30話 譲れない想い②
カッとなった紅葉は、手を振り上げた。
バチン! 乾いた大きな音が響く。
「お姉さまがお嫁に行って以来っ! 私は悪いことばかりっ! お姉さまにすべて吸い取られたんだわっ! そもそもっ! あんたがどうして鳳凰寺家にっ! はじめから全然許せなかったのよっ!」
「うっ……あっ……」
頬を往復でぶたれ、灰音はうめき声をあげる。
「さっさと帰ってくればいいのよっ! そしたらまた元通りっ! 言うこと聞きなさいよっ!」
一際大きなビンタをされ、椅子ごと地面に倒される。椅子が石造りの床を打って、カァンと高い音が響いた。
その拍子に、灰音の懐から、レースのリボンが転がり落ちた。
手足は縛られているので、顔だけで追う。斎にもらった、幸せだった頃の象徴。鳳凰寺家の、赤の色。今は手が届かない。だけど。
(手離したくない……)
目の端に、涙が浮かぶ。
しかし、乱暴に襟をつかまれ起こされて、リボンは見えなくなった。
「おかしいですわね。従順になるよう香を焚いたのに、反抗的ですわ。はぁ。わたくしも、あなたさえ現れなければ、万事上手くいったはずですのよ」
灰音の手に、クイナは無理矢理ペンを握らせた。
「さ、離縁状を用意しておりますの。今ここでサインしてしまいましょう? 斎さまには、『身分不相応な事に気がついた』とでも言ってしまいなさい」
「いや、です……っ」
「これは交渉じゃありませんの。命令ですのよ! いいから書きなさい!」
クイナはペンに手を添え、動かそうと力を入れた。無理矢理にでも書かせる気だ。
しかし、灰音はペンを捨てて、声を振り絞った。
「嫌です! わたしは、斎さまと離縁したくありません……!」
言った側から、涙がこぼれる。
無能になったわたしは、離縁されるだろうけれど、でも、でもね斎さま。
わたし、離縁して欲しくないんです。
あなたの温かい手が、まっすぐな瞳が、もうおそばで見られないなんて、嫌なんです。
初めてわたしに優しくしてくれて、初めてわたしに役目をくれて、そんなあなたを失うのが、こんなにも嫌だなんて、わたし知りませんでした。
あなたに能力を失ったことを言い出せなくて、ごめんなさい。こんなに好きだから、離縁を考えるのがつらくて、今日まで逃げてしまってごめんなさい。
本当は、第二夫人とか使用人とかでもいいからおそばにと、そう願うのが相応なのかもしれません。
だけど、わたしは、
「わたしは、斎さまの妻です。誰にも譲りたくありません!」
「あなたねぇっ! ずうずうしいのよっ! もっと立場をわきまえてくださる!? あなたさえいなければっ! 斎さまはわたくしのものでしたのよっ!」
ずうずうしいなんて、自分が一番わかってる。わかってる! だけど、
「わたしは――わたしが、斎さまのお側にいたいんです……!」
「こ、こいつ――」
紅葉が灰音を取り押さえ、クイナが手を振り上げた――その時。
ドォォンという轟音。そして、地下室の戸が付近の石ごと壊れ、煙を出す。
白い煙の中、メラメラ、パチパチと、炎が燃える音がする。
(この、炎は――)
「な、なんですの!?」
「誰!? ここには誰も入れないんじゃなかったの!?」
煙の中に、人影が浮かび上がる。
そして、現れたのは、
「俺の妻を返してもらおう」
「い、斎さま……」
それは、会いたかった斎の姿だった。
灰音の目から、ぽろりと涙がこぼれる。
(これは、夢……? どうして、来て下さったの……?)
