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大地震と津波で街は崩壊した。無傷の防災ビルに逃げ込んだら、人間性のテストが始まった。  作者: makubes


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第1話 南海トラフ

 緊急地震速報が、コンビニの店内に鳴り響いた。

 レジに並んでいた客たちが、一斉にスマホを取り出す。

 画面を見て、顔を上げる。

 警報音だけが鳴り続け、誰も動かない。

 床が跳ね上がった。


 客の体が前に投げ出され、レジ台に胸を打ちつける。

 奥の棚が傾き、中身を吐き出しながら通路へ倒れてくる。

 隣の棚も、巻き込まれて倒れた。


 ビル街の上を走る高架で、ハンドルが運転手の手の中で暴れた。

 両側のビルの窓ガラスが割れ、

 街灯の光をはじきながら下の通りへ降り注ぐ。

 前方で、橋桁の継ぎ目が外れた。

 前の車のテールランプが、傾いた路面を滑り、視界から消える。

 運転手はブレーキを踏み込んだ。

 車は、継ぎ目の手前で止まった。

 ヘッドライトの先に、道路はなかった。


 一分。

 揺れは、まだ続いている。

 街の明かりが、区画ごとに消えていった。


 203X年、二十二時十八分。

 南海トラフ巨大地震が、日本各地を襲った。

 マグニチュード九・一。


 二時間後。


 沖の暗がりに、白い線が一本、横に長く現れる。

 線は湾の端から端まで、途切れずにつながっていた。

 白い線が岸壁にぶつかり、黒い水が街へなだれ込む。


 湾岸の幹線道路は、内陸へ向かう車で埋まっていた。

 その中ほどに、白い軽自動車が一台いる。

 後ろの暗がりから、何かが潰れる音が近づいてくる。

 ルームミラーの中で、ライトが一つ消えた。

 また一つ。


 足首が冷たい。

 ドアノブを引き、肩で押す。

 外から押さえつけられたように、ドアは動かない。

 両手で、クラクションを押さえる。


 ふいに、体が軽くなった。

 車は回りながら流され、

 道路の下へ潜るアンダーパスの暗がりへ傾いていく。

 ライトが水の中で一度光り、消える。

 クラクションが、途切れた。


 水は引き、しばらくして、ふたたび押し寄せる。

 それが、何度も繰り返された。


◇避難民


 いつの間にか、水の音がしなくなっていた。

 車の警報も、防犯ベルも、もう鳴っていない。

 自分の呼吸の音が、やけに大きく聞こえる。


 オフィスは真っ暗だった。

 割れた窓から、潮と泥の匂いの風が吹き込んでくる。

 俺は壁に背中をつけて座り、スマホを握っていた。

 画面の右上は、圏外のまま動かない。

 スマホを握る手が、止まらずに震えている。


 昇進したのは先月だ。

 増えた仕事にまだ慣れなくて、今夜は一人で残っていた。

 十時を回っても、俺はまだキーボードを叩いていた。


 床が、横にゆっくりと動き始める。

 まただ。

 俺は床に手をつき、頭を膝に寄せた。

 揺れは、なかなか終わらない。

 このまま大きくなったら。

 このビルが、もたなかったら。

 天井から細かい粉が落ちて、髪に積もった。


 喉が渇いていた。

 給湯室の蛇口は、空気の抜ける音がするだけだ。

 電源の消えたウォーターサーバーのコックを押すと、細く水が出る。

 手が震えて、半分は顎を伝って床に落ちた。


 窓際から見下ろした通りに、明かりが一つもなかった。

 俺は窓の外に向かって、声を張り上げる。

「誰か、いないのか!」

 声は、どこにも届かずに消えていく。

 もう一度、叫ぶ。

 返事はない。


 水に浸かった道路に、ハザードを点けた車が一台浮いていた。

 点く間隔が少しずつ長くなり、そのうち点かなくなった。


 目を戻そうとしたとき、視界の端に白い点が残る。


