第一話 山が人を呑む
第1話 山が人を呑む
山麓の陣屋の座敷で、鬼塚源十郎は差し出された布袋を手の中で軽く揺すった。
ちゃり、と鈍い金属音が鳴る。銀十枚。浪人がしばらく食いつなぐには十分な額だった。
「調べるだけで銀十枚、か」
向かいに座す家臣は四十がらみの男だった。整えられた顎髭に、曇りのない脇差の拵え。身なりだけなら隙のない武士だが、源十郎の色褪せた藍の小袖と濃茶の羽織、無精髭の顎を見据える目には、隠しようのない侮蔑が澱んでいた。
「化け物退治を求めているわけではない。山で何が起きているのか、その実態を確かめてくればよい。明確な手掛かりを掴んで生きて戻れば、相応の追加も考えよう」
「生きて戻れば、ですか」
「山の中で何が起きているか分からぬのだ。相応の危険は承知の上であろう」
「ええ。だからこそ、ひとつ伺っておきたい」
源十郎は布袋を懐へ収めず、指先で机の向こうへ押し戻した。木目を擦る鈍い音が、座敷の静けさに落ちた。
「山で消えた者たちについて、三枝家はどこまで実態を掴んでいるのです」
家臣の眉がぴくりと動いた。
「村人の戯言まで、いちいち浪人に語って聞かせる筋合いはない」
「ならば、俺が調べる筋合いもありませんな」
源十郎は腰を浮かせかけた。
家臣は舌打ちをひとつ漏らし、声を落とした。
「……戻った男が一人いた」
源十郎は座り直した。
「男は山から戻ったあと、ひどく怯えていたらしい。何を見たのかと尋ねても、まともな返事はなかった。ただ、『土の下に、女がいる』と繰り返していたという」
「その男は、今どこに」
「家へ戻った。そして、妻子を斬り殺し、自らも舌を噛み切って死んだ」
家臣は淡々と告げた。口にすること自体を忌まわしく思っているのか、最後の言葉だけがわずかに硬い。
「男の家の周りには、妙な泥が残されていた。雨も降っていないのに、土を水で練り直したように滑らかだったそうだ。足跡も、荷車の轍も、その泥の上では途中から消えていた」
「土の下に、女。それに、滑らかな泥ですか」
「山に潜む女が、人を土の中へ引きずり込んでいる。村ではそう噂している」
「三枝家の手勢で山狩りをすれば済む話では?」
「無用に大勢を動かせば、領民の動揺を煽る。正体の知れぬ怪異に正規の兵を突っ込ませるわけにもいかぬ。公儀の耳に入れば、お家の面目にも関わる」
家臣は布袋を顎で示した。
「貴様のような風来坊なら、余計な騒ぎを起こさず身軽に動けよう。山の様子を探り、何が起きているのかを報告しろ。それだけだ」
源十郎は袋を引き寄せ、腰の帯へ結わえ付けた。
「承知しました」
立ち上がり、戸口へ向かう。
「待て」
背中に冷えた声が飛んできた。
「もし山の中で、その女を見かけたら――生け捕る必要はない。見つけ次第、斬り捨てろ」
源十郎の草鞋が止まった。
「……今、何と?」
「女を見つけ次第、斬れと言ったのだ」
「山で何が起きているか確かめろと仰った。その一方で、正体も知れぬ女を問答無用で斬れと?」
「その処置は探索とは別の沙汰だ。詳しい事情までは知らされておらん。だが、見つけ次第処分せよとの上意は確かに受けている。三枝家の名において命じた。貴様はただ従えばよい」
「何をしでかした女なのです」
「化け物の類だという噂だ。まさか、同情でも寄せる気か?」
「得体の知れぬ相手を斬れと言われても、刃の入れどころに困るというだけの話です」
「口答えをするな。これは命令だ」
源十郎は振り返らなかった。
