第七話 ⑤
物凄い衝撃と雷鳴に包まれて全ての感覚を失った。
神の死、という感覚をただ、大人しく享受する。
どんな感覚だろう? 不思議と怖くは無かった。
痛みすら無い……
何故か懐かしい感触が唇に触れ、ジンは思わず目を開いた。
優しい琥珀色の瞳が間近で見つめている。
大きな体をした狼の神が自分を包み込み――
全てから、自分を、守っていた。
その温もりに触れた途端、ジンの心を縛る糸が一瞬で焼き切れた――蕩けそうになる決意を何とか奮い立たせ、ジンは大きく身を捩らせて抗う。
「スマン、遅くなった」
唇を離し、オオノ神は開口一番、謝罪の言葉を口にした。胸元に架けられた麻紐が揺れる。
ジンは何とか心を強く強く引き縛り、言い放った。
「放して下さい! 僕は守られたいのではない!!」
優しく、どこか嬉しげな微笑みを崩さないまま、オオノ神はただ、うん、と頷く。
「邪魔をしないで下さい! 戦いの途中……まだ、使命が……」
再度、うん、うん、と頷きだけが返される。
「貴方の事なんて忘れていたのに!!!」
「では何故……泣いている?」
言われて初めて、ジンは己が涙を流している事に気が付いた。
太い指が繊細な動きで涙を拭う。
「戦いなら儂が代わろう。奴らを倒せば良いのか?」
自覚すると涙が更に溢れ出す。
こうなる、と心のどこかで分かっていたから、忘れると決めたのに。
そう思いながらジンは頭を左右に振る。
結界の外では龍神の雷撃が火花を散らしている。
こんな時であるのに、凄まじい攻撃を見事に防いでいる結界の仕組みを自然と分析している己に気付く――幾重にも薄く張られた結界が一枚、また一枚と落花の如くひらめき、一枚落ちると同時に一枚再生され、永遠の守護を作り出している様に綺麗だなと見惚れる。
「では、投降するのか? それなら儂が身柄を預かり守ると約そう」
もう、ジンの心は限界を超えていた。
このままこの男の腕に身を任せてしまいたい衝動に、使命を果たさねばならないという決意に、身が引き裂かれそうな想いに苛まれる。
不意に……歪む景色の端に映る物があった。
助けを求めて見えぬ糸を伸ばし、勢い激しく、引き寄せる。
混乱した様子のジンを落ち着かせようと少し強めに抱き締めた時、不思議な衝撃にオオノ神は視線を下ろした。
安堵しかない笑みを浮かべたジンの表情に見惚れる。
もう一度、唇を重ねたくなり、顎を手に取る。
その口の端から赤い物が滴る。
慌ててジンの肩を持ち、少し身を離して見ると、胸の中心が血に染まっていた。オオノ神が切り飛ばした筈の、鋭い鞭――ジンの背中から深々と鞭の鋒が突き刺さり、その身を刺し貫いている。
「これで世界は元に戻ります」
目を細め、何とも嬉しそうに崩れた笑顔が解れ落ちた。顔だけではない、広い胸に添えられた手、細い指、その神身全てが無数の銀糸と化して血と絡み合う。
神の輪郭を残したままふわりふわと揺れ顔を擽る糸の中に、鏡が垣間見えた。わななく太い指先が触れた途端、鏡は砂と崩れてさらりさらと零れ落ち、大きな掌は虚しく空を掴んだ。
無数の銀糸は群れて大きくうねりながら結界をかき消し、その内に封じていた神々の力とともに血と光を渦巻きながら天へと昇りゆく。
すり抜ける銀糸を掴もうと藻掻く腕を黒い靄が取り巻いた。神の死に惹かれし魍魎の欠片が其所彼処から湧き出で、集いて膨れあがる勢いそのままにオオノ神ごと神境を呑み込む。
堆く溢れに溢れた魍魎は空へと高く闇色の手を伸ばす……その先は長く細く伸びて黒い糸となり、銀の糸へと見る間に追い付いた。黒糸は糸先でくるりと輪を描き、銀糸に絡み付き結び付かんとした――所でびくりと動きを止めた。
魍魎蠢く地が震える――悲痛な雄叫びが轟く。
闇の中心を大きく薙ぎ払い、男神の影が揺らめいた。横様に構えた長槍を仕舞うと影は一匹の狼へと変化し、雄叫びは高く澄んだ遠吠えへと変わる。声の響きは魍魎の塊を崩壊させながら十重二十重と広がり、地から天へと伸びる黒糸の先まで千々に引き裂く。
漂う魍魎の残滓を一閃切り裂き空へ、狼は駆け上がり銀糸を追う……その端に前脚が触れる……牙が触れる……触れる側から溶けて行く。一つ溶け、また一つ溶けるごとに琥珀色の眼が赤く黒く濁って行く。
狼は狂ったように吼えながら高く高く、何処までも銀糸を追い駆けて行く。
解放されし神々の力は、見渡す限りを眩く照らす――空の色を洗い流して現れた雲は五色の光を帯びて漂い、闇の尾を引き連れて飛び去る狼の姿は光に飲まれ消えた。




