それで済む話です」
「断ったはずだ」
「ええ。ですから、こちらも相応の手段を取ります」
男の指が、木札の縁をなぞった。
呪言はない。息を整える様子もない。ただ札の向きを変えただけに見えた。
だが、源十郎の背後で、夜刀が息を詰めた。
「……土の流れが、集まっている」
彼女の視線は、男の手ではなく、その足元に注がれていた。
「何が起きる」
「分からない。けれど、さっきと同じじゃない。地面の下で、何かが――」
言葉が途切れた。
地底から、巨大な石臼が噛み合うような音が響いた。足裏に伝わる振動が、次第に強くなる。
男が木札を傾けた。
その瞬間、源十郎の足元で落ち葉が左右へ押し分けられた。土の表面が不自然なほど滑らかになり、細い亀裂が走る。
「伏せて!」
夜刀の叫びが、山道を裂いた。
源十郎は考えるより先に身を沈めた。
頭上で土留めの石組みが崩れた。拳大の石がいくつも跳ね、斜面の土砂が一気に流れ込んでくる。
源十郎は右肩から地面へ転がった。
その背後を落石がかすめ、最後のひとつが左肩を直撃した。
「ぐっ……!」
衝撃が肩の奥まで突き抜けた。
すでに肉へ食い込んでいた矢の鏃が、さらに深く傷を抉る。目の前が白く弾け、歯の根が合わなくなった。
源十郎は泥の中で身体を丸め、転がってきた石を右腕で押しのけた。痛みに呼吸が詰まり、起き上がろうとした左腕は、わずかに動かしただけで力を失った。
傷口から血が滲み、止血に巻いていた布を濡らしていく。
「源十郎!」
「こっちを見るな……足元を見ろ!」
叫んだ直後、地面から泥が盛り上がった。
流れ込んだ土砂ではない。泥は源十郎の足首へ向かって這い寄り、草鞋を覆うと、たちまち硬くなった。湿った土が石のように締まり、両足を地面へ縫い付ける。
源十郎は刀を振ろうとした。
動かない。
踏ん張れば、傷ついた肩が引き裂かれる。無理に足を抜こうとすれば、膝まで固められかねない。
白装束の男が、崩れた石組みの向こうから歩み寄ってきた。
「見事な反応です。ですが、足場を失えば、剣の腕も役には立ちませんね」
男の声に嘲りはなかった。ただ、すでに結果を見定めた者の響きがあった。
夜刀は地面へ片手をついた。
鼻の奥が熱い。先ほど使った術の反動が、まだ身体に残っている。呼吸を整えようとしても、胸がうまく膨らまなかった。
今なら逃げられる。
男の注意は源十郎へ向いている。斜面を上がり、木々の間へ身を隠せば、追手を振り切れるかもしれない。
自分ひとりなら。
夜刀は足元を見た。
源十郎の足を固めた泥は、表面こそ石のようだが、内部にはわずかな湿りが残っている。力任せに崩せば、男はすぐに札を使って押さえ直すだろう。大きな術を使えば、自分の身体が先に潰れる。
逃げるなら、今しかない。
そう考えながらも、夜刀の目は源十郎から離れなかった。
矢を受けた後も、彼は刀を捨てていない。左肩から血を流し、両足を地面に縛られながら、それでも刃先を白装束の男へ向け続けている。
あの男は、夜刀を引き渡せば名誉も仕官先も買い戻せると言った。
源十郎は即座に断った。
夜刀の事情を知っていたからではない。彼女を救えば何かを得られると考えたからでもない。ただ、理由も知らずに人を斬ることを拒んだ。
その頑固さが、今は命取りになろうとしていた。
「……馬鹿な人」
夜刀は吐き捨てた。
逃げるために半歩引いた足を、前へ戻す。
両膝を泥に落とし、両掌を地面へ押しつけた。
大地全体を動かすつもりはない。そんな力は残っていなかった。必要なのは、源十郎の足首を固めている土の内側にある、ほんのわずかな継ぎ目だけだ。
夜刀は目を閉じた。
土の粒の重なり。湿りの偏り。外側から圧をかけられ、逃げ場を失った土が、どこへ力を溜めているのか。
見えないものを読むように、指先へ意識を沈める。
「……そこよ」
両手に力を込めた。
硬く締まった土の内部で、ひびが走った。
バツンッ、と乾いた破砕音が鳴り、源十郎の足首を覆っていた土塊が内側から弾け飛ぶ。
拘束が緩んだ。
源十郎はすぐさま右足を引き抜き、残る泥を蹴り崩した。自由になった身体を支えようとして、左肩に激痛が走る。視界が揺れたが、倒れ込む寸前に右足で踏みとどまった。
同時に、白装束の男が次の一歩を踏み出そうとした地面が、一尺余り沈み込んだ。
男の身体がわずかに傾く。
夜刀の術は、そこまでだった。
鼻から鮮血が落ち、唇を伝って顎を濡らした。彼女は手をついたまま、上体を起こせずにいた。指先が震え、爪の間に黒い泥が詰まっている。
「夜刀!」
源十郎は男へ斬り込まなかった。
右腕で刀を構えたまま、夜刀のもとへ身を寄せ、崩れかけた身体を抱き起こす。彼女は振り払おうとしたが、腕に力が入らず、肩を預ける形になった。
