回帰
滋賀県一帯に店舗展開する大手スーパー【未来堂】草津店の中央催事広場では、清水幸子が唖然とした表情で携帯電話を切った。
滋賀エリア攻略部隊として未来堂の各店舗での催事目標をなんとか達成し続け、桝村チームはようやく未来堂の信用を獲得しようとしている。
7日間の長期催事の後半戦に突入し、既に桝村チームは草津店催事目標数字の8割を達成していた。
客足の少ない金曜日の午前をやり過ごすのに各自交代で早めの昼食を取り終えたばかりで、まだ時計は午後1時を指したばかりである。
おおよそこれから以降の時間帯が催事が動き始める頃合で、メインタイムは午後5時を回ってからになるのが通常である。
チームメンバーもそれを体感的に理解していて、昼食後の眠気を振り払おうとビンクジャンパーを着込み始めたところだ。
『どうした清水? 食いすぎて腹でも痛いんか?』 桝村が自分の携帯を返せと清水に腕を突き出しながら問う。
『桝村課長・・午後の定時売上報告ですけど・・』
『どうした?』 桝村がキョトンとした表情で清水に聞き返す
『ギャラリー黒鳥・・現在売上340万円、この時点で全員オーダー達成してます・・』
ワールドアート創設期からの主軸メンバーである桝村も、今回の井川新設部隊結成の趣旨は当然理解している。
井川と共に新規メンバー獲得の為の募集業務に勤しんできたが、まさかこれほど急激な展開を突きつけられるとは予想すらしていなかったのである。
ましてや井川は河上と一緒に東海エリア拡大の為、不在の筈ではないか。
『まいったな~ うちのチームも全開モードでやるしかないぞ~』 桝村は笑顔で清水を見た。
定時売上報告を聞いた加山はすぐさま笑顔を演出して自らが催事受付に入った。
加山が展開する兵庫エリアの中でも三宮駅構内コンコース会場は、今まで幾度となく経験し達成目標を切ったことがない会場ではあったが、自分が惨敗を喫したギャラリー黒鳥の快進撃は加山の営業マンとしての血を昂ぶらせるには充分過ぎる材料であった。
『加山課長?・・』 突然の加山の行動にチームメンバーが困惑するが
『お前ら、新人には絶対に負けるわけにはいかへんで!』そう言い放った後は再び笑顔に戻ったのである。
千里メルシーで定時売上報告を終えた池谷は、荒堀・光嶋に内容を報告したが【やはり来たか】という感情で事実を受け止めていた。
池谷の報告を受けた荒堀・光嶋は衝撃の表情を隠しきれない様子である。
『売上の内訳はどうなってるんですか?』 満島が池谷に内訳を確認する
『はい、林葉・人吉・森田が結婚式の朝で各自80万円、藤田が教会の猫60万円、
秋爪がアイブンのイエローフォレスト40万円で、計340万円の全員オーダーです』
『あのギャラリー黒鳥で・・・』 荒堀はしばらく放心していたが、直ぐに自分のチームを集めるように池谷に指示を出して仕切り直しを計った。
満島もチーム全員を集めたあと手短なミーティングをし、自らがピンクジャンパーを着込んでメンバーと一緒に会場を飛び出して行ったのである。
牧野は展示会場のオープンから自身が率先的に商談する姿をチームの部下に見せ続けるだけでなく、部下の商談のフォローアップに入り成約を決める事に没頭した。
いつも淡々と仕事を熟す牧野の性格を知り尽くすチームメンバーも、牧野の鬼気迫る集中力に気圧されるしかなかったが、定時売上報告後には牧野の行動の真意をやっと理解したのである。
牧野はギャラリー黒鳥の快進撃を予測していたのかも知れない
『さあ、私たちも自分達の展示会を成功させると約束したんやから踏ん張りや』 牧野はチームメンバーに向けて笑顔でそう言った後、配券ジャンパーを手に取った。
『牧野課長! 私たちがお客様を呼んで来ます、任せてください』 牧野の手にあるジャンパーを取り上げて、部下達が展示会場を飛び出して行く。
《私も負ける訳にいかへんよ、初代ちびっこギャングの底力を見せてあげる》
牧野は久しく忘れていた、営業への疼くような楽しみを思い出していた。
ギャラリー黒鳥では全員オーダーを達成してからも、ランチタイムのサラリーマン・OLが蛍ブースに立ち寄って画集を手に取り版画を眺めている。
もうエプロンを着用しなくても櫂達が作り上げる明るい雰囲気だけでこれらの人々が吸い寄せられているようである。