「納得のいかん命で刃を振るう気はありません。命令の真偽を見極めるのも、武士の務めでしょう」
「――貴様はもう、武士ではあるまい」
その言葉は、背中に投げつけられた刃のように重かった。
源十郎は答えず、陣屋の敷居を跨いだ。
*
南麓に広がる村を抜け、山地へ向かう街道から脇道へ入った。
初夏の陽は高い。麓では青葉が風に揺れ、田の水面が白く光っていた。だが、杉木立の奥へ進むにつれ、風は弱まり、鳥の声も遠のいていく。
源十郎は歩みを緩めた。
山道には草履の擦れ跡があり、山仕事に向かう者の足跡も残っていた。荷を引いた轍は、湿った土の上を浅く刻んでいる。
それらの痕跡が、ある地点を境にぷつりと途絶えていた。
道が崩れたわけではない。土の表面だけが、濡れた鏝で均されたように滑らかになっている。
源十郎は片膝をつき、指先で土を撫でた。
表面は乾いている。だが、指に力を込めると、薄い皮膜の下から冷たい湿り気がにじみ出た。陶土を水で練り直したような、妙な粘りが指の腹にまとわりつく。
(……話にあった泥と同じか)
自然に踏み固められた土ではない。誰かが均したにしても、これほど広く、均一に仕上げる理由が分からなかった。
源十郎は立ち上がり、周囲を見渡した。
木々の根元に不自然な盛り上がりはない。地面に穴もなく、土砂が流れた跡もない。それなのに、歩いてきた者たちの足跡だけが、そこから先へ続いていなかった。
背後の茂みで、ぱきりと小枝が折れた。
源十郎は振り返りざま、親指で鍔を弾いた。鯉口が切れ、右手が柄へ滑る。
木漏れ日の斑模様の中に、ひとりの女が立っていた。
若い女だった。灰白色の小袖に、汚れ破けた若草色の羽織を重ねている。袖は動きやすいよう紐で結わえられ、鎧の類は身に着けていない。乱れた黒髪には枯れ葉が絡み、頬は痛々しいほど削げていた。
唇に血の気はない。素足には泥と無数の切り傷がこびりつき、ところどころ赤黒く固まっている。
それでも、こちらを見据える目だけは鋭かった。
手負いの獣が、最後の力で牙を剥く。その目に似ていた。
「そこで何をしている」
女は答えず、じり、と半歩後ずさった。
「道に迷った風情には見えんが」
「あなたこそ……何をしに来たの」
「山で人が消えている。その実態を調べに来た」
女の表情から、わずかに人間味が抜け落ちた。
「……帰りなさい」
「理由を聞いてからにしよう」
「ここにいたら、殺されるわ」
「誰にだ」
「……三枝の兵に」
源十郎は女の足元を盗み見た。
血塗れの素足。幾日も、何里も、追手を逃れて山野を駆け抜けてきたような足だった。
「お前が、その女か」
女の双眸が険しさを増した。
「……何を、誰に聞いたの」
「村へ戻った男が、『土の下に、女がいる』と言い残したそうだ。三枝家は、お前が人を土へ引きずり込んでいる元凶だと睨んでいる。見つけ次第、斬れとの命令まで出ている」
女の瞳が揺れた。
恐怖だけではない。自責と、長く押し殺してきた怒りが、その奥でぶつかり合っている。
「なら、なおさら帰って」
「あの男は何を見た」
「答える義理はないわ」
「お前を斬れと言われている。理由を知らずに刃を向けるつもりはないが、知らずに済ませるつもりもない」
「……あなた、物好きなのね」
「そうでなければ、こんな山に来ていない」
女は唇を噛んだ。答える気はないらしい。
源十郎がさらに問いかけようとした、そのときだった。
山道の下方から、金属の擦れる音が近づいてきた。
重い草鞋の踏み込み。胴丸の鉄札が鳴る微かな軋み。そして、木立を劈く声。
