ここは……現実かな?
一瞬意識を失っていたが、すぐに目を覚ました金森は勢いよく体を起こすと、キョロキョロと辺りを見回した。
窓から差し込む鮮烈な夕焼けにドキリとしたが、子供部屋と台所の混ざった異常空間も、吹き荒れる突風も、小さな清川も、美形な守護者も、ここには存在しない。
「ここは……」
妙に痛む頭を押さえつけながら辺りを見回すと、隣で眠っていたらしい赤崎がカッと目を見開き、飛び上がって空中で一回転をした。
「どうした! 異常事態か!!」
そう叫んで、何かに対し、構えの姿勢をとる。
その手にはしっかりとおもちゃの剣が握られていた。
金森はツッコミを入れる気も起きずに、
「よく寝起きにそれだけ動けるね」
とだけ言った。
寝起きで活舌が悪く、まるで呻いているみたいだ。
「どうした金森響! 頭でも痛いのか!?」
元気な赤崎が金森を心配するが、その声自体がガンガンと響いて金森の頭痛を刺激する。
「少しぼーっとしてるだけよ。赤崎がこれ以上騒ぐなら、余計に頭も痛くなりそうだけど」
「そうか」
赤崎は腕を組んで頷くと、チラリと清川を見た。
清川は先程までのような幼い姿ではなく、いつもの見慣れた高校生の姿に戻っていた。
騒がしい赤崎にも負けずに、穏やかに眠り続けている。
「清川藍は、元の姿に戻っているようだな。無事か?」
「無事ですよ。今は眠っているだけです。夜には起きるでしょう」
落ち着き払ったその声は、清川のすぐ隣から聞こえる。
金森がよく目を凝らして清川の隣を見ると、そこには半透明の何かがいた。
守護者だ。
「守護者、元に戻ってる?」
守護者は、以前の金森が見ていた、半透明のわらび餅のような姿に戻っていた。
窓の近くに座って、守護者は清川に優しく寄り添っている。
千切られたカーテンの隙間から夕陽が入り込んで、より、守護者の輪郭を曖昧で優しくしていた。
「私に変化はありませんよ。藍は元に戻りましたが」
金森の言葉に、相変わらず守護者は不思議そうに首を傾げている。
「ここは……現実なのか?」
「はい。ここは、貴方たちの住む現実世界で間違いありません」
顎に手を当て、セリフ口調で格好つける赤崎に守護者が頷いた。
「じゃあ、私たちがさっきまでいたのは?」
現実世界へ戻って来られたことに安堵すると同時に、先程までは切羽詰まっていて問うことが出来ていなかった質問をした。
「あそこは、私たちのような存在が暮らす世界です。友人は、あの場所を幻想世界と呼んでいました」
「幻想世界」
思案顔でオウム返しをするが、実際には、疲れ切った金森は何も考えていない。
自分で聞いたのに、面倒くさい話になるのかもしれない、とすら思っている。
「詳しく聞かせてくれ!」
その隣から、瞳をキラキラと輝かせた赤崎が飛び出した。
「こら、藍を踏まないでくださいよ。今、話して差し上げますから」
守護者は、逸る赤崎を落ち着けて座らせた。
「私は、実はあまり向こうの世界のことを知りません。ですので、友人から聞いた話を、私の知る限りで、話すことになりますが」
そう前置きをして、守護者は先程までの事態の説明を始めた。
「何から話せばいいのか、説明って難しいですね……まず、この世には二つの世界があります。藍たちの住む現実世界と、私たちのような存在が過ごす幻想世界です。二つの世界は交わることはありませんが、互いに影響を受け合います。特に、幻想世界は現実世界の影響を受けやすいのだそうです」
赤崎は興奮気味に話を聞いているが、金森はこの時点で話についていけなくなりそうだった。
赤崎にとっては、普段の妄想のような世界が現実となり、脳の中で様々な物語や妄想がグルグルとめぐっているのだろうが、金森が普段から考えていることは友人との遊びや流行りのファッションのことだ。
金森には、ファンタジー的な話への耐性が皆無といってよいほど無かった。
