最終話 ⑤
神殿で神としての勤めを果たし、神境内の見廻りを終えると己の住まいで書物を広げ、真面目にも勉学を始める……夜遅くまで、時には一晩中。
耐え難くなると、目を閉じて衣の上から胸元に掌を当てる――温もりを感じ、ほうと一息吐く。
ふと、月の明かりに気付いて、がたり、立ち上がり、外へ出た。
神境の一際高い樹上へ飛翔すると、木の幹に背を預け己の神境を見渡す。
満月に照らされたその景色は美しいのだが、オオノ神は浮かぬ表情のまま衣の衿から手を入れ、首に架けていた飾り紐を取り出した。そこには丸い銅鏡が繋がれている。
小さな鈕でしかなかった御神体は、肌身離さず側に置く事で少しずつ回復し、元の鏡の状態にまで戻っていた――不思議な事に裏面の装飾は、簡素な、七芒星の描かれたものに変化していた。
この鏡に己の神力を注げば神身にまで復活するのだろうが、二度と愛しい者を失いたくないオオノ神は身に纏う神気をゆっくりと流す手段を選んだ。
〝神力を吸う事を好む妖なのだから、さっさと力を注いで回復させろ〟と龍神の兄神には言われたが、そこは断固として譲らなかった。
首から外して鏡面を見る……しょぼくれた顔の男が見ている。
何と情けない表情をしているんだ。
そう思うと、涙がじわり、湧いてきた。
俯いて目を閉じる……涙を止めようと試みるが、大粒の涙が幾粒も溢れ出てぼとぼと落ちる。
どうせ誰も見てはおらん。誰も儂の側には居らん。
そう考えながら思う様、涙を出し尽くすとようやく目を開ける……鏡はぐっしょりと濡れてしまっていた。
「あ、わっ、いかん」
慌てて手で涙を拭い取ると、更に衣の袖で残りの水気を拭う。元通りきれいになった事を確かめて安堵し、首に架けようとした、その刹那――
淡い銀の光を放ち、鏡が浮かび上がった。
遠くに見える月の光を覆い隠すように円く仄かな光は大きく広がり、オオノ神を包み込む。その光を抱き締めようとオオノ神は両の腕を大きく開く。抱いているのか、抱かれているのか、分からないまま、その光の心良さに目を細めた。
何故かとても懐かしい気配に浴し、オオノ神は思い出す……多くの狼たちと過ごした時を。
いつの間にか閉じていた目に、柔らかなものが触れた。
ゆっくりと目を開ける……と、唇で涙を拭う存在が、確かな形を持って、其処に、居た。
二度、三度、触れては離れる温もりを確かめたくて、手を伸ばし、触れる。狂おしい程に愛おしい女神の頬に。
「儂の側に……居てくれるのか?」
女神――ジンは返事をしようとその身をオオノ神に近寄せる――柔らかく笑んで唇が開かれる。
空に浮かぶ細い腕をそっと掴んで引き寄せ、己の腕の中に重みを持って迎え入れた時……ようやく安堵したオオノ神は笑んでジンを抱き締めた。
大人しく抱き締められたままでオオノ神を見上げると、ジンは自ら唇を寄せ、ふわり、口付ける。
一度顔を離すと、抱かれたその胸に手をつき少し背を引いて、その顔をゆっくりと眺めてから微笑んだ。
王海、と唇が愛おしそうに名を紡ぐ――はい、と是の応えを返す。
何とも嬉しそうに笑んで目に涙を浮かべながら、今度はオオノ神の方から唇を寄せる。
存在を確かめ合うように長の時をそうして過ごし、やがて、ゆっ……くりと、離れた。
照れた笑みを浮かべたまま、ジンはその身を預けて寛いだ様子を見せる。その身体に両腕をそっと回してオオノ神も笑んだままで、見つめる。
「……身体は大事ないか?」
「はい。ずっとここで、貴方の温もりを感じて……沢山、力を貰いましたから」
ジンは手のひらをオオノ神の逞しい胸板に置く。
「御神体よりも神身の方がジンは綺麗だ」
照れたままでジンは小さく笑う。
「お前の身が散った折には我を失うてしもうたが……良く、戻ってくれた」
「貴方のお陰ですよ」
儂の? とオオノ神は不思議そうに問う。
「貴方の眷属が、僕の糸をこの世界と繋いでくれたから……小さな御神体となって留まれたのです」
「儂の眷属は皆……」
言葉の途中でジンはオオノ神の唇を指で押さえた。細い両手でその大きな手を取り、己の身の上に導く。
あまりに柔らかく美しい微笑みから目を離せないまま、オオノ神はただぼんやりと掌に伝わる温かさを感じ取る。
「滅んでなどいません。ここに、居ます。貴方の新たな……眷属が」
オオノ神は熱に浮かされたように胸を高鳴らせて見惚れていたが……言葉の意味に気付くと慌てた表情で己の手とジンの顔を交互に見遣る。良く見ると手の下――ジンの腹がふんわりと膨らんでいる。
確かめるように軽く、ごく軽く片手に力を加え、そこに居る存在を認めると、更に両手で包み込んだ。大きな背を丸めて覗き込み、そっと、撫でる。
「……ここに、儂の……っ……」
こくり、ジンはゆっくりと、大きく頷いて見せる。
「僕は静かに暮らしたい。貴方の側で、この子たちと共に……」
「儂もジンと……子どもたちと共に……」
ジンと同じ言葉を紡ごうとし、オオノ神ははたとして、たち? と繰り返す。
はい、と事も無げに頷いてジンは微笑む。
「貴方と同じ……とっても温かくて元気な……双子です」
突如、オオノ神の身体の輪郭が溶け、その身が崩れ落ちた。驚いたジンが目を見開いた刹那、その身は狼と化す。
月の光を浴びた銀鼠の毛皮を煌めかせ、狼は一声――遠く長く吠えた。
辛い日々を終えて得た過ぎた幸福に……心から溢れ出すものを抑える事が出来ずに、狼はジンの膝に懐かれる。
長い銀色の髪が風に乱れ、煌めく糸となって二神を包み込み――光は残像を残して消える。
風が去った方から視線を戻し、ジンは己の膝で泣く狼の背を抱き締めた。
この美しい毛皮を持つ狼の群れが神境を駆け、高く澄んだ重奏を奏でる未来を夢想しながら。