「いたぞ。あの女だ」
杉の木立を割り、三枝家の家紋を墨染めした胴丸姿の武者たちが現れた。
「術師の娘だ。逃がすな」
(……兵は出さぬと言っていたはずだが)
家臣は嘘をついたのか。それとも、自分を山へ誘い込むため、初めから話を仕組んでいたのか。
考えるのは後だ。
「夜刀。もはや逃げ場はない。神妙にしろ」
先頭の兵が女の名を呼んだ。
夜刀は息を呑み、さらに後ずさった。背後は切り立った脆い岩肌の斜面。足元には崩れやすい石が転がっている。逃げ道は塞がれていた。
源十郎は兵たちの間合いと得物を検分した。
前衛に長槍が三人。後ろに抜刀した者が二人。さらに十間ほど奥、杉の幹の陰には弓を引き絞る射手がいる。
生け捕りの陣立てではない。
射手の狙いは夜刀の胸元に据えられていた。槍兵たちは退路を塞ぎ、刀を抜いた二人は源十郎の左右へ広がっている。女を逃がさず、邪魔をする者は斬る。手慣れた包囲だった。
「その女を引き渡せ、浪人」
先頭の槍兵が、切っ先を源十郎の喉元へ突きつけた。
「引き渡して、どうする」
「三枝家の御下知だ。貴様のような流れ者に言う必要はない」
「何をした女なのかを聞いている」
「怪異を操る妖の類に、いちいち理由など要るものか」
槍兵が踏み込んだ。
樫の柄がしなり、穂先が源十郎の胸を狙う。
その瞬間、夜刀が右手を振り上げた。
地面が微かに脈打った。
源十郎は、その変化を見逃さなかった。夜刀の足元ではない。槍兵が踏み込もうとした、その直下の土が膨らんでいる。
「下がれ!」
源十郎の声と同時に、地表を突き破って岩塊が突き上がった。
槍兵は身を捻って直撃を逃れた。だが、岩塊は樫の柄をへし折り、穂先を明後日の方角へ弾き飛ばす。隣の兵が飛び散った破片を受け、足を取られて転倒した。
夜刀の肩が大きく揺れた。
鼻腔から一筋の血が流れ、唇を伝う。
「射て」
後方の兵が短く命じた。
射手の弦が鳴った。
矢は、血を流して動きを止めた夜刀の胸へ向かっていた。
源十郎は地を蹴った。
夜刀の肩を右腕で抱え込み、無理やり地面へ引き倒す。一本目の矢が首筋を浅く裂き、間髪を入れずに飛来した二の矢が左肩へ突き刺さった。
「ぐっ……!」
焼けるような激痛が肩口を貫いた。
鉄の鏃が肉に食い込む。肩を動かそうとしただけで、奥の筋が引き攣れた。源十郎は奥歯を噛み締め、夜刀を背後へ押しやった。
「動けるか」
「どうして……どうして庇ったりするの」
「問答は後だ。死にたくなければ屈んでいろ」
槍を失った兵が腰の打刀を引き抜き、斬りかかってきた。
源十郎の左腕には力が入らない。肩から垂れる血が袖を濡らし、指先が冷えていく。
それでも、相手の刃筋は見えた。
半身に開き、正面からの斬撃を紙一重で外す。空を切った刃が下段へ流れた瞬間、源十郎は右腕一本で刀の峰を相手の前腕へ叩き込んだ。
骨が軋む。
男の手から刀が落ちた。源十郎はその勢いを殺さず、右足を滑り込ませて足払いをかけた。体勢を崩した相手の鳩尾へ柄頭を叩き込む。
男は肺の空気を吐き切り、泥の中へ沈んだ。
二人目が横合いから袈裟懸けに斬り込んでくる。
左肩の鏃が肉を抉り、視界の端が白く弾けた。源十郎の踏み込みが半拍遅れる。
まともに受ければ、次は腕が上がらない。
源十郎は半歩退いた。
相手の足が、夜刀の術で捲れ上がった土と、もとの滑らかな地面との境目を踏む。踏み固められていない土塊が崩れ、男の右足が沈んだ。