「幻想世界の一部は現実世界よりも曖昧で、現実世界の影響を受けやすく、一定の条件の下で世界が変化することがままあるようです。その変化は、新たな空間が増えたり、現実と混ざってゴチャゴチャになったり、と様々のようですが」
「と、いうことは、清川藍の発狂が原因で幻想世界が変化し、清川藍の記憶に影響された空間が構築されたというわけか」
頷きながら返す赤崎の言葉は正しいのだろうが、発狂という言葉に守護者の表情が少し曇る。
「発狂……詳しいことは私には分かりませんが。おそらく、その通りなのだと思います。藍が原因で門と変化が生じ、お二人は向こうの世界へ渡ったのでしょう」
「門?」
今一つ話を飲み込めていない金森だが、とりあえず気になった言葉に反応してみた。
「門、扉、友人はいくつかの名前で呼んでましたが、とりあえず門としておきます。実は、私たちマボロシは容易に現実世界に来ることが可能です。たとえ自我のない、吹けば飛ぶような弱々しい存在でも現実世界に来ることができます。しかし、現実世界の住民が幻想世界に来ることは難しいのです」
「ほぉ? だが、俺たちは実際に向こうへ行ったようだが?」
赤崎は、わざとらしくそう言った。
ワクワクとした顔はおやつを前にした子供のようで、先の言葉を促そうと必死であることが見てとれた。
守護者は苦笑すると、話を続けた。
「例外が、門です。特定の条件が満たされると、門が出現します。導き手である者が門に触れれば、幻想世界へ行くことができるのです」
「導き手?」
赤崎が口を開く前に、間抜けな声で金森が言った。
特に何も考えていない金森だが、その反射神経が無駄に言葉を出させている。
「導き手というのは、門を使って幻想世界へと渡ることができる者です。特に力が強い者は、導き手でない者も幻想世界へと誘うことができます」
守護者はチラリと二人を見た。
「まず、赤崎さんは導き手で間違いないでしょう。おまけに、とても力が強いので、何人かを一緒に連れていくことも可能です。金森さんですが……おそらく、金森さんも導き手、ですね。おそらく。金森さんは力が弱いので、意外ですが。ですが、確か、力の量は関係なかったと思いますし」
話は理解できない金森でも、なんとなく自分がバカにされていることには気が付いたらしく、文句の一つでも言ってやろうと口を開いた。
しかし、言葉が発せられることはなかった。
自身への評価にテンションが爆上がりした赤崎が、勢いよく立ち上がって辺りをウロウロしながら、
「ほほう、そうか。そうだ! 俺は選ばれた存在だからな、もちろん能力も高いのだ!! 顔、運動神経、頭脳、それに特殊能力まで授けるとは、そのあまりの与えように神を恨んだこともあったが! なるほど、これから俺の異世界無双ライフが始まるのだな、そうだろう! 幻想世界でチート能力を手に入れたり、ご飯を作ったり、向こうの住民を癒したりするのだろう! せっかくだ、相棒たる金森響たちもつれていってやろう。そして、俺たち高校生と救世主の二つの役割を与えられることになるのだ。たくさんの苦難が舞っているかもしれない、時にくじけそうになり、時に」
と、物凄い勢いで捲し立て始めたからだ。
瞳はワクワクと輝いていて、つい最近読んだと思われるライトノベルの展開を語り始めている。
金森は冒頭の自画自賛の辺りから赤崎のマシンガントークを無視し、騒々しさを意識の外へ放り出して守護者へ疑問を口にした。
「それじゃ、清川さんは?」
「藍は導き手ではありません。おそらく、赤崎さんが向こうへ連れて行ったのでしょう。きっと、どこかへ逃げたいと、藍は思ったのです……」
結局、藍が逃げた先は幻想世界だった。
しかも、赤崎がいなければそこに行くことすらできなかっただろう。
おまけに、逃げたその先で清川は散々苦しめられることとなった。
一番思い出したくない恐怖も、はっきりと思い出す羽目になった。
なんという皮肉だろう。
守護者はそう思ったが口に出すことはなく、代わりに落ち込んだように項垂れた。
目に見えてしょんぼりする守護者に声を掛けようと口を開いたが、金森の言葉は、再び赤崎によって遮られることとなった。