ああ、ああ。来てくれるわけないって思ってた。
あんな姿を見られて、使えないところを見られて、逃げ出したわたしを、斎さまが探すわけないって。だけど――。
「灰音!」
斎はこちらに駆け寄ると、すぐに縄を切って、灰音の体を抱き起こす。
「遅くなってすまない」
「どうしてここに……」
「探していたんだ。もう、大丈夫だ」
彼の匂いが、体温が、嬉しい。
こんなにも、会いたかった。
斎の胸に抱き寄せられて、灰音はその胸に頭を沈めた。
「わたし、すみません。あの……」
「大丈夫だ。大丈夫だから」
言いながら、斎の手が灰音の頭を撫でる。
クイナと紅葉はそれを見て、
「は? ……え? どうしてここが……」
「はぁ!? えっ、ちょっと!? 斎さまぁ??」
信じられないと言った目で斎を見た。
「結界を張りましたのに……どうして……」
「……クイナさま! ……ちっ!」
紅葉はクイナに助けを求めたが、クイナは斎を見て呆然としてしまい、紅葉は舌打ちをした。しかしすぐに笑み浮かべると、大きな声を出した。
「まぁいいわ! 斎さま! 私たち、あなたの秘密を知ってるんだから!」
「……なに?」
斎が灰音を抱いたまま、ギロリと紅葉を睨む。
その冷徹な視線を物ともせず、紅葉は言った。
「あなた、妖怪の姿が見えないんでしょう!? バラされたくなければ、おとなしく要求を呑むのよ! 今すぐお姉さまと離縁してちょうだい!」
「なにを馬鹿なことを。――まさか、そのために灰音をこんなところへ攫ったのか」
「ええ、そうよ。お姉さまには、離縁状を書いてもらう途中だったの」
「か、書いていません! わたし、斎さまと離れたくありません……!」
「なにを当たり前のことを。どうしてコイツに言われて俺たちが離縁しないといけないんだ」
斎が言って、灰音は目を丸くした。
「え……っ。でも、わたし、今朝の山で……」
「それがどうした。気にするな」
斎は灰音の頭をぽんと軽く叩く。
灰音が呆気にとられていると、斎は立ち上がり、再び刀を構えた。
「よくわかった。――俺の後ろにいろ」
「は、はい……」
紅葉の周りには、いつの間にか祓い壺がいくつも置かれている。そして、手には小箱。
「ふふん。お姉さまはここにいるから、能力がようやく使えるわぁ! それに、鏡月院の能力増強の呪具もあるんだからぁっ!」
紅葉は笑みを浮かべて、高らかに呪文を唱える。
「――呪を唱う! 『かごめかごめ・捕縛』! 式神よ、あの男を襲いなさい!」
「オォオオォォォォ……」
祓い壺から人面の豚のような式神がいくつも現れ、斎に向かって飛んで行く。
同時に、小箱から赤い糸が勢いよく飛び出し、ぐるぐると斎の右腕に巻き付いた。
それを見た斎は、淡々と呪文を唱える。
「謹んで奉る。天つ焔よ、我が刃に宿りて穢れを焼き祓い給え。――『炎薙ぎ』!」
彼の刀からは炎が出て、その火は紅葉の糸に燃え移ると、簡単にバラバラになった。
「なんだこれは。おもちゃか?」
紅葉の式神が斎に襲いかかる。
斎はそれを刀で受け、切る。
式神はなおも斎に向かっていき、斎はそれを次々に切り落としていった。
「紅葉さん! なにやってますの!?」
正気を取り戻したクイナが、紅葉に言った。
すると紅葉は青い顔で、
「……出てる?」
「え?」
「私の式神と、糸、出てる……?」
「な、何言ってますの!? 出てますわよ!」
クイナは言ってから、
「まさか、あなた、見えておりませんの……?」
「……っ! 『かごめかごめ・捕縛』!」
紅葉の小箱からもう一度赤い糸が伸びて――見当違いの所に当たった。
(わたしの能力が消えたから、紅葉も見えないんだわ……!)