前のめりになった刃を、源十郎は刀身で外へ流す。腕一本では深く斬り込めない。代わりに肩口をぶつけ、相手の顎へ肘を叩き込んだ。
二人目も倒れた。
源十郎は一度だけ息を吐き、刀を構え直した。
木立の奥では、射手が三本目の矢を番えていた。
夜刀が震える手を持ち上げる。
「やめろ」
「でも、あなたが……」
「今の手で何ができる。無理にその術を使えば、次は立てんぞ」
夜刀は答えなかった。血の滲む唇を結び、射手の足元を見つめている。
弓が引き絞られた。
放たれる寸前、地面に細い亀裂が走った。
大きく盛り上がることも、岩が突き出すこともない。指二本ほどの幅にも満たない、浅い割れ目だった。
だが、全体重を預けて弦を支えていた射手の軸足がわずかに傾いた。
矢は狙いを外れ、頭上の杉の梢を薙いだ。
夜刀の身体が崩れた。片手を地につき、荒い呼吸を繰り返す。鼻血が顎から滴り、腐葉土を染めた。
源十郎は切っ先を残る兵たちへ向けた。
「……まだやるか」
兵たちは互いに目を交わした。
数の上では、まだこちらを上回っている。だが、前衛の二人は倒れ、槍は折れ、射手の狙いも外れた。目の前の浪人は肩を射抜かれながらも刀を下ろさず、女は血を流しながら地面に触れている。
先頭の兵は一歩も進まなかった。
「退け」
低い声だった。
倒れた仲間を二人がかりで引き起こし、兵たちは山道を下っていった。最後まで源十郎に背を向けるのをためらっていたが、やがて金属音も草鞋の音も木立の向こうへ遠ざかった。
源十郎は、足音が完全に消えるまで刀を構えていた。
やがて、左肩から流れた血が袖口を越え、指先へ滴った。
夜刀が顔を上げた。
「……矢が深いわね」
「見れば分かる」
「鏃の返しが肉を噛んでいる。無理に抜けば、傷が広がるわ」
「俺もそう思う」
源十郎は刀を鞘へ戻した。納刀の途中、肩の痛みで手が止まる。右手だけでどうにか鞘口を探り、刃を収めた。
夜刀は立ち上がろうとしたが、膝が崩れた。
源十郎は右腕を伸ばし、倒れかけた身体を支えた。
「……触らないで」
「なら、自分で立て」
夜刀は彼の手を振り払った。震える足に力を込め、岩肌へ片手をついて身体を起こす。顔色は悪く、額には冷たい汗が浮かんでいた。それでも、彼女は源十郎の手を借りようとはしなかった。
「どうして私を斬らなかったの。三枝家の命令だったのでしょう」
「納得のいかん命で刃を抜く気はないと言ったはずだ。それに、お前が何者なのかも聞いていない」
「……私を庇って矢まで受けて、何の得があるというの」
「得などない。他人の都合に己の刃を売り渡すのが御免なだけだ」
夜刀は、源十郎の肩に食い込んだ矢を見た。
彼が動くたび、鏃が肉の中でわずかに揺れる。血はまだ止まっていない。長く歩けば、傷はさらに悪くなるだろう。
「馬鹿な男」
吐き捨てるように言ったものの、夜刀の目には先ほどまでの敵意とは違うものが混じっていた。
源十郎が返事をする前に、背後から声が降ってきた。
「手負いの身で、ずいぶんと余裕がおありですね」
源十郎は肩の痛みを押し殺し、身を翻して刀の柄に手をかけた。
木立の切れ間に、白い法衣をまとった男が立っていた。
浅い笠の下から覗く顔は、年齢を測りにくい。衣の織り目は驚くほど緻密で、諸国を巡る僧にしては不自然なほど汚れがなかった。腰に刀はない。
男は右手に、黒漆で塗り込められた細長い木札を一枚提げていた。
その足元には、踏み荒らされた痕跡がなかった。
「何者だ」
「名乗るほどの者ではありません。夜刀殿を迎えに参っただけです」