「さあ、行くぞ!! 金森響!!!」
ここ最近で一番大きな声が赤崎から発せられたからだ。
すっかり視界からも耳からも赤崎を追い出してしまっていたので、急な大声に金森の心臓が跳ね、その場で跳びあがってしまう。
金森は赤崎から向けられた手をペシリと叩き落すと、嫌そうに赤崎を睨んだ。
「うるっさいわねえ。どこにも行かないわよ、大体、そんな大声を出したら、清川さんが起きちゃうでしょうが」
怒鳴り返して清川の方を見ると、顔を赤くした清川が気まずそうに二人を眺めていた。
「お、おはよう、二人とも」
「おはよう」
「目覚めたか」
四人の間に、気まずい沈黙が流れた。
「あ、あのね。実は私、少し前から起きてたの。いつ、言い出せばいいんだろう、って。ごめんね」
清川は正座を少し崩した可愛らしい座り方をして、モジモジと組んだ両手を動かした。
居心地は悪そうだが、顔色はすっかり正常に戻っている。
「ううん、気にしないで。具合はどう?」
「平気だよ。それで、その……」
そう言いながら、清川は視線をうろうろと彷徨わせた。
見る見るうちに頬が赤くなっていく。
「変な、夢を、見たんだけれど」
「清川藍が幼くなったものか? 現実だぞ」
「ふふぇあ~」
容赦ない赤崎の一撃により、清川は顔を真っ赤にしてその場に崩れ落ちた。
「ご迷惑を、おかけしました……」
数秒の沈黙の後、清川が顔を伏せたままで言った。
「ふむ、気にするな」
赤崎は腕を組んで偉そうに頷くが、清川は顔を上げない。
「だって、あんなに駄々をこねて、恥ずかしい。二人とも、ケガしてない?」
「私は平気よ。私が大丈夫なんだから、もっと頑丈な赤崎も大丈夫でしょ」
「当たり前だ」
清川に言われるまで、金森は清川に吹き飛ばされたことなどを忘れていた。
赤崎の方も、衣服は少々破れているが顔の傷や体中にあった打撲の傷はすっかりなくなっている。
二人とも無傷で、ケロリとしていたのだ。
しかし、対照的に清川は羞恥心と罪悪感に身を焼かれているようで、頭を抱えてうずくまった。
「うう~、おひめさまと遊んでるところも、見られちゃったし」
「おひめさまっていうか、守護者ね」
「守護者さん!?」
ずっと顔を伏せていた清川が、初めて顔を上げた。
羞恥心に赤く染まる頬は明らかに熱をはらみ、眼のふちで揺れる涙で瞳が潤んでいる。
「うわ、可愛いわね。って、そうじゃなくて、確かにあれは守護者よ」
「ああ、守護者だ」
金森に同調して、赤崎も深く頷く。
「ほんとに!? 嬉しいなぁ……」
初めははしゃいでいたが、花が枯れるように、清川はすぐに落ち込んだ表情になった。
「せっかく初めて会えたのに、おままごとをせがむって、もっといっぱい、お話したいこと、あったのに……」
せっかく上を向いていた顔が下に沈んでしまう。
俯く清川の目の前に、一冊のメモ帳が突き出された。
『私は嬉しかったですよ。どんな形でも、初めてあなたに見てもらえて、触れてもらえて』
美しい文字が、優しく清川を励ます。
『あなたを救えたことが、嬉しかったのです。お二人が吹き飛ばされる中、私には微笑みかけてくれましたね。優越心を感じてしまいました。なんて、お二人には内緒ですよ』
その「お二人」はメモ帳を覗き込んでいるので全く内緒になっていないが、清川を元気づけようとおどけているだけなので、見られようとも別に構わないのだろう。
清川は宙に浮いて見えるメモ帳をそっと手に取り、守護者から譲り受けると、改めてそこに書かれた美しい文字を見つめた。
そして、大切な人形を抱え込むようにメモ帳をギュッと抱きしめる。
「守護者さん、ありがとう」
目元をほんの少し輝かせて柔らかく笑むと、守護者も穏やかに微笑んで頭を撫でる。
あの時のような温かな空気が流れる中、金森の腹から爆音が鳴り響いた。
「あ~、その、ね。お腹空いたなぁ、なんて」
三人の視線が集中し、金森が薄らと頬を染めて腹を撫でると、清川は泣きながら笑った。