 数ブロック先に、窓に明かりのついたビルが一棟、立っている。

 周りのビルは全部、黒い影になっていた。

 通勤の途中に、毎朝その前を通るビルだ。

 開業前の、防災を売りにしたビル。

 名前までは、覚えていない。

 窓の明かりは、一つも欠けていなかった。


 あそこには、明かりがある。

 明かりがあるなら、電気がある。

 水も、あるかもしれない。

 人も、いるかもしれない。


 手の震えが、止まっていた。

 明るくなったら、あそこへ行く。


 窓際に座ったまま、何度も余震をやり過ごした。

 窓の外が、灰色に明るくなった。

 俺は固まった膝を伸ばし、壁に手をついて立ち上がる。

 廊下の奥の階段は暗く、手すりを握って一段ずつ下りた。

 下の方の壁に、茶色い線が横に引かれている。

 そこから下は、壁も手すりも泥で濡れていた。


 入口のガラスは割れて、枠しか残っていなかった。

 ロビーに流れ込んだ机と瓦礫をよけ、枠をくぐって外へ出る。


 外は、一面の泥だった。

 踏み出した足が、足首まで沈む。

 靴の中に冷たい泥が入り込み、引き抜くたびに重さが増していく。

 潮とどぶの匂いが、喉の奥に張りついた。

 一晩眠っていない頭が、歩くたびに鈍く揺れる。


 横倒しの車、ちぎれた看板、どこかの家の柱。

 その間を縫って、夜に見たビルへ向かった。

 ビル街の切れ目の向こうで、煙が何本も空へ上がっていた。


 瓦礫の陰から、ぽつりぽつりと人が出てくる。

 誰も口をきかない。

 みんな、同じ方へ歩いていく。


 近づくと、ビルの下の方は黒い壁だった。

 扉も窓もない黒い面が、何段も積み重なっている。

 泥は、その壁の手前で止まっていた。


 黒い壁に沿って、コンクリートの坂が、

 折り返しながら上へ延びている。

 車路だ。

 下の段のガードレールはひしゃげ、折り返しに瓦礫が積み重なっていた。


 車路に入る地上の入口には、金属のゲートがあった。

 片側の柱からもぎ取られ、ねじれたまま瓦礫に埋もれている。

 その脇の隙間をくぐって、坂に足をかけた。


 顔を上げると、車路の入口の上に看板があった。


 あらゆる災害から、あなたを守る。

 パーフェクトガーデン。


 坂を折り返しながら上がりきると、ビルの入口があった。

 その上に、分厚い壁が引き上げられている。

 奥の二か所にも、同じ壁が上がっている。

 壁と壁の間は、四方を囲まれた狭い部屋になっていた。


 三枚目の壁の下をくぐると、明るい駐車場に出た。

 柱の間に長机が並び、その前に、先に着いた人たちが列を作っている。

 俺は、列の最後に並んだ。


 列は、思ったより早く進んだ。

 長机の向こうに、ホテルマンのような揃いの制服を着た人たちが並んでいる。

 俺の番が来ると、一枚の紙とボールペンが差し出された。


 上の端に、宿泊カードと印刷されている。

 氏名、住所、電話番号。

 出張先のホテルで、何度も書いた紙だ。


 名前を書き、住所を書く。

 電話番号の欄で、ペン先が一度止まった。

 圏外なのに、意味があるのか。

 それでも最後の数字まで書いて、カードを返した。

 従業員は黙って受け取り、代わりに小さな札を一枚よこした。

 百七番、と印刷されている。

 従業員は、隣の机を手で示した。


 隣の机では、水とおにぎりと味噌汁が配られていた。

 一人に、ペットボトルが二本、おにぎりが二つ。

 紙のカップの味噌汁が一杯。

 カップから湯気が上がり、両手で持つと指先が熱かった。


 柱にもたれて、乾いた床に腰を下ろす。

 先に、味噌汁に口をつけた。

 熱い汁が喉を通り、腹の底に落ちていく。

 味噌の向こうに、魚の香りがうっすら残っている。

 カツオにしては、香りが軽い。

「……マグロ節か。珍しいな」

 マグロ節は、ふつうは吸い物に使う。味噌に負けるからだ。

 カップを包んだ指に、じわじわと血が戻ってくる。