夜刀の身体が硬直した。
先ほど三枝の兵に囲まれたときでさえ、彼女は逃げ道を探し、相手の足元を見ていた。だが、今は違った。呼吸が浅くなり、指先から血の気が引いていく。
「……来ないで」
白装束の男は穏やかに首を傾げた。
「そう怯えることはありません。本来あるべき場所へお戻りいただく。ただ、それだけのことです」
「嘘をおっしゃい」
「一族のことは残念でした。ですが、あれは仕方のないことだったのですよ」
夜刀の顔から、怒りさえ消えた。
残ったのは、過去に何をされたのかを思い出すことすら恐れているような、剥き出しの拒絶だった。
源十郎は、男の手にある木札を見た。
黒漆の表面には、枝分かれした根のような朱い線が細く走っている。血を塗り込めたような色だった。
「お前が、この娘の一族を滅ぼしたのか」
「あなたが知る筋合いのことではありませんね」
「知る必要があるかどうかは、俺が決める」
男は初めて、笠の奥から源十郎を正面に見据えた。
「――鬼塚源十郎殿、ですね」
源十郎の目が細まる。
「なぜ、俺の名を知っている」
「三年前、あの城門を独断で開け放った武者だ」
左肩の痛みとは別のものが、胸の奥を刺した。
源十郎は一瞬だけ口を閉ざした。あの夜の城門。暗い城内に満ちていた怒号。開いた門から逃げていく人々。背後で響いた刃音。その先に待っていた落城。
思い出を振り払うように、男を睨み返す。
「……それがどうした」
「答えが欲しいのであれば、夜刀殿をお渡しなさい。引き渡していただけるなら、名誉も、次の仕官先も買い戻せるよう手配いたしましょう」
「断る」
源十郎は間を置かずに答えた。
「まだ、この娘から話を聞き終えていない」
「それだけの意地のために、命を捨てることになりますよ」
「惜しむような命は、三年前に疾うの昔に置いてきた」
男の薄い笑みは揺らがなかった。
「……残念です」
男は、手にした黒漆の木札を地面へ向けた。
呪言も、気合もない。ただ、物の位置を示すような、何気ない身振りだった。
地底深くで、巨大な石臼が噛み合うような鈍い地鳴りが轟いた。
カチリ、と硬い留め木が外れる音がした。
男の足元から、一本の細い亀裂が走った。落ち葉を左右へ均等に押し分けながら、亀裂は源十郎たちの足元へ伸びてくる。
「離れてッ!」
夜刀が叫んだ。
源十郎は彼女の腕を掴み、無事な右腕で身体を引き寄せた。左肩が裂けるように痛んだが、足を止めるわけにはいかなかった。
二人が横へ跳んだ直後、立っていた地面が沈んだ。
土砂が崩れたのではない。
地面そのものが、四角く切り抜かれたように落ちていた。切断面は妙なほど整い、角は崩れていない。最初から地下に空洞があり、その蓋だけを外されたかのようだった。
ぽっかりと口を開けた暗黒の底から、氷のように冷たい風が吹き上がる。
腐った水と、長く閉ざされていた土の臭いが鼻をついた。
源十郎は穴の縁から一歩退き、刀の柄を握り直した。
あの滑らかな泥も、この異様な空洞も、同じものにつながっているのか。
答えはまだない。
だが、目の前の男が、ただの術師でも僧でもないことだけは分かった。
夜刀は源十郎の背後で息を殺していた。彼女の視線は黒い木札に釘付けになっている。
白装束の男は、穴の向こうから二人を眺めていた。
「お渡しいただけないのであれば、こちらからお連れするまでです」
その声には、怒りも焦りもなかった。
地の底から、もう一度、重い音が響いた。
山が、ゆっくりと目を覚まそうとしていた。