白装束の男は、沈んだ地面から静かに足を引いた。
黒漆の札に刻まれた朱い筋が、脈打つように明滅している。
その足元では、穴の縁から小さな土塊が落ちていた。地底から響く音も、先ほどとは違う。規則正しかった低音が乱れ、岩盤の奥で何かが軋んでいる。
男は木札を見下ろし、笠の奥で目を細めた。
「……余計な歪みを生みましたね」
夜刀は返事をしなかった。息をするだけで精いっぱいだった。
男は札を握り直した。もう一度力を加えれば、地面を押さえ込むことはできるかもしれない。だが、先ほどのように土の働きを強引に引き寄せれば、地下の空洞を支える仕掛けまで崩しかねない。
この場で夜刀を捕らえることに固執する理由はなかった。
「今日は、ここまでにいたしましょう」
男は二人を見た。
「夜刀殿。次にお会いするときは、逃げ道を残せるとは限りませんよ」
「……二度と、あんたたちのところへは戻らない」
夜刀の声はかすれていたが、言葉は明瞭だった。
「それは、いずれ分かることです」
男は木札を懐へ収め、踵を返した。
歩みを進めるたび、足元の落ち葉が不自然に脇へ退いていく。男の姿は木立の陰に溶け、やがて気配そのものが消えた。
源十郎は、しばらくその方向を睨んでいた。
追うべきか。
肩の傷は深く、夜刀は立つことさえ難しい。敵の術も、木札の仕組みも分からない。追ったところで、相手の足場へ踏み込むだけだ。
源十郎は刀を下ろした。
「……今は追わん」
夜刀を抱え、穴から距離を取る。近くの大木の根元まで移動すると、彼女を幹に背を預けさせた。
自分も膝をつきかけたが、左肩の痛みをこらえて持ち直す。血が流れ続けている。矢の鏃は抜けていない。今ここで無理に引き抜くわけにはいかなかった。
源十郎は着物の裾を歯と右手で裂き、細長い布を作った。
「顎を上げろ」
「……自分でできる」
夜刀は血を拭おうとした。だが、指先が震え、頬に触れた布が滑る。
源十郎は何も言わず、彼女の顎と首筋に付いた血を拭った。それから自分の肩へ布を当て、歯で端を引きながら強く縛る。
鏃が肉の中で動いた。
痛みで額に汗が浮かぶ。それでも、源十郎は声を漏らさなかっった。
「抜かないの?」
「返しがある。下手に抜けば、血が止まらなくなる」
「……分かっているわ」
「今は余計な術を使うな。次に倒れたら、俺も担いで逃げる余裕はない」
「這ってでも逃げるわ」
「その意地が残っているなら、まだ動けるな」
夜刀は睨み返した。言い返そうとしたものの、息が続かず、結局、口を閉じた。
源十郎は布の結び目を確かめ、地面に落ちた自分の刀を拾った。
「さっきの合図だが」
夜刀の肩がわずかに強張った。
「……遅かった、と言いたいの?」
「いや。お前が叫ばなければ、石をまともに頭へ受けていた」
源十郎は斜面を見やった。崩れた土留めの一部が、まだ不安定に傾いている。
「だが、合図を聞いてから動いたんじゃ間に合わん場面もある。次は、地面に何が起きるのか、分かる範囲で先に伝えろ」
「そんなに都合よく読めるものじゃないわ」
「分かっていることと、分からないことを分けて伝えろ。それなら俺も判断できる」
夜刀は黙り込んだ。
術を使えば、地の変化を感じ取れる。だが、それは先の出来事をすべて見通せるという意味ではない。彼女自身、どこまで読めるかを測りかねている。
それでも源十郎は、彼女の力を疑って切り捨てるのではなく、使い方を考えようとしていた。
「……あなたは、私を信用しているの?」
「していない」
即答だった。
夜刀の眉が寄る。
「ただ、お前の読みを聞かずに動くより、聞いたうえで判断したほうが生き残る目はある。俺はそう考えただけだ」
「ずいぶん勝手な理屈ね」
「互いにな」
源十郎は夜刀の手元へ目を落とした。
泥にまみれた両掌は、細かく震えていた。術を使った代償だろう。大地を自在に操るのではなく、土の働きへ無理に手を差し入れている。さきほどの男の札とは、似ているようで根本から違う。
男は木札ひとつで地面を切り、泥を固めた。夜刀は土の継ぎ目を読み、わずかな場所を崩しただけで血を流した。
力の差は明らかだった。
「お前は、あの男を知っているな」
夜刀の目から、わずかな熱が消えた。
「……知っているわ」
「何者だ」
「一族を滅ぼした者たちの一人よ」
「何のために」
「それは、まだ話せない」
「話せないのか、話す気がないのか」
「両方よ」
夜刀は源十郎から目を逸らさなかった。
「あの男たちには私の力が必要なの。だから三枝家を使って、私を追わせているのでしょう。でも、三枝の殿様は私が生きていると不都合になったようで殺そうとしている。けれど、私は、死ぬわけにはいかないし、あいつらに渡してはならないものもある」
