第10話後半「カニ鍋」
昼食のあと、寝床のフロアへ戻った。
包帯の男は箱を枕にして、もう目を閉じている。
番号札を握ったまま、壁にもたれて座る人。
靴を履いたまま、寝袋の上に横になる人。
寝袋に潜りこむ人は、一人もいない。
窓からの光が、床の上を少しずつ伸びていく。
天井のスピーカーは黙っている。
「まだかよ」
誰かが言ったが、返事はない。
朝、交換の輪ができていたあたりにも、もう人は集まっていなかった。
光が床の端まで届いたころ、スピーカーが鳴る。
「管制AIのキーロンです」
「本日の適性確認は、ありません」
放送は、それだけで切れた。
フロアがざわつく。
壁際の男が、握っていた番号札をしばらく眺めて、ポケットにしまう。
隣の人も、その隣の人も、同じように札をしまっていった。
昼の食堂で、スタッフが顔を寄せ合い、小声で何か確かめていたのを思い出す。
何人かが足早に出ていき、白石もいつの間にか見えなくなった。
あれから、白石を一度も見ていない。
昼に何かがあって、それで適性確認がなくなったのかもしれない。
夕方、ホテル食堂に通された。
白いクロスのテーブルの真ん中に、卓上コンロが二つずつ据えてある。
その上に、空の土鍋が二つ。
手前には、ポン酢と胡麻だれと、いくつかのたれの小鉢が並んでいた。
壁際には、出汁の寸胴が置いてある。
テーブルごとに出汁を二つ選ぶと、ホテルマンが柄杓で鍋に張っていく。
具材の台には、氷を敷いた大皿が続いていた。
太いタラバの脚と、細く長い松葉の脚。
海老や貝を盛った皿。
牛肉、豚肉、鶏肉が、それぞれ大皿に薄く広げてある。
野菜の籠に、うどんの玉、雑炊用のご飯のお櫃と卵。
漬物の小鉢がいくつも並び、奥の台には切り分けたメロンが積まれている。
ドローンが降りてくる。
昼と同じなら、最初は俺たちのテーブルだ。
ドローンは、俺たちの頭の上を通り過ぎた。
止まったのは、食堂の中ほどのテーブルの前だった。
椅子が鳴って、ネイルの女子高生が跳ねるように立ち上がる。
高く結った明るい髪に、色の違う長い爪。
昼に、トマトの山を作っていた子だ。
「え、待って、うちら一位じゃん」
「なんでか全然わかんないけど、マジでアガるんだけど」
「ウケる。ねえ、蟹いこ、蟹」
同じテーブルの大人たちが、顔を見合わせる。
女子高生に引っぱられるように、皆で台へ向かう。
二番目に、ドローンが俺たちのテーブルへ降りてきた。
昨夜も、今日の昼も、一番だった。
台へ向かう背中に、隣のテーブルの声が届く。
「……今日、何もやってないよな」
「じゃあ、昼の飯か」
「……飯で、点が動いてる」
別のテーブルからも声が上がった。
「あそこ、昼にナンをごっそり持ってったとこだろ」
「取ったもん勝ちかよ」
食堂のあちこちで、顔が上がっていく。
何が点になったのか、確かめる人はいない。
どうして一つ下がったのか、俺にも分からなかった。
昼の俺の皿には、ビーフカレーとご飯と、少しのレタスしかなかった。
台の大皿から、松葉の脚を少し取る。
野菜の籠の前では、手が止まった。
根の付いたせりと、肉厚のしいたけ。
どちらも好物で、これは遠慮せずに盆へ載せる。
蟹も肉も、俺が取らなくても、同じテーブルの誰かが山ほど運んでくる。
代わりに、ご飯を多めによそい、卵もいくつか取った。
鍋は、締めの雑炊が本番だ。
席に戻ると、鍋の縁で出汁が小さく泡を立てていた。
刺青の男が、タラバの脚を盆に山と積んで戻ってくる。
鍋の脇に、どさりと置いた。
太い脚が、盆の縁からはみ出している。
眼鏡の男は、牛肉を皿に多めに盛ってきた。
中学生の兄と小学生の妹は、豚肉と鶏肉を一皿ずつ分けて運んでくる。
包帯の男の盆には、台にあったものが、一つずつ全部載っていた。