妹のうろたえる様子を見て、灰音は思った。
紅葉も斎と同じように――ぼんやりと見えていた斎よりもさらに悪く、灰音がいないと妖怪の姿がまったく見えなかったのだろう。そして、灰音を取り戻せばまた見えると踏んだが――本来はそうだったはずだが、今灰音は能力を失っている。よって、紅葉は妖怪の姿が見えないままであった。
「あなた、ふざけているんですの!?」
「違っ……!」
うろたえる紅葉の足下に、チリッと炎が燃える。
「――もう終わりか?」
「え……?」
斎はすべての式神を切り終わり、冷えた目で紅葉を見た。
クイナは顔面蒼白になって、紅葉の肩を揺らす。
「あなたの式神はもう、すべて斎さまに切られましたわよ……! 斎さまが実は妖怪が見えなくて――だから灰音さんを娶ったというあなたの仮説は、どうなりますの!? 斎さまは妖怪が見える! あなたは見えない! どういうことですの!?」
「わ、わかんないわよっ! わかんないっ!」
「わかんないじゃ済まされないですわよ……!」
「じゃあっ、私はなんで見えないのよっ!? 無能はお姉さまだったはずっ! どうして私がっ!?」
騒ぐ紅葉の背後に、斎は刀を抜いたまま立った。
「俺の妻に暴行した上に、さらに暴言を吐くのか? 言ったはずだ、彼女を侮辱する言葉を、俺は断じて許さない――と」
「ひっ……!」
斎の鋭い眼光に射貫かれ、紅葉は今度こそ狼狽したようだった。
「俺は灰音を愛している。だから結婚をした。――そう甘露桜家でも言ったし、鏡月院家でも言ったと思うが?」
「……っ!」
クイナは、斎の袖にすがりついた。
「斎さま! せめてわたくしをっ、第二夫人にしてくださいまし! この度のことは謝りますから! 本妻にしてなど、もう言いませんわ!」
「離せ」
「嫌ですわ! だって、そう! お子! わたくしとならきっと優秀な跡継ぎが産めますわ! 灰音さんに特別な理由がないのなら、つまりは元の噂通り無能ってことでしょう!? でしたら、お子は当然望めませんわ!」
「離せと言っているだろ」
「ぎゃっ!」
斎が腕を振り払い、クイナは尻餅をついた。
「馬鹿なことを言うな。どうして俺がお前を妻に迎えねばならん。なにひとつ理由がない」
「り、理由ならありますわ! 先ほどから申しておりますとおり――」
「うるさい」
ピシャリ。斎はクイナの言葉を遮った。
「俺はお前を選ばない。絶対にだ」
「ぐ……!」
バタバタと複数人の足音がして、中級位の警務課がやってきた。
「斎さま! 遅くなって申し訳ありません!」
「甘露桜紅葉と、鏡月院クイナを牢へ入れろ」
「く、クイナさまをですか!?」
警務課の青年は、少し驚いたようだった。
「そ、そうよ! 斎さま! わたくしは鏡月院! 牢なんかあり得ませんわ!」
「大げさよ! 横暴よ!」
「話は取調室で聞け。この部屋で使われた呪具やこいつらの持ち物を見れば、お前たちでもすぐにわかるだろう」
「はっ!」
警務課は、暴れる紅葉とクイナを取り押さえようとする。
紅葉はキッと灰音を睨み付けた。
「なんなのよぉっ!! 無能はあんただったはずなのよぉぉおぉっ!!」
「!」
叫び声と共に、紅葉の腰に着いていた祓い壺から、式神が飛び出した。それは真っ直ぐ灰音に向かって飛んで――。
「いい加減にしろ」
斎の刀で、切り捨てられた。
「斎さま……!」
「大丈夫か」
斎はすぐに灰音のそばにしゃがみ込んだ。
「わたしは大丈夫です。ありがとうございます」
「なによ、なによ……。あり得ない、あり得ない、あり得ない……」
紅葉はブツブツとつぶやいている。
「現行犯だ。連れて行け」
「はっ!」
警務課は紅葉を再度しっかり縄で縛りあげ、クイナとともに連行していった。
ふたりが連れて行かれるのを見てから、灰音はリボンを拾い上げた。幸いにも、ちぎれたりはしていないようだ。
手首には縄の痕があり、皮膚が赤く擦れている。
(助かった……けど)
灰音は、警務課の人々と話している斎を見た。
紅葉とクイナから解放されて安堵するとともに、彼の気持ちが気になって、心臓がキュッとなる気持ちだった。




