第10話前半「カレー」
◇避難民
目を開けると、天井が白い。
寝袋の床から見上げていた天井とは、高さがちがう。
背中の下で、シーツが体の形に沈んでいる。
窓の外は、もう明るかった。
椅子の背に広げたTシャツに触れると、乾いている。
靴下も、タオル掛けの上で固くなっていた。
袖を通すと、石鹸の匂いがする。
昨夜、浴槽の湯で二度揉んだ匂いだ。
奥のベッドでは、包帯の男がもう起きている。
シーツの上に缶と銀色の袋を並べ、一つずつ持ち上げる。
指でなぞってから、箱へ戻していく。
「おはようございます」
「おはようさあ」
男は手を止めずに答え、最後の袋を箱の隅へ押し込んだ。
朝の水は、寝床のフロアで配られる。
部屋を出るとき、男は箱を抱えて立ち上がった。
置いていく、という考えはないらしい。
客室の階の絨毯は、足音を吸う。
階段を下りるにつれて、靴の音が戻ってくる。
寝床のフロアは、床で寝た人たちで埋まっていた。
寝袋と寝袋のあいだの細い通り道を、男の後ろについて歩く。
汗のにおいがする。
一人のものではない。
二日分、人が詰まっていた場所のにおいだ。
泥はもう、誰の腕にも足にも残っていない。
毛布から顔を出した女の人と、すれ違う。
そのとき、自分の髪から石鹸の匂いがした。
自分の寝袋があった場所の前で、足が止まる。
そこは空いていた。
隣の人が、空いた分へ荷物を寄せている。
鞄が二つと、丸めた上着。
その人は顔を上げない。
俺も、声をかけなかった。
一晩、上で寝ただけだ。
水の列は、窓のほうへ伸びている。
包帯の男の後ろに並ぶ。
前の二人が、午後のことを話していた。
「三回目、今日は何やらされるんだろうな」
「昨日が水だったから、次は食いもんじゃないか」
「やめろよ、腹減る」
後ろからも、同じような話が聞こえる。
午後に三回目があることは、誰の話の中でも決まっていた。
列が一人分、前へ進む。
水を受け取って振り返ると、寝袋のあいだに人が集まっていた。
輪の真ん中に、何人かが座っている。
膝の上に、保存食の箱や、輪ゴムで留めた千円札の束。
「この指輪で、千円だけでも」
「三千円で、食べるものを少し分けてもらえませんか」
差し出される物が、床の上に並んでいく。
指輪。金のネックレス。財布から出した札。
封を切っていないタバコと、ウイスキーの小瓶。
座っている側は、すぐには頷かない。
指輪を受け取ると、裏返して内側の刻印を見る。
それから、持ち主の手のひらへ返す。
包帯の男が輪のそばを通ると、何人もの顔が箱のほうへ向いた。
「それ、食べるものですよね」
「千円でいい。いや、二千円出します」
男は首を振る。
差し出された指輪にも、札にも、同じように振る。
輪の外れで、女の人が鞄の底から小さな包みを出した。
外国の字が印刷された、薄い紙の包みだ。
男の足が止まった。
「これは、食べたことないさあ」
男はしゃがみ込み、箱の蓋を開けて銀色の袋を一つ出す。
女の人の手に載せ、紙の包みを受け取る。
包みを鼻に近づけて、少し笑った。
俺の前に、男が一人立った。
四十くらいで、片手に腕時計を握っている。
外したばかりらしく、手首に白い跡が残っていた。
「これで、千円。換えてもらえないか」
昨日の朝の売店で、俺はこの男の前に並んでいた。
一万円札を出して、おつりを受け取ったところを見られている。
財布には、そのおつりがまだ入っている。
「すみません」
男の口元が、ゆっくり下がった。
「上の部屋に泊まって、金もまだ残ってるんだろ」
「こっちは、なんにもないんだよ」
俺は何も返さなかった。
男は舌打ちをして、隣の寝袋の前にしゃがむ。
同じ話を、同じ順番で始めている。
フロアの入口に、今朝も長机が出た。
従業員が段ボールを開けて、品物を並べていく。
靴と下着の横に、昨日はなかった上着と毛布が積まれた。
交換の輪にいた何人かが、机のほうを振り返る。
振り返って、自分の手の中の指輪を見る。
座っている側の一人が、膝の上の札の束を取り上げた。
輪を抜けて、長机の列の後ろに並ぶ。
さっきまで指輪一つで千円と言っていた声が、聞こえなくなった。
時計とネックレスを並べても、座っている側は首を振る。
隣の寝袋の前で、あの男が時計と指輪を両方差し出していた。
昼になって、ホテル食堂に通される。