『ゴメンね、お昼休憩やからもう帰らないと・・』 この時間帯では当然の断り文句であるが
『じゃあ、会社の帰りにもう一度来て下さいね・・ライトで浮かび上がる絵は格別綺麗ですから』
『そうですよ、メインタイムは夕方ですからね』相の手がどこからともなく入る
メンバーの誰もが、次に繋げる為の行動を取るのが楽しくて仕方ないという風である。
《この子達まだまだ満足してない・・今日は他チームにとんでもないインパクトを与える事になりそうね》
峰山もエプロンを着用し、無くなりそうな茶を買い足しに走り、定時売上報告を入れ、ずっと動きっぱなしではあるが、不思議と疲労を感じずにサポートを続けた。
東海エリア最多の店舗数を誇る【ショッピングセンターアプリオ】は、ワールドアートの全国展開を成し遂げる為には避けられない必須提携先である。
名古屋中心街にそびえるアプリオ本社ビルの入口で定時売上報告を確認した河上はニヤリと笑って井川を見た。
『晋ちゃん、あいつら暴れだしたで~』 晋ちゃんと呼ばれた井川も微笑を浮かべた。
『これで俺達も・・・アプリオを攻め落とすまで帰れんな・・』
井川はそう言うとアプリオ本社ビルの自動ドアの前に立ち、受付に向かって真っ直ぐ歩き出した。
『おう、その通りや』 河上もそう言うと井川に並び立って受付に向かった。
ワールド第4ビル社長室のソファーに座って北浜謙三はタバコをゆっくりと吸い込んだ。
『それで・・3年目の山を越える算段は出来たんか?』吐き出す煙と同時にそう問いかける。
『はい、河上・井川とも協力して次に必要なメンバーが動き始めました』 北浜の正面に座った中山逸雄は、丁寧にテンポを落としてそう答えた。
『ええか中山、現状維持は後退しか生まんのや・・後手に回ったら終りやで、企業の成長には段階的に3年・5年・10年と超えるべき山があるという事を忘れるなよ』
『はい、承知しています・・・まずは刺激を無くしたメンバーの原点回帰を図ります』
『そうか、原点か・・人間は原点を思い返せても、二度とは原点に戻ることは無いぞ、もっと社員に摩擦と刺激を与えて新生させてやる事や!』
『はい、摩擦と刺激ですか』
『そうや組織は布切れと一緒やっ・・縦横の繊維で出来てるんや! 動かさずほったらかしの布は直ぐに破れるやろ、組織は動く生き物と思え』
それだけ言い残すと、北浜は点けたばかりのタバコを灰皿に押し当ててから後ろ手を挙げて退室した。
櫂達は日が傾き始めるギリギリまで営業を試みた、ようやく撤収作業に入った時には午後7時半を過ぎていたがオーナーは何も言わず作業を待ってくれた。
撤収が済んだ後、井川部隊はガランとしたウッドデッキスペースに集まって輪になった。
『今日は本当にお疲れ様でした、結果を発表します』人吉は歩道の通行人に聞こえないように小声で続けた。
『林葉さん、結婚式の朝80万と同じくコウ・カタヤマ作品自由の飛行船120万円!おめでとう!
続いて藤田さん、教会の猫60万円と同じくコウ・カタヤマ作品 夜更けの凱旋門100万円! おめでとう!
秋爪さんアイブン作品イエローフォレスト40万円と結婚式の朝80万円! おめでとう!
森田くん結婚式の朝80万円!おめでとう! 最後の商談、流星群の河250万は惜しかったけど明日に繋がるナイスファイトでした』
『そして、人吉さん結婚式の朝80万円! おめでとうございます』林葉が人吉に変わって発表した。
『合計売上640万円です! 本当に良かった~』人吉はため息混じりでそう言うと、
『それと、何より峰山さんに感謝したいと思います、本当にありがとうございました』と続けた。
『君達、本当に初日の成功おめでとうっ 私も思わずお手伝いしちゃったけど此処で他会場の結果も報告するね、桝村チーム2件160万円 加山チーム1件180万円 荒堀チーム1件80万円 光嶋チーム1件60万円 牧野チーム4件340万円 です。』 峰山は大袈裟に手を振り上げて拍手を送った後に続けた
『今日の出発の日は忘れないで下さいね、貴方達はもう前に向かってスタートしましたが、この日の経験が何処かで力を与えてくれる事もあるはずです・・・それと、
もうこの日を忘れて明日の営業の事を考えて下さいね!』
『どういう事ですか~』 藤田の突っ込みで全員の笑いの輪が広がり、初日は終了したのである。