第8話「白鷺の提案(妊娠の提案・命を残す選択)」
病院の夜は、今日も変わらず静かだった。
だが静けさの中にあるものが、少しずつ変質している。
夜神蒼爽(20)の身体は、確実に“昨日の自分”とは違っていた。
わずかな動作の遅れ。
指先の微細な震え。
立ち上がるときの一瞬の間。
それらはまだ日常生活を壊すほどではない。
だが、確実に“未来を削っている兆候”だった。
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その夜。
病室のカーテンが静かに開く。
白鷺帆乃香(30)。
白衣はない。
ただの一人の女性としてそこに立っていた。
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「まだ起きてるのね」
「なんとなく、です」
蒼爽は小さく笑う。
その笑顔は、少しだけ弱くなっていた。
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帆乃香は椅子に座る。
いつもの位置。
いつもの距離。
だが今日は、空気が違う。
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沈黙が続く。
そして――帆乃香が先に口を開いた。
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「提案がある」
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蒼爽は少しだけ目を細める。
「提案……ですか」
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帆乃香はまっすぐ彼を見る。
その視線は、医師のそれでも、妻のそれでもなかった。
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「あなたの子供を残したい」
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一瞬、病室の空気が止まった。
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蒼爽は理解できなかった。
言葉の意味は分かる。
だが“状況”が追いつかない。
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「……え?」
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帆乃香は続ける。
声は揺れていない。
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「あなたの病気は進行性」
「未来の選択肢は減っていく」
「だから、今のうちに“残せるもの”を残したい」
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それは医療的な説明のようでいて。
どこか決定的に違っていた。
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蒼爽はゆっくりと息を吐く。
「それって……子供を作るってことですか」
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「そう」
即答だった。
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沈黙。
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蒼爽は視線を落とす。
「先生……それ、冗談じゃないですよね」
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帆乃香は一切笑わない。
「冗談でこんな話はしない」
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その瞬間。
蒼爽の中で何かが静かに揺れた。
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(この人は、どこまで本気なんだ)
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「なんでそこまで……」
蒼爽の声は少しだけ掠れていた。
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帆乃香は一瞬だけ言葉を探す。
だが、やめる。
そして、静かに言った。
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「あなたが消えてしまうから」
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それは医師としての説明ではなかった。
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もっと個人的で、もっと危険な言葉だった。
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蒼爽は言葉を失う。
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帆乃香は続ける。
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「人は、記憶だけでは残らない」
「形が必要なの」
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「だから、子供?」
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蒼爽の問いに、帆乃香は少しだけ頷く。
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「あなたが生きた証が必要」
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その瞬間。
蒼爽は小さく笑った。
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「それ、僕のためですか?」
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帆乃香は答えない。
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答えないことが、答えだった。
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沈黙。
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蒼爽は天井を見る。
そして、ゆっくり言う。
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「先生って……本当に怖い人ですね」
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帆乃香は目を伏せる。
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「よく言われる」
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その声は、少しだけ弱かった。
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蒼爽は小さく息を吐く。
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「でも」
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視線を帆乃香に向ける。
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「それでも、僕のことちゃんと見てるのは先生だけです」
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その言葉に、帆乃香の表情がわずかに止まる。
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医師としてではなく。
妻としてでもなく。
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“誰かに必要とされている人間”として。
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その瞬間だった。
帆乃香の中で、何かが決定的に崩れる。
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(私はこの人を救っているのか?)
(それとも、この人を利用しているのか?)
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答えは出ない。
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ただ一つだけ確かなのは。
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この提案はもう“医療行為”ではないということだった。
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沈黙の後。
帆乃香は立ち上がる。
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「すぐに答えなくていい」
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そう言って背を向ける。
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だが、扉の前で止まり。
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「でも……考えてほしい」
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その声は、初めて“迷い”を含んでいた。
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病室に残された蒼爽は、しばらく動かなかった。
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そして、小さく呟く。
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「命って……そんなに簡単に増やしていいものなのかな」
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一方、廊下。
帆乃香は壁に手をつく。
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呼吸がわずかに乱れていた。
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(私は今、何を提案した?)
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医師としての自分は、それを“禁忌に近い領域”だと理解している。
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それでも止められなかった。
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理由は一つ。
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この人が消えることを、想像できなくなったから。
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そしてそれは――
医師として最も危険な感情だった。
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