 気づくと、膝の上に丸めたラップが二つ転がっていた。


 受付の脇には、折りたたみの机が出ていた。

 白衣の女性が、椅子に座らせた人の足を膝に載せている。

 そばには警備員が二人立ち、その前にケガをした人の列ができていた。

 泥の中で足を切った人、瓦礫で手のひらを擦りむいた人。


「はい、次の人。あら、きれいに切ったわね」


 女性は傷口を洗いながら、軽い調子で話し続ける。


「大丈夫よ。傷跡を消すのは、私がいちばん得意だから」


 言われた男は、何と返していいのか分からずに頷いていた。

 女性の手は、話しているあいだも止まらない。


 水の机の前で、蛍光の黄緑のジャージを着た男が、

 受け取ったおにぎりを見下ろしていた。

 首に、太い金のネックレスが下がっている。


「二個で足りるかよ」


 ぼそりと言って、男はそのまま床に座り込んだ。

 従業員は顔色を変えず、次の人に同じ数を手渡していく。


 壁にもたれて、口を開けて眠っている人がいる。

 靴を脱いで逆さにし、中の泥を床に叩き出している人もいる。


 俺は柱に頭をつけた。

 目を閉じると、まぶたの裏で、まだ床が横に揺れている。


 車路の方から、足音が聞こえなくなった。

 受付の机の前にも、もう列はない。

 斜め前で、年配の男が膝を抱えたまま、長く息を吐いた。


「やっと、助かった」


 誰に言うでもない声だった。

 近くの何人かが、黙って頷く。


 しばらくして、あちこちで小さな話し声が始まった。

 どこから歩いてきたのか。家族と連絡はついたのか。


 駐車場の奥で、硬い靴音がした。

 柱の陰から、女性が一人、従業員を二人連れて歩いてくる。

 体の線に合わせて仕立てた、濃紺のスーツを着ていた。

 従業員の揃いの制服とは、生地の色からして違う。

 襟もとで、小さな金色のバッジが光っている。


 女性は、床に座り込んだ人のあいだを抜けてくる。

 スーツにも靴にも、泥の跳ね一つない。

 整った顔に、化粧の崩れもなかった。

 話し声が、彼女の歩く先から順に止んでいく。


 駐車場の中ほどで、女性は足を止めた。


「皆さま、ご無事で何よりです。

このビルのホテルで支配人を務めております、白石と申します」


 よく通る声だった。

 張り上げているようには聞こえない。


「このビルは、あらゆる災害に備えて造られた、完全な建物です。

水も、食料も、燃料も、十分にございます。

皆さまの安全は、私どもがお守りいたします」


 どこかで、鼻をすする音がした。


 白石は、受付の脇へ手を向ける。


「遠藤先生の治療は、もうお受けになりましたか。

おケガのある方は、どうぞご遠慮なくお申し出ください」


 白衣の女性が、顔を上げずに片手を振った。

 さっきの軽口の医者は、遠藤というらしい。


 白石は、駐車場に目を戻した。


「上の階には、ホテルもございます。

ただ、客室はただいま、準備が整っておりません」


 水の机のそばで、誰かが立ち上がった。

 黄緑のジャージの男だった。

 金のネックレスを指でいじりながら、白石の方へ歩き出す。


「準備なんか、どうでもいいんだよ」


 座っている人の脚をまたぎ、男は白石の前まで出た。


「俺たちは避難して、やっとここまでたどり着いたんだ。

ホテル、あるんだろ。早く入れてくれ」


 何人かが顔を上げ、白石を見た。

 俺も、白石の口もとから目を離せずにいた。


 白石は、男から目を逸らさない。


「おっしゃる通りです。皆さまは夜通し大変な思いをされて、

ここまでお越しになりました」


 男の肩が、一度大きく上下する。


「ですから、ご案内の前に、皆さまにお願いがございます」


 白石は、駐車場の全員を見渡した。


「これより、適性確認を始めます」-


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