20話 鏡月院クイナ②
「斎さまは気に入った道具しか使いませんわ。だから贈り物は、ペンじゃなくて、インク。こんなこともわからないんですの? ――甘露桜灰音さん?」
「え……?」
振り返ると、そこには華やかな容姿の令嬢が立っていた。長いウェーブがかった髪を蓄え、切れ長の目に添えられた長い睫毛が印象的だ。後ろには従者を数人連れている。彼女は立ったまま、金色の扇子で扇いで言った。
「くすくす。もう旧姓ではお返事出来ないんですの? 偉くなったものね。ほんの少し前まで、下級位の家のお荷物だったのに。一体、どんな手を使ったんですの?」
扇子がバチンと閉じられる。
彼女の目は冷たく、背筋がぞくりとした。
「ずぅっと会いたいと思っておりましたのよ。こんなところでお目にかかれるなんてね」
「あ、あなたは……」
灰音の隣に来た鈴蘭が、ひそひそ声で言った。
「彼女は鏡月院クイナさまよ。――斎さまの元婚約者の」
(斎さまの婚約者……!)
灰音は息をのんだ。
どうして今まで気がつかなかったのだろう。鳳凰寺家の当主である彼に、婚約者がいないはずがなかった。鏡月院家は鳳凰寺家と並ぶ御三家だ。彼女が幼少期からの婚約者であることに、疑いようはなかった。
クイナは目を細めると、再び扇子を広げた。
「わたくし、斎さまの『元婚約者』ではありませんわ。あなたがいようといまいと、構いませんもの。斎さまは今だって、わたくしの婚約者ですわ」
「……どういうことでしょうか?」
「わたくしもね、結婚いたしますわ。第二夫人――いいえ。本妻として」
「え……」
灰音は、自分の父のことを思い出した。確かに妻はひとりだけじゃなくふたり持つことが出来る。だが、それには認められる理由が必要だった。灰音の父の場合は、灰音の実母・百合子が病弱で命の危険があったこと、跡取りが欲しかったことが挙げられる。
心臓が、ドクンドクンと大きな音を立てる。
(わたし、勝手に斎さまの妻は、わたしひとりだと思ってた……)
目の前の彼女は、美しい。それが、恐ろしい。その彼女の薄い唇が、弧を描く。
「あなた、〝甘露桜家の無能〟って呼ばれていたんでしょう? それくらいわたくしだって知っているわ。もちろん、斎さまだってご存じのはずよね。……斎さまと彼のお父さまは、あなたの血じゃ不服なのよ。――わかる?」
彼女がなにを言っているのか、わからない。
ただ、胸がざわざわして、うまく呼吸が出来なかった。
「わからないのね? うふふ。いいわ。教えて差し上げる」
クイナは灰音の額に扇子を突きつけると、高らかに言い放った。
「鳳凰寺家は、あなたに跡取りを産ませる気はないってこと! わたくしが、斎さまのお子を産むわ!」
「……っ」
喉の奥がヒュっとなって、首に綿を詰められたみたいだった。
(斎さまの、お子……?)
頭の中が、ぐるぐるする。
わたしは、斎さまと夜を過ごしたことがない。
それはただ彼の〝目〟として契約したからだと、そう思い込もうとしてきたけれど。
(斎さまは、わたしとお子を作るつもりが、端から、ない……)
わたしは、斎さまが好き。だけど、彼はわたしのことが好きじゃない。
彼はわたしの能力を買っただけ……。みんなに言ってる、恋愛結婚なんて真っ赤な嘘。わたしと斎さまは、恋愛なんてしていないのだ。
灰音の体は石になったかのように、少しも動かせない。
クイナはなおも続けた。
「わたくしは、鏡月院。そして有能な祓い屋ですわ。無能なあなたとは違いますの」
「…………」
「あなたがもういるってことが邪魔だけど、結局は血筋が勝つのよ。――斎さまは返してもらうわ」
優雅な笑みを浮かべて、クイナはその場から去って行く。
途中で立ち止まり、振り返って言った。
「――あ。そうそう。わたくしも五節の舞姫に選ばれていますの。仲良くしましょうね? 鳳凰寺灰音さん? ――あら、今度も返事をしてくださらないの? くすくす!」
頭が真っ白になって、灰音はそれ以上何も考えられなかった。
◆
家の前で馬車を降りた灰音は、ぼぅっとした顔で鳳凰寺家の門を見上げる。
(……今、斎さまにお会いしたら、わたし……)
――事実を突きつけられるのが、怖い。彼に会って話を聞く勇気が、持てない。
灰音の足は自然と家から離れ、ふらりと歩き出す。
夕日に照らされ、灰音の影が長く伸びる。地面を見ながら歩いていると、自分が薄っぺらい棒人間のように思えた。
遠くに行く気力も、ない。
近くに公園を見つけ、灰音はそこへ足を運んだ。周囲に人影はなく、ぽつんとあるベンチに腰掛ける。近くの川の水音だけが遠く響き、ぬるい風が髪を撫でた。
(斎さま、本当に……クイナさまと……)
灰音は握力のない手を握る。
考えたくなくて、考えるのをやめた。風に髪を揺らすのを任せ、足下の草が揺れるのを意味もなく眺める。
そうしていると、声を掛けられた。
「……あれ? 灰音ちゃん?」