「それが何かは」
「今は言えない」
源十郎はしばらく黙っていた。
追及すれば、夜刀は口を閉ざすだろう。無理に聞き出したところで、彼女が何を知り、何を知らないのかさえ判別できない。
「いいだろう」
源十郎は短く言った。
「だが、俺はお前を斬らん。話を聞き終えるまではな」
「……いいの?その約束を信じて」
「信じるかどうかは、お前が決めろ」
源十郎は立ち上がった。
肩の傷が脈打ち、足元が一瞬揺れる。彼は木の幹に手をつき、痛みが引くまでじっと待った。
夜刀はその様子を見ていたが、手を貸そうとはしなかった。源十郎も助けを求めなかった。
二人の間には、まだ信頼と呼べるものはない。
あるのは、相手の力を知らなければ生き残れないという、冷たい現実だけだった。
*
木立の向こうで、慌ただしい足音がした。
源十郎は即座に刀の柄へ手をかけ、夜刀の前へ半身を入れた。肩が引き攣れたが、構えは崩さない。
「誰だ」
「待ってくれ! 俺だ、俺!」
茂みを掻き分けて現れたのは、泥だらけの少年だった。年の頃は十六、七。粗末な麻の野良着は枝に引っかけた跡だらけで、額には汗が光っている。
夜刀が目を見開いた。
「弥吉……?」
「夜刀さん! 生きてたんだな……!」
弥吉は駆け寄ろうとして、源十郎の刀に気づき、足を止めた。
「その人は……?」
「今は説明している暇がないわ。声を落として」
夜刀に言われ、弥吉は慌てて口を押さえた。それでも、胸の上下は収まらない。
「村が大変なんだ。三枝の武士たちが押し寄せて、名主様や村の衆を縛り上げてる。夜刀さんの居場所を吐けって、ひとりずつ問い詰めてるんだ」
源十郎は目を細めた。
「兵は何人いる」
「正確には分からない。でも、村の道という道に立ってる。山へ入る出入口も押さえられちまった。北側の炭焼き小屋に、弓を持った連中が陣取ってるんだ」
「炭焼き小屋はどこにある」
「村の北端だ。少し高い場所にあって、山へ向かう道がよく見える。そこから見張られたら、村から山へ出るのは難しい」
源十郎は頭の中で道筋を組み立てた。
自分たちがいるのは村の北東に延びる山道。村へ戻るには、先ほどの兵が下っていった道を通り、南へ回り込む必要がある。だが、その先は北側の炭焼き小屋から見渡される。正面から戻れば、こちらの位置も夜刀の生存も敵へ知らせることになる。
「それに……お千が帰ってこないんだ」
弥吉の声が震えた。
「お千?」
「俺の妹です。山菜を摘みに行ったきり、戻ってきてない。村の衆が捕まっちまったから、みんなで探しに行くこともできなくて……」
夜刀は身体を起こした。顔色は戻っていないが、目には先ほどとは違う切迫した光が宿っていた。
「どこへ行くと言っていたの」
「古い祠のあたりです。山の神様を祀ってる、使われなくなった祠があるだろ。あの近くなら山菜が採れるって……」
夜刀は源十郎を見た。
「……お願い。私を置いて、弥吉と一緒にお千を探して」
「断る」
「子供が消えたのよ」
「分かっている」
「なら――」
「お前をここへ置けば、白装束の男か三枝の兵に見つかる。そうなれば、お千を探すどころではなくなる」
夜刀は言い返しかけ、口を閉じた。
源十郎は弥吉へ向き直った。
「その祠まで、どれほどかかる」
「この道を少し戻って、尾根の手前で東へ折れます。急げば半刻もかからない」
「道は分かるな」
「はい」
「案内しろ。ただし、先走るな。足跡や人の気配があれば、必ず知らせろ」
弥吉は強く頷いた。
源十郎は夜刀へ手を差し出した。
彼女はその手を見つめた。助けを借りることへの抵抗と、直ぐに立って歩けない自分への苛立ちが、顔に浮かんでいた。
「……一人で歩けるわ」
「なら、そうしろ。だが、這ってでもついてこい」
「本当に、嫌な男ね」
「よく言われる」
夜刀は差し出された手を取らず、木の幹へ手をついて立ち上がった。足元が揺れたが、膝を折ることなく踏みとどまる。
源十郎は彼女の歩幅を見てから、弥吉に先を促した。
少年が木立の間へ入っていく。
源十郎はその後ろにつき、夜刀が続くのを確かめてから歩き出した。左肩の傷が揺れるたびに熱を持ち、血が布の下へ滲んでいく。それでも、歩みを止めるわけにはいかなかった。
山の奥で、鳥が一斉に飛び立った。
弥吉が足を止め、尾根の向こうを見た。
「……あそこです。祠は、あの尾根の向こうにあります」
木々の隙間から、古い祠の屋根がかすかに見えた。
その周囲だけ、風が通っていない。
源十郎は刀の柄を握り直した。
山が何かを隠している。