タラバと松葉の脚が一本ずつと、海老と貝が並ぶ。
牛と豚と鶏は、一種類ずつ皿に分けてある。
野菜は籠のものを少しずつ、うどんの玉も一つ取ってきた。
漬物の小鉢も種類ごとに並び、端にはメロンが一切れ載っている。
殻の割れ目から身を引き出し、鍋にくぐらせる。
白い身が、繊維に沿ってほどけて広がった。
ポン酢に浸して、口に入れた。
鼻へ先に抜けたのは、柑橘の皮の匂いだ。
瓶のポン酢の、つんとくる酸っぱさがない。
酸味は丸く、蟹の甘みの後ろへ引いていく。
飲みこんだあとに、昆布と鰹の旨みが舌の上に残る。
「……これ、搾ってある」
隣の包帯の男に、小鉢を少し寄せて見せた。
「このポン酢、瓶のじゃないです。搾ってあります」
包帯の男の前には、たれの小鉢が全部並んでいる。
ポン酢、胡麻だれ、そのほかにも二つ三つ。
蟹の身を一切れずつ、順に違うたれへくぐらせていた。
「いいさあ」
包帯の男は、次の一切れを胡麻だれへ運ぶ。
「いや、そうじゃなくて……」
続きは出てこなかった。
俺はもう一度、ポン酢に蟹をくぐらせた。
三番目、四番目と、チームが呼ばれていく。
台の前の様子が、昼とは違っていた。
蟹の大皿を、盆ごと抱えて戻る人がいる。
肉の皿を何枚も重ねて、そのまま運んでいく人がいる。
昼にはあった、少し考えてから手を伸ばす間が、どこにもない。
誰かが取れば、その隣の人がもっと取った。
後ろのほうのチームが台に着くころには、蟹と肉の大皿は空になっていた。
残っているのは、野菜の籠と、うどんの玉と、漬物の小鉢だ。
金色の髪の女性がいるテーブルは、そのころになってやっと呼ばれた。
鍋の具がなくなったころ、残った出汁を見下ろした。
蟹の脚と、肉と、せりと、しいたけをくぐらせた出汁だ。
最初より色が濃く、表面に細かい脂が浮いている。
ご飯を入れて、箸でほぐす。
米の粒が離れたところで、ふつふつと泡が戻ってきた。
溶いた卵を、鍋の縁から回し入れる。
箸で、二度ほど切った。
もう一度煮立ったところで、火を止める。
盆に残っていたせりの葉を、上に散らした。
蓋をして、ひと呼吸待つ。
蓋を取ると、湯気と一緒に、せりの青い匂いが立った。
椀によそって、ポン酢をかける。
れんげで一口すすると、蟹の甘みを吸った米が舌の上でほどける。
卵は、ところどころがまだとろりと柔らかい。
そこにポン酢の酸味がからんで、出汁の重さがすっと軽くなる。
しいたけから出た旨みが、米の奥から遅れてくる。
せりの茎を噛むと、しゃきりと音がした。
鍋の向こうの兄と妹に、椀を二つ差し出した。
「これ、うまいよ」
妹が、椀を両手で受け取る。
兄は湯気を吹いてから、れんげを入れた。
二人とも、しばらく顔を上げない。
二杯目は、ポン酢をかけずに食べた。
蟹から出た塩気で、味はもう決まっている。
鍋の底に薄く張りついた米を、れんげの先でこそげ取った。
食事のあと、ドローンがテーブルの間を回りはじめる。
一人ずつ、本人にだけ画面を向けていく。
俺の前にも一機が止まった。
画面に、数字が一つ。
昨日の夜に見た数字とは、違っている。
隣のテーブルでは、画面を見た人が顔を上げ、自分の皿を見下ろしている。
皿の上には、蟹の殻が積み上がっていた。
ホテルマンが、料理の台のあった場所に長机を出す。
机の上に、白い用紙とペンが置かれていく。
白石の姿はない。
ホテルマンの一人が、番号札の順に読み上げはじめた。
「百七番の方」と呼ばれて、机の前に立つ。
昨日と同じ用紙だ。
特典の名前と、数字を書く欄。
俺は、また客室の欄に一と書いた。
席へ戻る途中で、後ろのポケットの財布を、前のポケットへ移す。
椅子に座って、靴紐を一度ほどき、きつく結び直した。
今夜は、靴を脱がずに寝ることにする。