白いクロスの長いテーブルの上を、小さなドローンが回っている。
台の上に、カレーの鍋が三つ並んでいた。
キーマと、ビーフと、バターチキン。
バターチキンの表面には、白いクリームが線を引いている。
鍋の横には、ご飯のお櫃と、かごに積んだナン。
スープの寸胴が二つ。
サラダは、野菜ごとに器が分かれていた。
レタス、きゅうり、トマト、細く切った人参。
台の端には、杏仁豆腐とティラミスの小皿が、きっちり列になっている。
ドローンが降りてきて、俺たちのテーブルの前で止まった。
昨日の夕食と同じ順番だ。
チームの子供たちが、先に台へ向かった。
小学生の妹はナンのかごへまっすぐ行き、中学生の兄は鍋を端から覗く。
包帯の男は一つの皿に三種類のカレーを並べて盛った。
サラダの器の前では、野菜を一種類ずつ、全部皿に載せている。
俺はビーフカレーとご飯を取り、レタスを少し添えた。
席に着いて、スプーンを入れる。
すくい上げると、湯気と一緒に乾いた甘い香りが立ち、腹が先に鳴った。
ルーの中に、胡椒の粒より少し大きい、丸い実が沈んでいる。
口に入れると、肉の筋がほどけて舌の上で崩れる。
奥歯で実を噛むと、柑橘の皮に似た匂いが鼻の奥へ抜けた。
「……コリアンダーだ。実のまま入ってる」
俺たちのあとに、二番目のチームが呼ばれた。
頭一つ高い女性が、台の前に出る。
後ろでまとめた、明るい金色の髪。
昨日、プリンを全部取っていった人だ。
金色の髪の女性は台の端から端まで目を走らせ、もう一度、端から見直した。
両手のひらを上に向けて、肩をすくめる。
天井を仰いで、大きく息を吐いた。
それからカレーをよそい、デザートの列には手を伸ばさずに席へ戻った。
その次のチームが呼ばれる。
俺の席からは、台の前がよく見えた。
三つの鍋を全部回って、一つの皿に流し込む人がいる。
ナンを一枚取り、少し考えて、もう一枚重ねる。
隣の人がそれを見て、三枚目を載せた。
「どうせ点は、午後で決まるんだろ」
誰に言ったのでもない声だった。
返事はない。
止める人もいない。
サラダの台の前で、女子高生が一人、足を止めたままだ。
明るい色に染めた髪を、頭の高いところで結んでいる。
一本ずつ色の違う長い爪で、トングを器用に動かす。
つまむのはトマトばかりで、皿の上に赤い山ができていく。
その後ろで、同じテーブルの男の人がナンのかごに手を入れた。
一枚、二枚と重ねて、かごの中身が半分になるまで取っていく。
女子高生は振り返りもしない。
入口のほうから、エプロン姿の女の人が入ってきた。
台の脇に立っていた白石のところへ、まっすぐ歩いていく。
「すみませえん、余った野菜って、もらえませんかあ」
「キャベツの芯とか、人参のへたとか」
白石が、にこやかに頷く。
「かしこまりました、菱沼さん」
目で合図すると、ホテルマンが奥へ消えた。
戻ってきた手に、ふくらんだ袋が一つ。
菱沼は袋を両腕で抱え、頭を下げて出ていった。
後ろのほうのチームが呼ばれるころには、ナンのかごは空になっていた。
鍋は、バターチキンだけがまだ多く残っている。
ほかの二つは、底が見えていた。
生野菜の器には、レタスもきゅうりも、まだ山になっている。
ご飯は、一人に一杯分はあった。
デザートの小皿は、一つも残っていない。
黄緑のジャージの男が、その中で呼ばれた。
皿を持って、同じチームのテーブルから離れた端の席に、一人で座る。
最後のチームが席に着くころ、台の脇のスタッフの動きが変わった。
配膳の手を止めて、二人、三人と顔を寄せる。
何か小声で確かめ合い、そのうちの何人かが足早に出ていく。
白石の姿も、いつの間にか見えなくなっていた。
食堂の中は、話し声と、皿にスプーンの当たる音だけだ。
カレーの皿を脇へ寄せたとき、その音に別の音が混じった。
低く、ばた、ばた、と布を叩くような音だ。
皿の上で、スプーンの柄がかすかに震えている。
耳を澄ますと、音はもう話し声の中に沈んでいた。
天井のほうからだったのか、窓の外からだったのかも分からない。
ヘリの音に、似ていた。
周りを見ても、手を止めている人はいない。
向かいの席で、眼鏡の男が番号札をテーブルに出していた。
「三回目も、支配人さんが呼びに来るんですかね」
誰も答えない。
俺は、さっきまで白石が立っていた台の脇を見た。
白石は、まだ戻ってこない。




